ランドセルの色

ランドセル店の温かい光景

冬のランドセル売り場は、涙の予感がする場所だと思っていた。

娘のひなが「これがいい」と指差したのは、深いローズ色のランドセルだった。

革の表面に細かな型押しのバラが入った、いかにも女の子らしいデザイン。わたしは思わず、息を呑んだ。

兄に最後に会ったのは、十一年前の秋だった。

就職の報告をするために実家へ帰った夜、兄の賢司は台所で黙って夕飯の片付けをしていた。蛇口から流れる水の音だけが台所に響いていた。わたしが「東京で暮らすことに決めた」と告げると、賢司は流しの水を止めて振り返った。

「そうか」

それだけだった。

わたしにはその短さが、突き放しているように聞こえた。応援の一言も、心配の一言もないのかと腹が立って、「帰ってこないから」と言い残し、翌朝、誰にも声をかけずに実家を出た。

それきり、ちゃんと顔を合わせていなかった。

電話をかけたのは父が入院したときと、その後亡くなったときの二回だけ。どちらも用件だけを伝えて切った。賢司からも、それ以上の言葉はなかった。わたしたちはそういう兄妹だった。

賢司が農家を継いだのは、高校を卒業したすぐの春だった。

その前の年、父が腰を痛めて長期入院が決まった。農繁期を控えたその時期に、だれかが田を守らなければならなかった。賢司は国立大学の願書に印鑑を押した後で、静かに取り下げた。わたしがそのことを父の口から聞いたのは、随分と後になってからだ。

「俺はここでやっていく。お前は行きたい場所に行け」

その言葉をわたしはずっと都合よく解釈していた。兄が自分で選んだことだと。農業が性に合っていたのだと。弟か妹の誰かが家を継いでくれるなら、自分は好きに生きてよいのだと、そう思い込もうとしていた。

でも本当は、ずっとわかっていた。

兄がわたしのために大学を諦めたことを。

だから就職が決まった夜、わたしは「ありがとう」を言う代わりに、先に怒ったのだ。

ひなを連れてランドセルの店に来たのは、十一月の土曜日の午後だった。

銀座の大通りに面したビルの三階、フロア一面に色とりどりのランドセルが並んでいる。赤に紺に茶色に黄色、さらには水色やラベンダーまで。ひなは入り口でいったん立ち止まり、ゆっくりと店内を見渡してから、一直線にローズ色のランドセルへ歩いていった。

「試してみる?」

店員さんに勧められ、ひなが両腕を袖に通した。鏡の前で右に左に揺れながら、「似合う?」とわたしを振り返る。わたしは手を伸ばして、ランドセルの肩ひもを少し調整してやった。

「うん。よく似合うよ」

わたしがそう答えたとき、ふと隣の棚に気づいた。

男の子が一人、紺色のランドセルを肩にかけて鏡を見ていた。

その子は、背格好がひなとほとんど同じだった。

栗色の短い髪。大きな目。何気なく顔を見ているうちに、どこかで見た気がするという感覚が胸の端に引っかかった。子供の顔というのはよく似るものだから、深く考えなかった。

「それ、重くない?」

ひなが突然、その子に話しかけた。

「ちょっとだけ。でも慣れたら大丈夫だと思う」

男の子は真剣な顔で答えた。六歳にしては妙に落ち着いた受け答えで、わたしは笑いそうになった。

その子の後ろに立つ大人の背中が目に入ったのは、そのときだった。

がっちりとした肩幅。厚みのある濃紺の作業用ジャンパー。首の後ろの生え際が、見覚えのある形をしていた。ゆっくりと体温が下がっていくような感覚があった。

わたしの心臓が、一拍分だけ止まった。

その人はゆっくりと振り返った。

賢司だった。

兄の顔は記憶よりも日焼けして、目の端に細かい皺が刻まれていた。それでも眉の形も、口元の頑固そうな線も、まるっきり昔のままだった。

二人とも、しばらく何も言えなかった。

店内に流れていた柔らかいクリスマスソングが、どこか遠いところから聞こえてくるような気がした。

ひなと男の子は、もうランドセルのことなんて忘れたみたいに会話していた。「名前なんていうの」「颯。そっていう字を書く」「ひな。春のひなって書く」。二人は鏡の前に並んで立ち、それぞれのランドセルを肩にかけたまま、楽しそうに笑っていた。

「颯」

賢司が低い声で男の子を呼んだ。

「こっちの子と仲よくしてやれ。いとこになるんだから」

ひながわたしを見た。「ママのお兄ちゃん?」

「……そう」としか言えなかった。

賢司は棚の前に立って、子供たちが鏡の中で笑い合うのを眺めていた。

わたしも隣に立ったが、何を言えばいいかわからなかった。謝るべきか。それとも近況から話すべきか。十一年分をどこから始めればいいのか、整理がつかなかった。

「颯は福島から来たの?」

結局、無難な言葉を選んだ。

「そう。来春から東京の小学校に転校させようと思って。嫁の実家がこっちだから」

「結婚してたんだ」

「してた。五年前に」

「知らなかった」

「知らせなかったから」

短い言葉が行き来する間、子供たちはまだ鏡の前で楽しそうだった。ひなが颯のランドセルを肩に背負ってみようとして、大きすぎて笑い声が上がった。賢司がそれを見て、口元をわずかに緩めた。

わたしはその横顔を見ながら、自分が長い間忘れていたものを思い出していた。

やがて賢司が口を開いた。

「そのローズ、似合いそうだな」

ひなが選んだランドセルを顎で示しながら、兄は言った。

「お前が小学校入るとき、選んでたやつに似てる」

わたしの胸が静かにざわめいた。

「……覚えてるの」

「そりゃ覚えてる。あのとき俺、バイト代全部使ったから」

兄は口の端だけをわずかに上げた。昔のままの笑い方だった。

わたしは喉の奥が、じわりと熱くなるのを感じた。

高校一年生の秋に、わたしはランドセルのベルトを壊してしまった。

入学したときに買ってもらったものだったが、六年間使うつもりが一年ともたなかった。親には言い出せなくて、学校帰りにスーパーの袋に入れて持ち歩いていた。

ある夕方、賢司がそれを見つけた。

「どうした」

「壊れた」

「直せないやつか」

「直せない」

兄は何も言わずに、次の週末にわたしを電車に乗せた。隣の市のランドセル専門店まで、一時間かけて連れて行ってくれた。

「好きなのを選べ」

あのときもわたしは、迷わずローズ色を選んだ。値段を見た兄が一瞬だけ眉を寄せたのに気づいたが、何も言わなかった。レジで財布を出すとき、取り出したお札の枚数を数えていた。帰り道、電車の中で兄は眠ったふりをしていた。車窓に流れていく夕暮れの田んぼを眺めながら、わたしはランドセルを膝の上に載せてずっと触り続けていた。

「ありがとう」を言えなかった。嬉しすぎて、照れすぎて、声が出なかった。

そのまま何年も経って、喧嘩をして、十一年が過ぎた。

「あのとき、ありがとうって言えなかった」

口から出た言葉は、思っていたのと少し違った。謝罪でも近況報告でもなく、ずっとずっと前に飲み込んだままにしていたものが、不意に出てきた。

賢司は黙っていた。

颯がひなのランドセルを「俺にも背負わせて」とねだっていた。ひなは「じゃあ交換ね」と颯のランドセルに手を伸ばしていた。二人は鏡の前でまた笑い声を上げた。

しばらくして、兄が低い声で言った。

「俺も」

「……なに?」

「俺も、あの夜、ちゃんと送り出せばよかった。応援の一言くらい言えたのに」

それだけだった。

たったそれだけだったけれど、十一年かけて固まっていたものが、ゆっくりとほどけていく気がした。

ひなと颯は、並んで鏡の前に立っていた。

ローズ色と紺色のランドセルを、それぞれの肩にかけたまま。

「お揃いみたい」とひなが言い、颯が「色、ぜんぜん違うじゃん」と返した。

「でも一緒に入学するんでしょ。お揃いだよ」

颯は少し考えてから、「……まあ、そっか」と頷いた。

その横顔を見ながら、賢司が静かに言った。

「来年の春、入学式に行ってもいいか」

わたしはすぐに意味がわかった。

「……うん」

それだけ答えた。

冬の窓から差し込む光が、ひなの選んだランドセルに当たっていた。ローズ色が、あの頃と同じやわらかさで輝いていた。

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