土のにおいの紳士

あれは、私がまだ駆け出しの車掌だった頃の話だ。

もう、四十年も前のことになる。

それでも、あの夜のことだけは、今でも、昨日のように覚えている。

人を見た目で計ることの、愚かさと、恥ずかしさを。

そして、本当の品格とは何かを、私は、あの夜の一本の列車から教わった。

当時、私は、北へ向かう夜行の寝台特急に、乗務していた。

終着の駅まで、ひと晩じゅうかけて走る、長い長い列車だ。

客車の通路には、青いカーテンの並んだ寝台が、ずらりと続いていた。

カーテンの内側には、それぞれの旅と、それぞれの事情が、眠っていた。

消灯の時刻が近づくと、車内は、レールの刻む規則正しい音だけになる。

ことん、ことん、という、子守唄のような響きだ。

私は、その静けさの中を、検札のために、ゆっくりと歩くのが、好きだった。

小さな懐中電灯の灯りだけを頼りに、眠る人々の傍らを、足音を忍ばせて進む。

駆け出しの私にとって、その仕事は、誇りそのものだった。

客のひとりひとりに、どこかへ帰る場所や、会いに行く人がいる。

その大切な夜を、朝まで無事に運ぶのが、私たちの役目だった。

その夜、列車は、ある田舎の、小さな駅に停まった。

ほんの一分ほどの、短い停車だった。

発車のベルが鳴りかけたとき、ひとりの老人が、息を切らせて、乗り込んできた。

ホームを、転がるように走ってきたらしい。

着ているのは、何度も洗いざらした、色のあせた作業着だった。

足元の地下足袋には、まだ、乾いた畑の土が、こびりついている。

差し出された切符を受け取る手の、爪の間にも、黒い土が染み込んでいた。

大きな風呂敷包みを、まるで宝物のように、両手で抱えている。

老人の体からは、土と、青い草いきれの匂いが、ふわりと立ちのぼった。

ひと目で、長いあいだ田畑を耕して生きてきた人だと、わかった。

老人は、私に切符を見せながら、何度も、深々と頭を下げた。

「夜分に、すんませんなあ」と、しわがれた、低い声で言った。

指定された寝台は、通路をはさんだ、下の段だった。

老人は、周りに気を遣いながら、そっと、その寝台に腰を下ろした。

履き慣れた地下足袋を、几帳面に脱いで、寝台の下に、きちんと揃えた。

そういう、つつましやかな所作の、人だった。

検札のとき、老人は、訊きもしないのに、ぽつぽつと、身の上を話してくれた。

都会に出ていった息子のところに、初めての孫が生まれたのだという。

「その顔を、ひと目、見に行くんだ」と、老人は、目を細めた。

長い汽車の旅も、まるで苦にならない様子だった。

風呂敷の中身は、自分の畑で、丹精して育てた、野菜だった。

「孫に、土のついた、本物のうまいもんを、食わせてやりたくてな」

そう言って、老人は、皺だらけの顔を、くしゃりと崩した。

その笑顔が、私には、なんとも言えず、あたたかく見えた。

きっと、何日も前から、この日を、指折り数えて待っていたのだろう。

よそ行きのつもりなのか、作業着の襟だけは、きちんと正されていた。

妻には、もう何年も前に、先立たれたのだと、老人は、ぽつりと言った。

「ばあさんにも、この孫を、見せてやりたかったがなあ」

そう言って、老人は、ほんの少し、窓の外の闇に、目をやった。

それでも、すぐに、また、嬉しそうな顔に、戻った。

老人の向かいの寝台には、身なりのたいそう立派な、中年の女性がいた。

上等な外套をはおり、指には、大きな宝石の指輪が光っていた。

つけている香水の匂いが、老人の土の匂いと、狭い通路で、ぶつかり合った。

女性は、さっきから、露骨に、顔をしかめていた。

ハンカチを口元に当てて、これみよがしに、ため息をついている。

老人が会釈をしても、女性は、つんと顔をそむけるだけだった。

まるで、同じ空気を吸うことさえ、汚らわしいとでも言うようだった。

消灯のあと、私が通路を見回っていると、その女性に、呼び止められた。

「ちょっと、車掌さん」と、とがった、甲高い声だった。

「わたくしの席を、ほかへ替えてちょうだい」

「いかがなさいましたか」と、私は、ていねいに訊いた。

「あなた、見ればわかるでしょう」

「あんな、泥だらけの人の隣で、ひと晩、眠れるわけがないじゃないの」

女性は、声をひそめもせず、はっきりと、そう言い放った。

「土くさくて、かなわないわ」

「だいたい、こんな人を、よくもまあ、わたくしの隣に座らせたものね」

その言葉は、深夜の静かな車内に、いやに大きく、響いた。

近くの寝台で、いくつものカーテンが、かすかに揺れた。

通路の向かいで、老人は、その言葉を、確かに、聞いていた。

けれど、何ひとつ、言い返さなかった。

ただ、膝の上の風呂敷包みを、そっと、胸のほうへ抱き寄せた。

そして、申し訳なさそうに、体を、小さく縮めた。

まるで、自分がそこにいることそのものを、詫びているような仕草だった。

あれほど嬉しそうだった顔から、すっかり、笑みが消えていた。

その姿が、私には、どうにも、見ていられなかった。

孫のために野菜を抱えたこの人の、どこに、詫びる理由があるというのか。

悪いのは、土の匂いなどでは、断じてない。

人を、見た目だけで切り捨てる、あの心のほうだ。

私は、まだ若く、こういうとき、どうすればいいのか、わからなかった。

規則では、空いている上等な寝台へ、勝手に客を案内することは、できない。

かといって、身なりのいい客の言いなりに、老人を追いやるのも、違う気がした。

胸の奥が、ぐつぐつと、煮えるようだった。

私は、いったんその場を離れ、車掌長に、相談することにした。

車掌長は、長年この夜行列車に乗り続けてきた、白髪の人だった。

無口だが、客のことを、誰よりよく見ている人だった。

新人の私が失敗したときも、決して、人前では叱らない人だった。

私が、事のしだいを話すと、車掌長は、腕を組んで、しばらく黙って聞いていた。

それから、ひとつ、ゆっくりと、うなずいた。

「わかった」と、車掌長は、静かに言った。

「あのご老人を、空いている、個室の寝台へ、ご案内しなさい」

「えっ」と、私は、思わず、聞き返した。

個室の寝台といえば、この列車で、いちばん上等な、特別な席だ。

「本当に、よろしいんですか」

車掌長は、もう一度、はっきりと、うなずいた。

「ああ。何かあれば、私が、責めを負う」

そして、ほんの少しだけ、口元に、笑みを浮かべた。

「ああいうお客さまにこそ、いちばんいい席で、休んでいただきたいじゃないか」

その言葉に、私の迷いは、すっと、晴れていった。

人を、その身なりで計ってはならない。

車掌長は、ひと言も、そうは口にしなかった。

けれど、その判断のすべてが、それを、私に教えていた。

私は、あの女性のいる車両へ、戻った。

消灯後の通路を、懐中電灯の灯りが、ひとすじ照らしている。

周りの寝台の客たちも、薄目を開けて、息をひそめ、なりゆきを見守っていた。

きっと、誰もが、こう思っていたはずだ。

あの泥だらけの老人が、肩身せまく、どこかへ追いやられるのだ、と。

私は、女性の寝台の前を、すっと、通り過ぎた。

上等な香水の匂いが、つん、と鼻をついた。

女性は、勝ち誇ったような顔で、私を待っていた。

だが、私は、その前では、足を止めなかった。

通路をはさんだ、向かいの寝台の、老人の前で、私は、立ち止まった。

そして、深々と、頭を下げた。

私が頭を下げたのは、女性にではなく、老人のほうだった。

「お客様。どうぞ、こちらへ、おいでくださいませ」

「空いております、個室の寝台を、ご用意いたしました」

老人は、きょとんとした顔で、私を見上げた。

通路の空気が、しんと、張りつめた。

私は、努めて、おだやかに、こう続けた。

「隣の席があんな方では、さぞ、お休みになれないでしょう」

「車掌長が、特別に、ご手配いたしました」

言い終えて、私は、ちらりと、あの女性のほうへ、目をやった。

私の言った「あんな方」が、いったい誰を指しているのか。

その意味に気づいた女性の顔が、みるみるうちに、赤くなった。

口を開きかけて、けれど、何も言えずに、女性は、カーテンの奥へ、顔を引っ込めた。

あれほど大きかったあの声は、それきり、ひと晩じゅう、聞こえてこなかった。

通路の客たちは、声こそ立てなかったが、みな、穏やかに、笑っていた。

どこかの寝台で、誰かが、拍手のかわりに、毛布を、ぽん、と軽く叩いた。

その音が、暗い車内に、ひとつ、あたたかく響いた。

老人は、まだ事情がよく呑み込めない様子で、おろおろしていた。

「いや、わしのような者が、こんな上等な席は」

「とんでもない」と、しきりに、恐縮している。

「どうぞ、ご遠慮なさいませんように」と、私は、もう一度、頭を下げた。

「これは、あなた様のための席なのです」

私は、老人の風呂敷包みを、かわりに持って、先に立った。

老人は、何度も振り返り、周りの客に頭を下げながら、私のあとをついてきた。

個室の扉を開けると、老人は、小さく、息を呑んだ。

清潔な布団と、枕元に小さな灯りのともる、静かな個室だった。

窓の外を、暗い田畑の影が、後ろへ後ろへと、流れていく。

「こんな、もったいない」と、老人は、目を、潤ませた。

「生まれて初めてだ、こんな上等なところで、寝るのは」

その声は、少しだけ、震えていた。

私は、何も言わず、ただ、枕元の灯りを、ひとつ、灯してさしあげた。

小さな窓に、老人の、安心したような横顔が、映っていた。

私が、扉を閉めて出ていこうとすると、老人は、あわてて、風呂敷を解いた。

そして、中から、よく熟れた、赤いトマトを、ひとつ、取り出した。

「これ、わしの畑のだ。よかったら、もらってくれんか」

土のついた、まだ陽のぬくもりが残るような、見事なトマトだった。

「お孫さんへの、大事なお土産でしょう」と、私は、断ろうとした。

「いや。あんたにも、ひとつ、食べてほしいんだ」

「あんたは、わしの恥を、恥じゃなくしてくれた」

その、まっすぐな言葉に、私は、断ることが、できなかった。

差し出された老人の手は、節くれだって、土の匂いがして、あたたかかった。

私は、両手で、そのトマトを、受け取った。

その夜、私は、乗務員の休憩室で、そのトマトを、かじった。

太陽と、土と、誰かの一生の労りの味が、口いっぱいに、広がった。

あんなにうまいトマトを、私は、後にも先にも、食べたことがない。

翌朝、終着駅で、老人は、何度も何度も、私に頭を下げて、人混みへ消えていった。

その背中は、来たときよりも、ずっと、晴れやかに見えた。

私は、ホームの隅から、その姿が見えなくなるまで、見送った。

きっと今ごろ、初孫を、あの土の匂いのする手で、抱いているのだろう。

あれから、四十年が経った。

私は、もう、列車を降りて、ずいぶんになる。

それでも、夏が来て、店先に赤いトマトが並ぶたび、私は、あの夜を思い出す。

身なりの立派さと、人の立派さとは、まるで別のものだ。

近くにいて、遠い人がいる。

遠くから来て、すぐ隣にいるように温かい人がいる。

品格とは、着ている物にではなく、その人の振る舞いに、静かに宿るのだ。

あの夜、いちばん上等な席に、いちばんふさわしかったのは、誰だったか。

それは、土のにおいのする、あの老人のほうだったと、私は、今も信じている。

そして、人にどう向き合うべきかを、私は、あの夜の車掌長の背中から学んだ。

見えるもので人を計らず、見えないものにこそ、敬意を払うこと。

それが、四十年、私が胸の奥で守り続けてきた、たったひとつの誇りだ。

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