
冬のランドセル売り場は、涙の予感がする場所だと思っていた。
娘のひなが「これがいい」と指差したのは、深いローズ色のランドセルだった。
革の表面に細かな型押しのバラが入った、いかにも女の子らしいデザイン。わたしは思わず、息を呑んだ。
※
兄に最後に会ったのは、十一年前の秋だった。
就職の報告をするために実家へ帰った夜、兄の賢司は台所で黙って夕飯の片付けをしていた。蛇口から流れる水の音だけが台所に響いていた。わたしが「東京で暮らすことに決めた」と告げると、賢司は流しの水を止めて振り返った。
「そうか」
それだけだった。
わたしにはその短さが、突き放しているように聞こえた。応援の一言も、心配の一言もないのかと腹が立って、「帰ってこないから」と言い残し、翌朝、誰にも声をかけずに実家を出た。
それきり、ちゃんと顔を合わせていなかった。
電話をかけたのは父が入院したときと、その後亡くなったときの二回だけ。どちらも用件だけを伝えて切った。賢司からも、それ以上の言葉はなかった。わたしたちはそういう兄妹だった。
※
賢司が農家を継いだのは、高校を卒業したすぐの春だった。
その前の年、父が腰を痛めて長期入院が決まった。農繁期を控えたその時期に、だれかが田を守らなければならなかった。賢司は国立大学の願書に印鑑を押した後で、静かに取り下げた。わたしがそのことを父の口から聞いたのは、随分と後になってからだ。
「俺はここでやっていく。お前は行きたい場所に行け」
その言葉をわたしはずっと都合よく解釈していた。兄が自分で選んだことだと。農業が性に合っていたのだと。弟か妹の誰かが家を継いでくれるなら、自分は好きに生きてよいのだと、そう思い込もうとしていた。
でも本当は、ずっとわかっていた。
兄がわたしのために大学を諦めたことを。
だから就職が決まった夜、わたしは「ありがとう」を言う代わりに、先に怒ったのだ。
※
ひなを連れてランドセルの店に来たのは、十一月の土曜日の午後だった。
銀座の大通りに面したビルの三階、フロア一面に色とりどりのランドセルが並んでいる。赤に紺に茶色に黄色、さらには水色やラベンダーまで。ひなは入り口でいったん立ち止まり、ゆっくりと店内を見渡してから、一直線にローズ色のランドセルへ歩いていった。
「試してみる?」
店員さんに勧められ、ひなが両腕を袖に通した。鏡の前で右に左に揺れながら、「似合う?」とわたしを振り返る。わたしは手を伸ばして、ランドセルの肩ひもを少し調整してやった。
「うん。よく似合うよ」
わたしがそう答えたとき、ふと隣の棚に気づいた。
男の子が一人、紺色のランドセルを肩にかけて鏡を見ていた。
※
その子は、背格好がひなとほとんど同じだった。
栗色の短い髪。大きな目。何気なく顔を見ているうちに、どこかで見た気がするという感覚が胸の端に引っかかった。子供の顔というのはよく似るものだから、深く考えなかった。
「それ、重くない?」
ひなが突然、その子に話しかけた。
「ちょっとだけ。でも慣れたら大丈夫だと思う」
男の子は真剣な顔で答えた。六歳にしては妙に落ち着いた受け答えで、わたしは笑いそうになった。
その子の後ろに立つ大人の背中が目に入ったのは、そのときだった。
がっちりとした肩幅。厚みのある濃紺の作業用ジャンパー。首の後ろの生え際が、見覚えのある形をしていた。ゆっくりと体温が下がっていくような感覚があった。
わたしの心臓が、一拍分だけ止まった。
※
その人はゆっくりと振り返った。
賢司だった。
兄の顔は記憶よりも日焼けして、目の端に細かい皺が刻まれていた。それでも眉の形も、口元の頑固そうな線も、まるっきり昔のままだった。
二人とも、しばらく何も言えなかった。
店内に流れていた柔らかいクリスマスソングが、どこか遠いところから聞こえてくるような気がした。
ひなと男の子は、もうランドセルのことなんて忘れたみたいに会話していた。「名前なんていうの」「颯。そっていう字を書く」「ひな。春のひなって書く」。二人は鏡の前に並んで立ち、それぞれのランドセルを肩にかけたまま、楽しそうに笑っていた。
「颯」
賢司が低い声で男の子を呼んだ。
「こっちの子と仲よくしてやれ。いとこになるんだから」
ひながわたしを見た。「ママのお兄ちゃん?」
「……そう」としか言えなかった。
※
賢司は棚の前に立って、子供たちが鏡の中で笑い合うのを眺めていた。
わたしも隣に立ったが、何を言えばいいかわからなかった。謝るべきか。それとも近況から話すべきか。十一年分をどこから始めればいいのか、整理がつかなかった。
「颯は福島から来たの?」
結局、無難な言葉を選んだ。
「そう。来春から東京の小学校に転校させようと思って。嫁の実家がこっちだから」
「結婚してたんだ」
「してた。五年前に」
「知らなかった」
「知らせなかったから」
短い言葉が行き来する間、子供たちはまだ鏡の前で楽しそうだった。ひなが颯のランドセルを肩に背負ってみようとして、大きすぎて笑い声が上がった。賢司がそれを見て、口元をわずかに緩めた。
わたしはその横顔を見ながら、自分が長い間忘れていたものを思い出していた。
※
やがて賢司が口を開いた。
「そのローズ、似合いそうだな」
ひなが選んだランドセルを顎で示しながら、兄は言った。
「お前が小学校入るとき、選んでたやつに似てる」
わたしの胸が静かにざわめいた。
「……覚えてるの」
「そりゃ覚えてる。あのとき俺、バイト代全部使ったから」
兄は口の端だけをわずかに上げた。昔のままの笑い方だった。
わたしは喉の奥が、じわりと熱くなるのを感じた。
※
高校一年生の秋に、わたしはランドセルのベルトを壊してしまった。
入学したときに買ってもらったものだったが、六年間使うつもりが一年ともたなかった。親には言い出せなくて、学校帰りにスーパーの袋に入れて持ち歩いていた。
ある夕方、賢司がそれを見つけた。
「どうした」
「壊れた」
「直せないやつか」
「直せない」
兄は何も言わずに、次の週末にわたしを電車に乗せた。隣の市のランドセル専門店まで、一時間かけて連れて行ってくれた。
「好きなのを選べ」
あのときもわたしは、迷わずローズ色を選んだ。値段を見た兄が一瞬だけ眉を寄せたのに気づいたが、何も言わなかった。レジで財布を出すとき、取り出したお札の枚数を数えていた。帰り道、電車の中で兄は眠ったふりをしていた。車窓に流れていく夕暮れの田んぼを眺めながら、わたしはランドセルを膝の上に載せてずっと触り続けていた。
「ありがとう」を言えなかった。嬉しすぎて、照れすぎて、声が出なかった。
そのまま何年も経って、喧嘩をして、十一年が過ぎた。
※
「あのとき、ありがとうって言えなかった」
口から出た言葉は、思っていたのと少し違った。謝罪でも近況報告でもなく、ずっとずっと前に飲み込んだままにしていたものが、不意に出てきた。
賢司は黙っていた。
颯がひなのランドセルを「俺にも背負わせて」とねだっていた。ひなは「じゃあ交換ね」と颯のランドセルに手を伸ばしていた。二人は鏡の前でまた笑い声を上げた。
しばらくして、兄が低い声で言った。
「俺も」
「……なに?」
「俺も、あの夜、ちゃんと送り出せばよかった。応援の一言くらい言えたのに」
それだけだった。
たったそれだけだったけれど、十一年かけて固まっていたものが、ゆっくりとほどけていく気がした。
※
ひなと颯は、並んで鏡の前に立っていた。
ローズ色と紺色のランドセルを、それぞれの肩にかけたまま。
「お揃いみたい」とひなが言い、颯が「色、ぜんぜん違うじゃん」と返した。
「でも一緒に入学するんでしょ。お揃いだよ」
颯は少し考えてから、「……まあ、そっか」と頷いた。
その横顔を見ながら、賢司が静かに言った。
「来年の春、入学式に行ってもいいか」
わたしはすぐに意味がわかった。
「……うん」
それだけ答えた。
冬の窓から差し込む光が、ひなの選んだランドセルに当たっていた。ローズ色が、あの頃と同じやわらかさで輝いていた。