並べておいたよ

今、私には二人の子どもがいます。

けれど本当は、私は三人の子の母親です。

そのことを、私はずいぶん長いあいだ、誰にも言えずにいました。

言葉にした途端、あの子が本当に遠くへ行ってしまう気がして、怖かったのです。

雪深い温泉町の、古い旅館で仲居をしています。

十九の春に、私は最初の子を産みました。

結婚しようと言っていた人は、結局、その子を認知することすら、してくれませんでした。

若い私にとって、独りで子を育てるということは、あまりに重い役割でした。

朝は暗いうちから旅館の厨房に立ち、昼は客室の布団を上げ、夜は宴会場の後片づけをする。

娘を近所のおばあさんに預けては、雪の坂を走って迎えに戻る、そんな毎日でした。

手はいつも、あかぎれで切れていました。

何でこの子を産んだのだろう。どうして私は、子育てなんてしているのだろう。

そんな思いが、疲れた胸の底に、いつも冷たく溜まっていました。

それでも、娘はすくすくと育ってくれました。

名を、咲といいました。

旅館の女将さんが、こんな寒い土地に咲く花のようにと、名付けを手伝ってくれたのです。

咲は、旅館のお客さんたちにも、よく可愛がられました。

帳場の隅にちょこんと座って、お客さんにお辞儀をするのが、この子の役目でした。

「仲居さんとこの子は、しっかりしてるねえ」

そう言われるたびに、私は少しだけ、独りで育ててきた日々が報われる気がしました。

咲には、小さな癖がありました。

玄関の履物を、いつも、きちんと並べる子だったのです。

私の長靴も、自分の赤い長靴も、鼻先をそろえて、雪をはたいて。

その赤い長靴は、女将さんが三つの誕生日に買ってくれた、あの子の宝物でした。

「どうしていつも、並べてくれるの」

一度、私が聞くと、咲は当たり前のような顔で言いました。

「だって、朝すぐ履けたら、ママ、走らなくていいでしょう」

私がいつも坂を走っているのを、この子は、ちゃんと見ていたのです。

胸の奥が、じんと熱くなったのを覚えています。

冬になると、温泉町では、雪灯籠の祭りがありました。

咲は、赤い長靴を履いて、雪の中に立つ灯籠の炎を、飽きもせず見つめていました。

「ママ、火って、どうしてあったかいの」

「そうねえ。みんなの、あったかい気持ちが集まってるからかな」

「じゃあ、咲の気持ちも、まざってる?」

「まざってるよ。いちばん、あったかいのが」

咲は、満足そうにうなずいて、私の手を、ぎゅっと握りました。

その小さな手の温かさを、私は今も、手のひらの奥に覚えています。

旅館の常連のおじいさんが、その祭りの晩、咲に小さな飴玉をくれました。

「嬢ちゃん、いつも帳場でお辞儀してくれて、ありがとうな」

咲は、その飴を、次の日まで大事に握りしめて、溶けてしまったと半べそをかいていました。

はじめて描いてくれた、私の顔の絵。

クレヨンの、口が耳まで裂けたような、大きな笑顔でした。

「ママ、いつも怒った顔してるのに、絵だと笑ってるのね」

私がそう言うと、咲は、少し得意そうに笑いました。

「だって、ママが笑ってるほうが、すきだもん」

その言葉に、私は、返す言葉を持てませんでした。

疲れて、苛立って、この子にきつく当たった夜が、いくつも思い出されたからです。

雪の日には、二人で、小さすぎる雪だるまを作りました。

赤い長靴で、わざと水たまりを踏んで、二人で声をあげて笑いました。

どんなにきつく叱ってしまった夜も、咲はいつも、朝には履物を並べていました。

あの頃の私は、その優しさの意味を、深く考えることも、ありませんでした。

当たり前に、明日が来るものだと、信じきっていたのです。

独りで育てる日々は、体よりも、心が先に音を上げそうになりました。

ある晩、私は洗い物の途中で、どうしようもなく涙が止まらなくなりました。

疲れていたのだと思います。ただ、疲れていたのです。

すると、寝ていたはずの咲が、そっと台所に来て、私の背中に、小さな手を当てました。

「ママ、ないてるの?」

「ううん。目にお水が入っただけ」

「うそだ。咲がいるから、だいじょうぶだよ」

あの小さな手のひらの温もりで、私は、また明日も立ち上がれたのです。

守ってやっているつもりで、本当は、私のほうが、あの子に守られていました。

その事実に、私が気づいたのは、ずっと、ずっと後のことでした。

咲は、その年の春から、坂の下の幼稚園に通いはじめていました。

黄色い帽子が、雪の残る坂道で、ぴょこぴょこと揺れるのを、私は仕事の窓から見送りました。

「ママ、おしごと、がんばってね。咲も、ようちえん、がんばる」

門の前で振り返って、あの子は、いつも大きく手を振りました。

迎えに行くと、先生が笑って言うのです。

「咲ちゃん、お友だちの靴まで、そろえてあげるんですよ」

「まあ、うちだけじゃなかったのね」

私は、恥ずかしいような、誇らしいような気持ちで、あの子の手を引いて坂を上りました。

あの黄色い帽子を、私はもう、あの坂で見ることができません。

それでも、坂の下の幼稚園の前を通るたびに、あの子の振る手が、今も見える気がするのです。

それは、秋の、突然の出来事でした。

その前の晩、咲は、やけに私にべたべたと甘えてきました。

大して寒くもない夜なのに、寒い、寒い、と繰り返すのです。

額に手を当てても、熱はありません。

「風邪でもひいたかな。もう遅いから、早くお休み」

そう言って、私は咲に添い寝をしました。

咲は、私の腕にしがみついたまま、小さな声で言いました。

「ママ、ありがとう。ママ、だいすき」

「はいはい。ママも大好きよ。もうおやすみ」

「あのね、ママの長靴、玄関に並べておいたよ。明日の朝、すぐ履けるように」

「うん、ありがとう。えらいね」

私は、なかば聞き流していました。

一日の疲れで、まぶたが、鉛のように重かったのです。

咲が私の腕の中で寝息を立てはじめたとき、正直、私は少しだけ、ほっとしました。

やっと、今日という一日から、解放される。

少しだけテレビを見て、それから私も、咲の隣で眠りました。

あの晩の、あの子の体温を、私はもっと、抱きしめておくべきでした。

翌朝、咲は、目を覚ましませんでした。

起こしても、起こしても、あの子は目を開けてくれませんでした。

救急車。冷たい廊下。私には、その日のことが、断片でしか思い出せません。

解剖があり、事情聴取がありました。

事件性はないと判断され、原因不明の、突発的な心臓の発作だと説明されました。

納得できるはずが、ありませんでした。

昨日まで、あんなに元気に、水たまりを踏んで笑っていた子です。

火葬場では、焼かないでくれと、私は棺にすがりつきました。

炉の前で、半狂乱になって泣き喚きました。

手のひらに戻ってきた小さな骨が、あの咲のものだとは、どうしても思えませんでした。

旅館の女将さんが、私を後ろから、ずっと抱きしめていてくれました。

「あんたのせいじゃない。誰のせいでもない」

その言葉さえ、あの頃の私には、遠い雪の音のようにしか、聞こえませんでした。

それからのことを、うまく言葉にできません。

突然、独り身に戻った私に、年相応の自由が与えられました。

けれど、その自由の意味が、私にはまるで分かりませんでした。

玄関には、咲が最後にそろえた、私の長靴と、赤い長靴が、並んだままでした。

私は、それを片づけることが、どうしてもできませんでした。

あの赤い長靴を見るたびに、胸の奥が、氷の塊を飲んだように冷たくなりました。

それでも、私は毎朝、その並んだ長靴を履いて、雪の坂を下りていったのです。

あの子が、そうしてくれたように。

人というのは、恐ろしいもので、その内、また笑えるようになります。

けれど夜になると、涙は勝手に溢れました。

雪の坂を、小さな子の手を引いて歩く親子を見ると、胸が潰れそうになりました。

小学校の前を通れなくなって、私は遠回りの道ばかりを、選ぶようになりました。

あの子を見送ってしばらく、私は、自分を責め続けました。

あの晩、寒い寒いと言った咲を、なぜもっと気にかけてやらなかったのか。

ほっとして眠ってしまった自分を、私は、何度も何度も、許せませんでした。

町の人たちは、優しくも、残酷でした。

「若いんだから、また産めばいい」

悪気なくそう言われるたびに、私は、笑ってうなずくしかありませんでした。

あの子は、代わりのきく子では、なかったのに。

けれど、その言葉に頭を下げて耐えたことも、今思えば、私を少しずつ、前へ押し出していたのかもしれません。

咲のいない、初めての正月が来ました。

旅館は、一年でいちばん忙しい時季です。

私は、笑顔でお客さんに屠蘇を運びながら、化粧室で何度も、声を殺して泣きました。

家に帰ると、玄関には、あの並んだ長靴が、じっと私を待っていました。

大きい長靴と、小さな赤い長靴。

私は、その赤い長靴を胸に抱いて、冷たい玄関にしゃがみ込みました。

「咲、ママ、今日もちゃんと、履物を履いて、行ってきたよ」

誰もいない部屋に、私はそう話しかけました。

あの子がそろえてくれた履物を履くことだけが、あの頃の私を、辛うじて外へ出してくれていたのです。

咲は、旅館の仕事を手伝うのが、好きな子でした。

畳んだおしぼりを、小さな手で、一つずつ籠に並べていく。

「ママ、こうやって、まっすぐにするんでしょう」

「上手ね。咲がいると、ママ、助かるなあ」

「じゃあ、咲、ずっとママのお手伝いする。おおきくなっても」

その言葉を、私は、軽い約束として聞き流していました。

叶わなかった約束の数を、私は、あの子を見送ってから、ひとつずつ数えました。

数えるほどに、胸は痛みましたが、それは、あの子が確かに生きた証でもありました。

あの小さな手が並べたおしぼりの、まっすぐな列を、私は今も思い出します。

何かをまっすぐに、きちんと並べること。

それは、あの子が私に遺してくれた、たったひとつの、けれど確かな習慣でした。

咲を見送ってから、二年が経ったころ、私は、ある人と結婚しました。

旅館に、毎年ひとりで来ていた、口数の少ない、優しい人でした。

その人は、咲のことを、無理に聞き出そうとはしませんでした。

ただ、玄関に並んだ赤い長靴を見て、一度だけ、静かに言いました。

「これは、ずっとここに、置いておこうね」

その言葉に、私は、声を殺して泣きました。

そして去年、私は三人目の子を、また女の子を、産みました。

上の子は、今、幼稚園に通っています。

幼子と赤ん坊、二人の育児に、私は毎日、へとへとになっています。

寝不足で、苛立って、つい大きな声を出してしまう夜もあります。

けれど、その疲れの中で、私はときどき、ふと手が止まるのです。

あの子が生きていたら、今頃、いくつになっているだろう。

きっと、この妹たちの、いいお姉ちゃんに、なってくれただろうに。

新しい命を授かったと分かったとき、私は、嬉しさよりも先に、怖くなりました。

この子を、また失ったら。私は、今度こそ壊れてしまう。

そう思うと、生まれてくる子を、素直に愛することが、怖かったのです。

上の子が生まれた日、私は、その小さな寝顔を見て、震えました。

夫は、そんな私の肩に、そっと手を置いて言いました。

「怖がっていいよ。二人で、怖がろう」

「私、ちゃんと、この子を愛せるかな」

「もう、愛してるよ。さっきから、ずっと手を握ってる」

見ると、私は無意識に、赤ん坊の小さな指を、握りしめていました。

その温かさは、いつか、咲の手を握ったときの温かさと、確かに繋がっていました。

愛せるかどうか、ではなかったのです。

私はもう、咲に、愛し方を教わっていたのですから。

つい先日のことでした。

仕事から帰ると、玄関の履物が、きちんと並べてありました。

私の靴も、上の子の小さな靴も、赤ん坊の靴下まで、鼻先をそろえて。

「これ、あなたが並べてくれたの」

上の子に聞くと、その子は、得意げにうなずきました。

「うん。ママ、いつも急いでるから。すぐ履けるように」

誰にも、教えていない言葉でした。

私は、その場に、くずおれてしまいました。

咲が、あの日と、まったく同じことを、していたのです。

ママが走らなくていいように、履物を並べておく。

あの子は、私がいつでもすぐに前へ進めるように、いつも、履物をそろえておいてくれたのです。

生きているあいだも。そして、いなくなってからも、ずっと。

並んだ小さな靴の隣で、私は、しばらく立ち上がれませんでした。

上の子が、心配そうに、私の背中をさすってくれていました。

三人目の子の話を、私は最近になって、ようやく旅館の仲間に打ち明けました。

本当は三人の母なのだと、初めて、声に出して言えたのです。

女将さんは、静かに、私の手を握ってくれました。

「よく、ここまで来たね。咲ちゃんも、きっと見てるよ」

「はい。あの子が、道を作ってくれたんです」

言いながら、私は泣いていましたが、その涙は、もう冷たくありませんでした。

辛さを閉じ込めていた氷が、少しずつ、溶けていくようでした。

雪の坂を下りるとき、私はいつも、あの子の並べてくれた履物のことを思います。

急がなくていい。走らなくていい。

あの子は、そう言って、いつも私の足元を、そっと整えてくれていました。

世界でいちばん短い時間しか、私のそばにいられなかったのに。

それでもあの子は、母である私に、いちばん大切なことを、教えて逝きました。

下の子が、初めてつかまり立ちをした日、上の子がぱたぱたと玄関へ走っていきました。

見ると、その子は、赤ん坊の小さな靴下を、私の靴の隣に、そっと並べていました。

「あかちゃんのぶんも、ならべたよ。みんなで、いっしょにでかけられるように」

私は、笑いながら、また泣いてしまいました。

三人ぶんの履物が、玄関に、まっすぐに並んでいる。

その光景が、私には、この世でいちばん美しいものに思えたのです。

咲がいなかったら、私は、こんなにも子どもを愛せなかったと思います。

咲がいなかったら、子どもがこんなに大切だと、知らないままだったでしょう。

あの子が旅立たなかったら、私はきっと、もっともっと、身勝手な母親のままだったのです。

辛くて、辛くて、ずっと胸の奥に封じてきた言葉を、今、こうして書くことができます。

それは、この子たちが、生まれてきてくれたおかげです。

そして、私に「並べておいたよ」と教えてくれた、咲のおかげです。

ありがとう。ありがとう。生まれてきてくれて、ありがとう。

いなくなって、寂しいよ。今でも、寂しくてたまらないよ。

それでも私は、あなたが並べてくれた履物を履いて、今日も雪の坂を、下りていきます。

三人ぶんの、小さな手を、しっかりと握って。

あの赤い長靴は、下の子が大きくなったら、履かせてあげようと思っています。

きっと咲も、妹に自分の宝物を貸すのは、いやだと言うかもしれません。

それでも、笑って許してくれる気がするのです。

玄関の隅の赤い長靴は、今も、いちばん端に、そろえて置いてあります。

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