今、私には二人の子どもがいます。
けれど本当は、私は三人の子の母親です。
そのことを、私はずいぶん長いあいだ、誰にも言えずにいました。
言葉にした途端、あの子が本当に遠くへ行ってしまう気がして、怖かったのです。
※
雪深い温泉町の、古い旅館で仲居をしています。
十九の春に、私は最初の子を産みました。
結婚しようと言っていた人は、結局、その子を認知することすら、してくれませんでした。
若い私にとって、独りで子を育てるということは、あまりに重い役割でした。
朝は暗いうちから旅館の厨房に立ち、昼は客室の布団を上げ、夜は宴会場の後片づけをする。
娘を近所のおばあさんに預けては、雪の坂を走って迎えに戻る、そんな毎日でした。
手はいつも、あかぎれで切れていました。
何でこの子を産んだのだろう。どうして私は、子育てなんてしているのだろう。
そんな思いが、疲れた胸の底に、いつも冷たく溜まっていました。
それでも、娘はすくすくと育ってくれました。
名を、咲といいました。
旅館の女将さんが、こんな寒い土地に咲く花のようにと、名付けを手伝ってくれたのです。
※
咲は、旅館のお客さんたちにも、よく可愛がられました。
帳場の隅にちょこんと座って、お客さんにお辞儀をするのが、この子の役目でした。
「仲居さんとこの子は、しっかりしてるねえ」
そう言われるたびに、私は少しだけ、独りで育ててきた日々が報われる気がしました。
咲には、小さな癖がありました。
玄関の履物を、いつも、きちんと並べる子だったのです。
私の長靴も、自分の赤い長靴も、鼻先をそろえて、雪をはたいて。
その赤い長靴は、女将さんが三つの誕生日に買ってくれた、あの子の宝物でした。
「どうしていつも、並べてくれるの」
一度、私が聞くと、咲は当たり前のような顔で言いました。
「だって、朝すぐ履けたら、ママ、走らなくていいでしょう」
私がいつも坂を走っているのを、この子は、ちゃんと見ていたのです。
胸の奥が、じんと熱くなったのを覚えています。
※
※
冬になると、温泉町では、雪灯籠の祭りがありました。
咲は、赤い長靴を履いて、雪の中に立つ灯籠の炎を、飽きもせず見つめていました。
「ママ、火って、どうしてあったかいの」
「そうねえ。みんなの、あったかい気持ちが集まってるからかな」
「じゃあ、咲の気持ちも、まざってる?」
「まざってるよ。いちばん、あったかいのが」
咲は、満足そうにうなずいて、私の手を、ぎゅっと握りました。
その小さな手の温かさを、私は今も、手のひらの奥に覚えています。
旅館の常連のおじいさんが、その祭りの晩、咲に小さな飴玉をくれました。
「嬢ちゃん、いつも帳場でお辞儀してくれて、ありがとうな」
咲は、その飴を、次の日まで大事に握りしめて、溶けてしまったと半べそをかいていました。
はじめて描いてくれた、私の顔の絵。
クレヨンの、口が耳まで裂けたような、大きな笑顔でした。
「ママ、いつも怒った顔してるのに、絵だと笑ってるのね」
私がそう言うと、咲は、少し得意そうに笑いました。
「だって、ママが笑ってるほうが、すきだもん」
その言葉に、私は、返す言葉を持てませんでした。
疲れて、苛立って、この子にきつく当たった夜が、いくつも思い出されたからです。
雪の日には、二人で、小さすぎる雪だるまを作りました。
赤い長靴で、わざと水たまりを踏んで、二人で声をあげて笑いました。
どんなにきつく叱ってしまった夜も、咲はいつも、朝には履物を並べていました。
あの頃の私は、その優しさの意味を、深く考えることも、ありませんでした。
当たり前に、明日が来るものだと、信じきっていたのです。
※
※
独りで育てる日々は、体よりも、心が先に音を上げそうになりました。
ある晩、私は洗い物の途中で、どうしようもなく涙が止まらなくなりました。
疲れていたのだと思います。ただ、疲れていたのです。
すると、寝ていたはずの咲が、そっと台所に来て、私の背中に、小さな手を当てました。
「ママ、ないてるの?」
「ううん。目にお水が入っただけ」
「うそだ。咲がいるから、だいじょうぶだよ」
あの小さな手のひらの温もりで、私は、また明日も立ち上がれたのです。
守ってやっているつもりで、本当は、私のほうが、あの子に守られていました。
その事実に、私が気づいたのは、ずっと、ずっと後のことでした。
※
咲は、その年の春から、坂の下の幼稚園に通いはじめていました。
黄色い帽子が、雪の残る坂道で、ぴょこぴょこと揺れるのを、私は仕事の窓から見送りました。
「ママ、おしごと、がんばってね。咲も、ようちえん、がんばる」
門の前で振り返って、あの子は、いつも大きく手を振りました。
迎えに行くと、先生が笑って言うのです。
「咲ちゃん、お友だちの靴まで、そろえてあげるんですよ」
「まあ、うちだけじゃなかったのね」
私は、恥ずかしいような、誇らしいような気持ちで、あの子の手を引いて坂を上りました。
あの黄色い帽子を、私はもう、あの坂で見ることができません。
それでも、坂の下の幼稚園の前を通るたびに、あの子の振る手が、今も見える気がするのです。
それは、秋の、突然の出来事でした。
その前の晩、咲は、やけに私にべたべたと甘えてきました。
大して寒くもない夜なのに、寒い、寒い、と繰り返すのです。
額に手を当てても、熱はありません。
「風邪でもひいたかな。もう遅いから、早くお休み」
そう言って、私は咲に添い寝をしました。
咲は、私の腕にしがみついたまま、小さな声で言いました。
「ママ、ありがとう。ママ、だいすき」
「はいはい。ママも大好きよ。もうおやすみ」
「あのね、ママの長靴、玄関に並べておいたよ。明日の朝、すぐ履けるように」
「うん、ありがとう。えらいね」
私は、なかば聞き流していました。
一日の疲れで、まぶたが、鉛のように重かったのです。
咲が私の腕の中で寝息を立てはじめたとき、正直、私は少しだけ、ほっとしました。
やっと、今日という一日から、解放される。
少しだけテレビを見て、それから私も、咲の隣で眠りました。
あの晩の、あの子の体温を、私はもっと、抱きしめておくべきでした。
※
翌朝、咲は、目を覚ましませんでした。
起こしても、起こしても、あの子は目を開けてくれませんでした。
救急車。冷たい廊下。私には、その日のことが、断片でしか思い出せません。
解剖があり、事情聴取がありました。
事件性はないと判断され、原因不明の、突発的な心臓の発作だと説明されました。
納得できるはずが、ありませんでした。
昨日まで、あんなに元気に、水たまりを踏んで笑っていた子です。
火葬場では、焼かないでくれと、私は棺にすがりつきました。
炉の前で、半狂乱になって泣き喚きました。
手のひらに戻ってきた小さな骨が、あの咲のものだとは、どうしても思えませんでした。
旅館の女将さんが、私を後ろから、ずっと抱きしめていてくれました。
「あんたのせいじゃない。誰のせいでもない」
その言葉さえ、あの頃の私には、遠い雪の音のようにしか、聞こえませんでした。
※
それからのことを、うまく言葉にできません。
突然、独り身に戻った私に、年相応の自由が与えられました。
けれど、その自由の意味が、私にはまるで分かりませんでした。
玄関には、咲が最後にそろえた、私の長靴と、赤い長靴が、並んだままでした。
私は、それを片づけることが、どうしてもできませんでした。
あの赤い長靴を見るたびに、胸の奥が、氷の塊を飲んだように冷たくなりました。
それでも、私は毎朝、その並んだ長靴を履いて、雪の坂を下りていったのです。
あの子が、そうしてくれたように。
人というのは、恐ろしいもので、その内、また笑えるようになります。
けれど夜になると、涙は勝手に溢れました。
雪の坂を、小さな子の手を引いて歩く親子を見ると、胸が潰れそうになりました。
小学校の前を通れなくなって、私は遠回りの道ばかりを、選ぶようになりました。
※
※
※
あの子を見送ってしばらく、私は、自分を責め続けました。
あの晩、寒い寒いと言った咲を、なぜもっと気にかけてやらなかったのか。
ほっとして眠ってしまった自分を、私は、何度も何度も、許せませんでした。
町の人たちは、優しくも、残酷でした。
「若いんだから、また産めばいい」
悪気なくそう言われるたびに、私は、笑ってうなずくしかありませんでした。
あの子は、代わりのきく子では、なかったのに。
けれど、その言葉に頭を下げて耐えたことも、今思えば、私を少しずつ、前へ押し出していたのかもしれません。
咲のいない、初めての正月が来ました。
旅館は、一年でいちばん忙しい時季です。
私は、笑顔でお客さんに屠蘇を運びながら、化粧室で何度も、声を殺して泣きました。
家に帰ると、玄関には、あの並んだ長靴が、じっと私を待っていました。
大きい長靴と、小さな赤い長靴。
私は、その赤い長靴を胸に抱いて、冷たい玄関にしゃがみ込みました。
「咲、ママ、今日もちゃんと、履物を履いて、行ってきたよ」
誰もいない部屋に、私はそう話しかけました。
あの子がそろえてくれた履物を履くことだけが、あの頃の私を、辛うじて外へ出してくれていたのです。
※
咲は、旅館の仕事を手伝うのが、好きな子でした。
畳んだおしぼりを、小さな手で、一つずつ籠に並べていく。
「ママ、こうやって、まっすぐにするんでしょう」
「上手ね。咲がいると、ママ、助かるなあ」
「じゃあ、咲、ずっとママのお手伝いする。おおきくなっても」
その言葉を、私は、軽い約束として聞き流していました。
叶わなかった約束の数を、私は、あの子を見送ってから、ひとつずつ数えました。
数えるほどに、胸は痛みましたが、それは、あの子が確かに生きた証でもありました。
あの小さな手が並べたおしぼりの、まっすぐな列を、私は今も思い出します。
何かをまっすぐに、きちんと並べること。
それは、あの子が私に遺してくれた、たったひとつの、けれど確かな習慣でした。
咲を見送ってから、二年が経ったころ、私は、ある人と結婚しました。
旅館に、毎年ひとりで来ていた、口数の少ない、優しい人でした。
その人は、咲のことを、無理に聞き出そうとはしませんでした。
ただ、玄関に並んだ赤い長靴を見て、一度だけ、静かに言いました。
「これは、ずっとここに、置いておこうね」
その言葉に、私は、声を殺して泣きました。
そして去年、私は三人目の子を、また女の子を、産みました。
上の子は、今、幼稚園に通っています。
幼子と赤ん坊、二人の育児に、私は毎日、へとへとになっています。
寝不足で、苛立って、つい大きな声を出してしまう夜もあります。
けれど、その疲れの中で、私はときどき、ふと手が止まるのです。
あの子が生きていたら、今頃、いくつになっているだろう。
きっと、この妹たちの、いいお姉ちゃんに、なってくれただろうに。
※
※
新しい命を授かったと分かったとき、私は、嬉しさよりも先に、怖くなりました。
この子を、また失ったら。私は、今度こそ壊れてしまう。
そう思うと、生まれてくる子を、素直に愛することが、怖かったのです。
上の子が生まれた日、私は、その小さな寝顔を見て、震えました。
夫は、そんな私の肩に、そっと手を置いて言いました。
「怖がっていいよ。二人で、怖がろう」
「私、ちゃんと、この子を愛せるかな」
「もう、愛してるよ。さっきから、ずっと手を握ってる」
見ると、私は無意識に、赤ん坊の小さな指を、握りしめていました。
その温かさは、いつか、咲の手を握ったときの温かさと、確かに繋がっていました。
愛せるかどうか、ではなかったのです。
私はもう、咲に、愛し方を教わっていたのですから。
つい先日のことでした。
仕事から帰ると、玄関の履物が、きちんと並べてありました。
私の靴も、上の子の小さな靴も、赤ん坊の靴下まで、鼻先をそろえて。
「これ、あなたが並べてくれたの」
上の子に聞くと、その子は、得意げにうなずきました。
「うん。ママ、いつも急いでるから。すぐ履けるように」
誰にも、教えていない言葉でした。
私は、その場に、くずおれてしまいました。
咲が、あの日と、まったく同じことを、していたのです。
ママが走らなくていいように、履物を並べておく。
あの子は、私がいつでもすぐに前へ進めるように、いつも、履物をそろえておいてくれたのです。
生きているあいだも。そして、いなくなってからも、ずっと。
並んだ小さな靴の隣で、私は、しばらく立ち上がれませんでした。
上の子が、心配そうに、私の背中をさすってくれていました。
※
※
三人目の子の話を、私は最近になって、ようやく旅館の仲間に打ち明けました。
本当は三人の母なのだと、初めて、声に出して言えたのです。
女将さんは、静かに、私の手を握ってくれました。
「よく、ここまで来たね。咲ちゃんも、きっと見てるよ」
「はい。あの子が、道を作ってくれたんです」
言いながら、私は泣いていましたが、その涙は、もう冷たくありませんでした。
辛さを閉じ込めていた氷が、少しずつ、溶けていくようでした。
雪の坂を下りるとき、私はいつも、あの子の並べてくれた履物のことを思います。
急がなくていい。走らなくていい。
あの子は、そう言って、いつも私の足元を、そっと整えてくれていました。
世界でいちばん短い時間しか、私のそばにいられなかったのに。
それでもあの子は、母である私に、いちばん大切なことを、教えて逝きました。
下の子が、初めてつかまり立ちをした日、上の子がぱたぱたと玄関へ走っていきました。
見ると、その子は、赤ん坊の小さな靴下を、私の靴の隣に、そっと並べていました。
「あかちゃんのぶんも、ならべたよ。みんなで、いっしょにでかけられるように」
私は、笑いながら、また泣いてしまいました。
三人ぶんの履物が、玄関に、まっすぐに並んでいる。
その光景が、私には、この世でいちばん美しいものに思えたのです。
咲がいなかったら、私は、こんなにも子どもを愛せなかったと思います。
咲がいなかったら、子どもがこんなに大切だと、知らないままだったでしょう。
あの子が旅立たなかったら、私はきっと、もっともっと、身勝手な母親のままだったのです。
辛くて、辛くて、ずっと胸の奥に封じてきた言葉を、今、こうして書くことができます。
それは、この子たちが、生まれてきてくれたおかげです。
そして、私に「並べておいたよ」と教えてくれた、咲のおかげです。
ありがとう。ありがとう。生まれてきてくれて、ありがとう。
いなくなって、寂しいよ。今でも、寂しくてたまらないよ。
それでも私は、あなたが並べてくれた履物を履いて、今日も雪の坂を、下りていきます。
三人ぶんの、小さな手を、しっかりと握って。
あの赤い長靴は、下の子が大きくなったら、履かせてあげようと思っています。
きっと咲も、妹に自分の宝物を貸すのは、いやだと言うかもしれません。
それでも、笑って許してくれる気がするのです。
玄関の隅の赤い長靴は、今も、いちばん端に、そろえて置いてあります。