体育館の壁に、数字が増えていく
あの体育館の壁には、油性ペンで書かれた数字が、日ごとに一つずつ増えていきました。
私は当時、施設科の一等陸士でした。二十三歳。入隊して四年目の夏に、東北の内陸にある久瀬という町へ派遣されました。
久瀬川が三か所で堤防を越えて、りんご畑と、駅前の商店と、川沿いの住宅がほとんど泥をかぶりました。私たちの中隊が入ったのは、水が引いた翌々日です。
避難所になっていたのは、町立中学校の体育館でした。段ボールで仕切られた区画が百と少し。夜になると、その仕切りの高さより低いところで、たくさんの人が息をしている音がします。
入って三日目の朝、後輩が私に言いました。
「班長、あれ、なんですかね」
ステージ寄りの壁に、小さく数字が書いてありました。3、7、11。日付にしては飛び方が変です。誰も消さないので、誰かが許して書かせているのだろう、とだけ思いました。
※
石を投げてきた青年
その避難所には、二十歳になったばかりの青年がいました。
名前は、ここでは杉本くんとしておきます。町の工業高校を出て、駅前の鉄工所に勤めていました。工場は一階が水に浸かって、機械が全部だめになっていました。
彼は、私たちを嫌っていました。
はっきりと嫌っていました。給水車の列にも並ばず、炊き出しにも来ない。私たちが体育館の前を通ると、こちらを見もせずに背中を向ける。
四日目、彼は私たちのトラックに石を投げました。
荷台のあおりに当たって、乾いた音がしました。周りの大人があわてて彼を押さえて、頭を下げて、彼を体育館の裏へ連れていきました。
私は、そのとき何も感じませんでした。腹も立ちませんでした。ただ、あの年ごろの男が、外に向かって出せるものがそれしかないというのは、想像がつきました。
中隊長には報告しませんでした。
「なんも見とらん」
後輩にはそう言いました。あとから考えると、あれが唯一、私が自分の判断でやったことです。
体育館の一日は、朝五時の放送で始まりました。
区長さんが自分の声でやります。今日の給水車の時間、今日の入浴の時間、今日、どの地区に人手が要るか。放送のあとに必ず「みなさん、水を飲んでください」と付け加える人でした。
私が印象に残っているのは、洗濯です。
校庭に張ったロープに、下着から作業着まで並びます。誰のものか分からなくなるので、みんな洗濯ばさみに油性ペンで名前を書いていました。そのうち、名前ではなく区の名前を書く人が増えました。個人の持ち物という意識が、少しずつ薄れていくのです。
ある朝、私の靴下が二足、きれいにたたまれてロープの端に置いてありました。私は名前を書いていませんでした。
誰がやってくれたのかは、最後まで分かりませんでした。
※
誰もいない玄関に、声をかける
私たちの主な任務は、道路の啓開と、住宅地の泥出しでした。
泥は、乾く前に出さないと石になります。だから毎朝、まだ暗いうちから入ります。ある家の前に立って、スコップを構えて、それから、必ず一人が玄関に声をかけました。
「自衛隊です。作業に入らせていただきます」
誰もいません。家の人は避難所か、親戚の家か、まだ町に戻ってきていません。返事があるはずがないのです。
それでも、声をかけてから入る。
これは中隊の決まりではありませんでした。誰かが最初にやって、なんとなく全員がやるようになった、それだけのことです。
私たちのあいだでは、理由を口にしたことすらありません。
ただ、泥をかき出した家の畳の下から、写真のアルバムが出てきたり、子どもの絵が出てきたりします。誰かがそこで暮らしていたことを、こちらは毎日、手のひらで確かめている。声をかけずに入るのが、なんとなく、できなかったのです。
泥は、においで日が分かります。
入った日の泥は、川のにおいがします。三日目は、それに油のにおいが混じります。一週間を過ぎると、酸っぱいにおいになる。畳の下や、床下の断熱材にしみた水が、そこで動かなくなるからです。
私たちは、そのにおいの変化を毎日かいでいました。だから、進んでいないという感覚だけが積み上がるのです。
りんご畑も同じでした。久瀬は矮化栽培といって、背の低い木を細かく並べます。水が来ると、根の張りが浅いぶん、木ごと傾く。傾いた木は、しばらくは葉が青いまま立っています。青いのに、もう戻らないのです。
畑の持ち主のおじいさんが、一度、私たちの作業を見に来たことがあります。
「兄ちゃん、この木な、四十年かかっとる」
「はい」
「四十年かかったもんが、四時間でこうなる」
それだけ言って、帰っていきました。私たちは、返す言葉を持っていませんでした。
※
入浴支援の湯を、最後に使う人
五日目から、校庭に仮設の風呂を立てました。
朝十時から夜八時まで。女性の時間と男性の時間を分けて、一時間ごとに湯を入れ替えます。町の人が上がったあと、最後に私たちが入ります。
その湯は、正直、きれいではありません。泥の町ですから、どうしても濁ります。
それでも、隊員たちは文句を言いませんでした。
一度だけ、若い隊員が「最後っすか」とこぼしたことがあります。私が何か言うより先に、班長付の三曹が答えました。
「先に入ったら、うちの泥が町の人に回るやろ」
その言い方が、いまも耳に残っています。
避難所には、小学校低学年くらいの子どもが二十人ほどいました。
子どもというのは強いもので、三日もすると、体育館の隅で自分たちの遊びを作ります。段ボールの仕切りの上を渡っていく遊びが流行って、大人に叱られていました。
ある日、私が休憩で座っていると、女の子が近づいてきて、私の帽子をじっと見ました。
「それ、なんでみどりなん」
「山におるとき、見つかりにくいようにな」
「いま、やま、ないよ」
私は返事に詰まりました。その子は満足したのか、走っていきました。
その晩、後輩がその話を聞いて、大真面目にこう言いました。
「班長、それ、けっこう深いこと言われてますよ」
私たちは笑いました。ひと月のあいだで、腹から笑ったのはあの一回だけです。
※
実家の前を、毎日通る
私たちの中隊に、久瀬町の出身の隊員が一人いました。
三十代の三曹で、名前は仮に佐々木さんとします。
私は、派遣の途中まで、その事実を知りませんでした。教えてくれたのは別の班の同期です。佐々木さんの実家は、川沿いのいちばん低いところにありました。私たちが毎日、泥を出しに通っていた地区です。
佐々木さんは、自分の家には一度も入りませんでした。
順番が回ってこなかったからではありません。作業の割り振りは班単位です。自分の家が入る日には、彼は別の班に移してくれと申し出ていたのです。
「なんでですか」
あるとき、私は聞きました。
佐々木さんは、缶の茶を飲みながら、少し困ったような顔をしました。
「自分の家に手が動いたら、隣の家に同じ手で行けんくなる」
それだけでした。
ご家族は無事で、隣の市に避難していました。それでも、彼は自分の家の前を、毎日、スコップを担いだまま通り過ぎていました。
※
数字の意味
派遣は、結局ひと月を超えました。
体育館の壁の数字は、日ごとに増え続けていました。3、7、11、11、14、19、19、19、24。増える日もあれば、止まる日もある。
私は、それが何かの記録だとは思っていました。撤収の前の週になって、やっと分かりました。
夜の九時ごろ、体育館の裏の非常口が開いていて、外に出た階段のところに、杉本くんが座っていました。膝の上に、油性ペンと、コンビニのレシートの束を置いています。
私が近づくと、彼は隠しませんでした。もう、隠す気力がなかったのだと思います。
「これ、なんの数字か聞いていいか」
彼は、少し黙ってから答えました。
「電気、点いた家」
数字は、日にちではなく、その日に電気の点いた家の数でした。
彼は毎晩、自転車で町を一周していたのです。まだ人の戻っていない地区を回って、窓に明かりのある家を数えて、帰ってきて、壁に書く。
「なんで数えとるん」
「減らんから」
「減らん」
「一回点いた家は、もう暗くならん。だけん、この数字は、絶対に減らん」
私は、その場に立ったまま、返す言葉を探しました。
そのあと、杉本くんは少しずつ話しました。
鉄工所の社長が入院したこと。同級生の半分が町を出ると言っていること。自分は、出るか残るかを毎晩考えていて、それで自転車に乗っていること。
「最初のうちは、あんたらが憎かったです」
「うん」
「よそから来て、泥のけて、帰るんやろって」
「そう思われても、しかたなか」
「でも、あんたら、誰もおらん家に、毎朝あいさつしとった」
私は、顔を上げました。
「聞こえとったんか」
「うちの、隣の家です。あの家、じいちゃんが一人で住んどって、いまは施設におる。人が住んどらんのに、毎朝、入らせていただきますって」
彼は、そこで少し黙りました。
「あの家、まだ、じいちゃんの家なんやなって、思いました」
私たちは、誰に向かって声をかけていたのか、そのとき初めて分かりました。誰もいないと思っていた家に、名前があったのです。
※
毎晩、点呼のあとで
本当のことを言うと、私たちはその数字を、もう二週間前から知っていました。
正確に言えば、意味は知りませんでしたが、増えることだけは知っていました。
あの数字を、僕らは毎晩、点呼のあとで見に行っていました。
誰が言い出したのでもありません。最初は、後輩が「増えてます」と報告してきただけです。それが習慣になって、点呼が終わると、誰かが体育館をのぞいて、戻ってきて、班に伝えるようになりました。
「今日は三つ増えました」
その一言で、その日の泥の重さが、少しだけ変わるのです。
私たちがやっているのは、泥をどけることです。目に見える成果がありません。どけてもどけても、次の日には同じ景色に見える。数字だけが、前に進んでいる証拠でした。
押していたつもりの背中に、こちらが押されていました。
私が階段でそれを話すと、杉本くんは、しばらく何も言いませんでした。
それから、こう言いました。
「石、投げてすみませんでした」
「ああ、あれな」
「なんも言われんかったから、余計にきつかったです」
私は笑ってしまいました。そういうものかもしれません。
※
撤収の日
撤収が決まったのは、その三日前でした。
私たちのような部隊は、いつまでもいられません。町の人が自分たちで動けるようになったと判断されれば、引き上げる。それが正しいことは、頭では分かっています。
ただ、荷物をまとめる作業というのは、妙にきまりが悪いものです。
撤収の前日、テントをたたんでいると、近所のおばさんが炊いたおにぎりを持ってきました。断るのが規則ですが、その日は誰も断れませんでした。
「ごめんね、しょっぱいかもしれん」
「いえ」
「うちの井戸、まだ味がおかしいけん」
塩の話ではありませんでした。私たちは黙って食べました。
撤収は、九月のはじめでした。
朝から、体育館の前に町の人が集まりました。誰が用意したのか、白い布に墨で書いた横断幕が張ってありました。
『自衛隊さん、ありがとう』
私たちは整列して、中隊長が挨拶をして、それで終わるはずでした。
ところが、区長さんが「若い衆からも一言」と言い出しました。誰も出ませんでした。当たり前です。何を言えばいいのか、誰にも分かりません。
しばらくの沈黙のあと、列の後ろから杉本くんが出てきました。
拡声器を渡されて、握りしめて、彼はいきなり泣きました。話す前に泣いてしまったのです。周りが少しざわつきました。
それから、涙を手の甲で拭いて、絞り出すように、しかしはっきりと言いました。
「若者の代表として、一つだけ言いたいことがあります」
誰も動きませんでした。
「これから僕らが、この久瀬を立て直していかなければなりません」
「その後ろを押してくれたのが、自衛隊の人たちです」
大人たちが泣きはじめました。何人かが列を離れて、こちらへ駆け寄ってきました。
「長い間、ありがとうございました」
杉本くんは、拡声器を誰かに押しつけて、まっすぐ走ってきました。
そして、佐々木さんの胸に飛び込みました。
あとから知ったことですが、あの横断幕の字を書いたのは、杉本くんの鉄工所の社長でした。
入院先から一時帰宅して、体育館の床に紙を広げて、墨で書いたのだそうです。筆を持つ手が震えて、「あ」の一画目が二度失敗した、という話まで、のちに杉本くんの手紙で知りました。
そして、その社長に「若い衆からも一言、言わせろ」と区長さんに言わせたのも、社長本人だったそうです。
誰も出ないだろうと分かったうえで、そう言ったのです。
※
その日、初めて手を合わせた人
なぜ佐々木さんだったのかは、いまも分かりません。
杉本くんは、佐々木さんが久瀬の出身だと知らなかったはずです。ただ、いちばん近くに立っていたのが彼でした。
佐々木さんは、しばらく動きませんでした。それから、両腕で杉本くんを抱えるようにして、声を出して泣きました。
私は、あの人の泣く声を、初めて聞きました。
ひと月、自分の家の前を毎日通って、一度も入らなかった人です。隣の家の泥を出すために、自分の家を後ろに回し続けた人です。
その日の午後、部隊が出発する直前に、佐々木さんは一人で川沿いへ歩いていきました。私は少し離れてついていきました。
彼は、泥をかぶったままの自分の家の門の前に立って、帽子を取って、手を合わせました。
それだけです。中には入りませんでした。
戻ってきて、私に一言だけ言いました。
「これで、よかった」
※
最後の数字
出発の前に、私は体育館の壁を見に行きました。
最後の数字は、六十八でした。
町にどれだけの家があったのかは知りません。六十八がどれくらいなのかも、当時の私には分かりませんでした。
ただ、その下に、新しい字で一行だけ書き足してありました。
「まだ、へらしません」
私は、そこを写真に撮りました。いまも持っています。
トラックが動き出して、体育館が小さくなっていくとき、後輩が窓の外を見ながら言いました。
「班長、任務終了っすね」
私は、うまく返事ができませんでした。
終わったのはこちらの任務であって、あの町の仕事はその日から始まるのです。押してくれた、と言われましたが、あの数字を毎晩見に行っていたのは、こちらのほうでした。
※
十六年後の、りんご
私はその後、十年ほど勤めて退職しました。
いまは別の仕事をしています。災害の映像を見るたびに、当時の同期と短い連絡を取り合う程度の付き合いが続いています。
去年の秋、家に段ボールが届きました。
久瀬町のりんごでした。差出人は杉本くんです。同封の紙には、鉄工所を継いだこと、いま従業員が七人いること、そのうち二人が水害のあとに町に戻ってきた人であることが書いてありました。
最後の一行だけ、手書きでした。
「あの数字、いまは百二十四です」
私は台所で、そのりんごを一つ剥きました。剥きながら、あの体育館の壁と、誰もいない玄関に声をかけていた朝と、濁った風呂の湯を思い出しました。
一回点いた家は、もう暗くならない。
あの晩、二十歳の彼がそう言ったことを、私は四十を過ぎたいまも、自分の仕事の支えにしています。
※
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