あれは、私がまだ駆け出しの車掌だった頃の話だ。
もう、四十年も前のことになる。
それでも、あの夜のことだけは、今でも、昨日のように覚えている。
人を見た目で計ることの、愚かさと、恥ずかしさを。
そして、本当の品格とは何かを、私は、あの夜の一本の列車から教わった。
※
当時、私は、北へ向かう夜行の寝台特急に、乗務していた。
終着の駅まで、ひと晩じゅうかけて走る、長い長い列車だ。
客車の通路には、青いカーテンの並んだ寝台が、ずらりと続いていた。
カーテンの内側には、それぞれの旅と、それぞれの事情が、眠っていた。
消灯の時刻が近づくと、車内は、レールの刻む規則正しい音だけになる。
ことん、ことん、という、子守唄のような響きだ。
私は、その静けさの中を、検札のために、ゆっくりと歩くのが、好きだった。
小さな懐中電灯の灯りだけを頼りに、眠る人々の傍らを、足音を忍ばせて進む。
駆け出しの私にとって、その仕事は、誇りそのものだった。
客のひとりひとりに、どこかへ帰る場所や、会いに行く人がいる。
その大切な夜を、朝まで無事に運ぶのが、私たちの役目だった。
※
その夜、列車は、ある田舎の、小さな駅に停まった。
ほんの一分ほどの、短い停車だった。
発車のベルが鳴りかけたとき、ひとりの老人が、息を切らせて、乗り込んできた。
ホームを、転がるように走ってきたらしい。
着ているのは、何度も洗いざらした、色のあせた作業着だった。
足元の地下足袋には、まだ、乾いた畑の土が、こびりついている。
差し出された切符を受け取る手の、爪の間にも、黒い土が染み込んでいた。
大きな風呂敷包みを、まるで宝物のように、両手で抱えている。
老人の体からは、土と、青い草いきれの匂いが、ふわりと立ちのぼった。
ひと目で、長いあいだ田畑を耕して生きてきた人だと、わかった。
老人は、私に切符を見せながら、何度も、深々と頭を下げた。
「夜分に、すんませんなあ」と、しわがれた、低い声で言った。
指定された寝台は、通路をはさんだ、下の段だった。
老人は、周りに気を遣いながら、そっと、その寝台に腰を下ろした。
履き慣れた地下足袋を、几帳面に脱いで、寝台の下に、きちんと揃えた。
そういう、つつましやかな所作の、人だった。
※
検札のとき、老人は、訊きもしないのに、ぽつぽつと、身の上を話してくれた。
都会に出ていった息子のところに、初めての孫が生まれたのだという。
「その顔を、ひと目、見に行くんだ」と、老人は、目を細めた。
長い汽車の旅も、まるで苦にならない様子だった。
風呂敷の中身は、自分の畑で、丹精して育てた、野菜だった。
「孫に、土のついた、本物のうまいもんを、食わせてやりたくてな」
そう言って、老人は、皺だらけの顔を、くしゃりと崩した。
その笑顔が、私には、なんとも言えず、あたたかく見えた。
きっと、何日も前から、この日を、指折り数えて待っていたのだろう。
よそ行きのつもりなのか、作業着の襟だけは、きちんと正されていた。
妻には、もう何年も前に、先立たれたのだと、老人は、ぽつりと言った。
「ばあさんにも、この孫を、見せてやりたかったがなあ」
そう言って、老人は、ほんの少し、窓の外の闇に、目をやった。
それでも、すぐに、また、嬉しそうな顔に、戻った。
※
老人の向かいの寝台には、身なりのたいそう立派な、中年の女性がいた。
上等な外套をはおり、指には、大きな宝石の指輪が光っていた。
つけている香水の匂いが、老人の土の匂いと、狭い通路で、ぶつかり合った。
女性は、さっきから、露骨に、顔をしかめていた。
ハンカチを口元に当てて、これみよがしに、ため息をついている。
老人が会釈をしても、女性は、つんと顔をそむけるだけだった。
まるで、同じ空気を吸うことさえ、汚らわしいとでも言うようだった。
※
消灯のあと、私が通路を見回っていると、その女性に、呼び止められた。
「ちょっと、車掌さん」と、とがった、甲高い声だった。
「わたくしの席を、ほかへ替えてちょうだい」
「いかがなさいましたか」と、私は、ていねいに訊いた。
「あなた、見ればわかるでしょう」
「あんな、泥だらけの人の隣で、ひと晩、眠れるわけがないじゃないの」
女性は、声をひそめもせず、はっきりと、そう言い放った。
「土くさくて、かなわないわ」
「だいたい、こんな人を、よくもまあ、わたくしの隣に座らせたものね」
その言葉は、深夜の静かな車内に、いやに大きく、響いた。
近くの寝台で、いくつものカーテンが、かすかに揺れた。
※
通路の向かいで、老人は、その言葉を、確かに、聞いていた。
けれど、何ひとつ、言い返さなかった。
ただ、膝の上の風呂敷包みを、そっと、胸のほうへ抱き寄せた。
そして、申し訳なさそうに、体を、小さく縮めた。
まるで、自分がそこにいることそのものを、詫びているような仕草だった。
あれほど嬉しそうだった顔から、すっかり、笑みが消えていた。
その姿が、私には、どうにも、見ていられなかった。
孫のために野菜を抱えたこの人の、どこに、詫びる理由があるというのか。
悪いのは、土の匂いなどでは、断じてない。
人を、見た目だけで切り捨てる、あの心のほうだ。
※
私は、まだ若く、こういうとき、どうすればいいのか、わからなかった。
規則では、空いている上等な寝台へ、勝手に客を案内することは、できない。
かといって、身なりのいい客の言いなりに、老人を追いやるのも、違う気がした。
胸の奥が、ぐつぐつと、煮えるようだった。
私は、いったんその場を離れ、車掌長に、相談することにした。
※
車掌長は、長年この夜行列車に乗り続けてきた、白髪の人だった。
無口だが、客のことを、誰よりよく見ている人だった。
新人の私が失敗したときも、決して、人前では叱らない人だった。
私が、事のしだいを話すと、車掌長は、腕を組んで、しばらく黙って聞いていた。
それから、ひとつ、ゆっくりと、うなずいた。
「わかった」と、車掌長は、静かに言った。
「あのご老人を、空いている、個室の寝台へ、ご案内しなさい」
「えっ」と、私は、思わず、聞き返した。
個室の寝台といえば、この列車で、いちばん上等な、特別な席だ。
「本当に、よろしいんですか」
車掌長は、もう一度、はっきりと、うなずいた。
「ああ。何かあれば、私が、責めを負う」
そして、ほんの少しだけ、口元に、笑みを浮かべた。
「ああいうお客さまにこそ、いちばんいい席で、休んでいただきたいじゃないか」
その言葉に、私の迷いは、すっと、晴れていった。
人を、その身なりで計ってはならない。
車掌長は、ひと言も、そうは口にしなかった。
けれど、その判断のすべてが、それを、私に教えていた。
※
私は、あの女性のいる車両へ、戻った。
消灯後の通路を、懐中電灯の灯りが、ひとすじ照らしている。
周りの寝台の客たちも、薄目を開けて、息をひそめ、なりゆきを見守っていた。
きっと、誰もが、こう思っていたはずだ。
あの泥だらけの老人が、肩身せまく、どこかへ追いやられるのだ、と。
私は、女性の寝台の前を、すっと、通り過ぎた。
上等な香水の匂いが、つん、と鼻をついた。
女性は、勝ち誇ったような顔で、私を待っていた。
だが、私は、その前では、足を止めなかった。
通路をはさんだ、向かいの寝台の、老人の前で、私は、立ち止まった。
そして、深々と、頭を下げた。
私が頭を下げたのは、女性にではなく、老人のほうだった。
「お客様。どうぞ、こちらへ、おいでくださいませ」
「空いております、個室の寝台を、ご用意いたしました」
老人は、きょとんとした顔で、私を見上げた。
通路の空気が、しんと、張りつめた。
私は、努めて、おだやかに、こう続けた。
「隣の席があんな方では、さぞ、お休みになれないでしょう」
「車掌長が、特別に、ご手配いたしました」
言い終えて、私は、ちらりと、あの女性のほうへ、目をやった。
私の言った「あんな方」が、いったい誰を指しているのか。
その意味に気づいた女性の顔が、みるみるうちに、赤くなった。
口を開きかけて、けれど、何も言えずに、女性は、カーテンの奥へ、顔を引っ込めた。
あれほど大きかったあの声は、それきり、ひと晩じゅう、聞こえてこなかった。
※
通路の客たちは、声こそ立てなかったが、みな、穏やかに、笑っていた。
どこかの寝台で、誰かが、拍手のかわりに、毛布を、ぽん、と軽く叩いた。
その音が、暗い車内に、ひとつ、あたたかく響いた。
老人は、まだ事情がよく呑み込めない様子で、おろおろしていた。
「いや、わしのような者が、こんな上等な席は」
「とんでもない」と、しきりに、恐縮している。
「どうぞ、ご遠慮なさいませんように」と、私は、もう一度、頭を下げた。
「これは、あなた様のための席なのです」
※
私は、老人の風呂敷包みを、かわりに持って、先に立った。
老人は、何度も振り返り、周りの客に頭を下げながら、私のあとをついてきた。
個室の扉を開けると、老人は、小さく、息を呑んだ。
清潔な布団と、枕元に小さな灯りのともる、静かな個室だった。
窓の外を、暗い田畑の影が、後ろへ後ろへと、流れていく。
「こんな、もったいない」と、老人は、目を、潤ませた。
「生まれて初めてだ、こんな上等なところで、寝るのは」
その声は、少しだけ、震えていた。
私は、何も言わず、ただ、枕元の灯りを、ひとつ、灯してさしあげた。
小さな窓に、老人の、安心したような横顔が、映っていた。
※
私が、扉を閉めて出ていこうとすると、老人は、あわてて、風呂敷を解いた。
そして、中から、よく熟れた、赤いトマトを、ひとつ、取り出した。
「これ、わしの畑のだ。よかったら、もらってくれんか」
土のついた、まだ陽のぬくもりが残るような、見事なトマトだった。
「お孫さんへの、大事なお土産でしょう」と、私は、断ろうとした。
「いや。あんたにも、ひとつ、食べてほしいんだ」
「あんたは、わしの恥を、恥じゃなくしてくれた」
その、まっすぐな言葉に、私は、断ることが、できなかった。
差し出された老人の手は、節くれだって、土の匂いがして、あたたかかった。
私は、両手で、そのトマトを、受け取った。
※
その夜、私は、乗務員の休憩室で、そのトマトを、かじった。
太陽と、土と、誰かの一生の労りの味が、口いっぱいに、広がった。
あんなにうまいトマトを、私は、後にも先にも、食べたことがない。
翌朝、終着駅で、老人は、何度も何度も、私に頭を下げて、人混みへ消えていった。
その背中は、来たときよりも、ずっと、晴れやかに見えた。
私は、ホームの隅から、その姿が見えなくなるまで、見送った。
きっと今ごろ、初孫を、あの土の匂いのする手で、抱いているのだろう。
※
あれから、四十年が経った。
私は、もう、列車を降りて、ずいぶんになる。
それでも、夏が来て、店先に赤いトマトが並ぶたび、私は、あの夜を思い出す。
身なりの立派さと、人の立派さとは、まるで別のものだ。
近くにいて、遠い人がいる。
遠くから来て、すぐ隣にいるように温かい人がいる。
品格とは、着ている物にではなく、その人の振る舞いに、静かに宿るのだ。
あの夜、いちばん上等な席に、いちばんふさわしかったのは、誰だったか。
それは、土のにおいのする、あの老人のほうだったと、私は、今も信じている。
そして、人にどう向き合うべきかを、私は、あの夜の車掌長の背中から学んだ。
見えるもので人を計らず、見えないものにこそ、敬意を払うこと。
それが、四十年、私が胸の奥で守り続けてきた、たったひとつの誇りだ。