息子の遠足の弁当を、俺が作ることになった。
嫁が、下の子を産むために入院していたからだ。
飯を炊くほかは、包丁も握ったことのない男が、である。
※
うちは十勝の、牛を五十頭ほど飼っている酪農家だ。
親父の代からで、俺は二代目になる。
朝は三時半に起きて、四時前には牛舎の灯りをつける。
搾乳が終わるのが七時。
それから餌をやって、糞を出して、寝床の敷料を替える。
一日が始まる頃には、もう半日ぶん働いている。
そういう暮らしだから、台所は完全に嫁の領分だった。
十月の十勝は、朝がもう白い。
牛舎の戸を開けると、五十頭ぶんの息が湯気になって天井に溜まっている。
その中に、乾いた草と、少し甘い牛乳の匂いが混ざる。
外は霜で、長靴の底が畑の土を噛む。
親父が生きていた頃から、うちは同じ時間に同じことをやってきた。
牛は待ってくれない。
盆も正月も、熱があっても、搾らないという選択肢がない。
だから俺は、家の中のことを、ぜんぶ美和に預けていた。
預けている、という自覚すらなかった。
俺が触ると、物の置き場所が変わる、と言われていた。
実際その通りだった。
嫁の名前は美和という。
結婚して七年、俺は一度も弁当を作ったことがなかった。
息子は正太といって、その春に保育園の年中組に上がったばかりだった。
※
美和が入院したのは、十月の頭だ。
切迫早産で、そのまま帯広の病院に入ることになった。
「四十日くらいかな」
病室で、美和は自分の腹を撫でながら言った。
「あんた、正太のご飯、大丈夫?」
「なんとかなる」
なるわけがなかった。
最初の三日は、正太と二人でラーメンばかり食っていた。
四日目に、正太が味噌汁が飲みたいと言った。
出汁の取り方が分からず、鍋に味噌を直接放り込んだ。
正太は一口飲んで、黙って碗を置いた。
碗の中で、味噌の塊が浮いていた。
溶いていなかったのだ。
「おいしくない?」
「……あったかい」
四歳が気を遣っている。
その晩、俺は台所に立って、しばらく動けなかった。
調味料の瓶が、どれも同じ形で並んでいた。
どれが何なのか、ラベルを一本ずつ見ないと分からない。
七年、俺はこの棚を見ていなかった。
冷蔵庫を開けたら、扉の内側にメモが貼ってあった。
美和の字で、正太のアレルギーの薬の飲ませ方が書いてあった。
日付は、入院する前の日だった。
※
遠足の知らせを、正太が連絡袋から出してきたのは、その週の終わりだった。
持ち物の欄に、はっきりと書いてあった。
お弁当。
俺は、その紙を三回読み直した。
翌朝、搾乳の合間にヘルパーの島田さんに聞いた。
六十過ぎの、口の悪い人だ。
「弁当? あんた、卵も割れんくせに」
「割れます」
「殻が入るくせに」
入る。
島田さんは酪農ヘルパーで、うちの搾乳を週に二回手伝ってくれている。
親父の代からの付き合いだ。
「弁当なんてもんはな、味じゃないんだわ」
「じゃあ何なんですか」
「開けたときの顔だ」
その時は、慰めを言われたのだと思った。
遠足の翌週、島田さんが搾乳に来たとき、その話をした。
弁当箱が空だったこと、手紙のこと。
島田さんは搾乳機を付けながら、こっちを見もしないで言った。
「だから言ったべさ」
「顔だって」
「あんた、渡すときの息子の顔、見てたか」
見ていた。
重い、と言って笑った顔を。
「そんならもう、それで足りとるわ」
島田さんは、その年の暮れに膝を悪くして、ヘルパーを辞めた。
辞める前の最後の日に、うちの台所で卵焼きを一本焼いていった。
きれいに巻けていた。
「これが正解だ。けどな」
「正解が旨いとは限らんのよ」
帰りに町の書店で、弁当の本を一冊買った。
表紙に、色とりどりのおかずが詰まった写真が載っていた。
自分に作れる料理は、その本の中に一つもなかった。
それでも夜、牛舎から戻って、風呂に入る前に読んだ。
付箋を七枚貼った。
七枚のうち五枚は、卵の項目だった。
※
美和には、公衆電話から掛けた。
牛舎の脇の、赤い箱の電話だ。
携帯はまだ電波が届かない土地だった。
夜の九時、コードを引っ張って、扉の隙間から風が入ってくる中で掛ける。
毎晩、十円玉を六枚握って行った。
「弁当って、どうやって詰めるんだ」
美和は笑わなかった。
「ご飯を先。おかずは、汁の出るのを最後」
「卵焼きは?」
「フライパン、しっかり熱くしてから」
「あと、牛乳入れると柔らかくなるよ」
それを、俺は聞き違えた。
柔らかくなるのはいいことだと思って、牛乳をたっぷり入れた。
話が済んでも、美和はすぐには切らなかった。
毎晩そうだった。
受話器の向こうで、美和はいつも、同じ長さだけ黙ってから電話を切った。
俺は、疲れて眠いのだろうと思っていた。
「もう切るぞ」
と言うと、
「もうちょっと」
と返ってくる。
それから、また黙る。
腹の子の話でもしているのかと思って、俺は待った。
待つのは、苦ではなかった。
牛舎の電球に虫が当たる音を聞きながら、受話器を耳に当てていた。
※
遠足の朝は、三時に起きた。
牛より早く起きたのは、あの日が初めてだ。
搾乳を早めに済ませて、五時から台所に立った。
米は、水加減を間違えて少し柔らかかった。
卵焼きは、牛乳を入れすぎて、フライパンの上で巻けなかった。
巻こうとするたびに崩れて、最後には炒り卵のようになった。
三回作り直して、三回とも崩れた。
四回目は、崩れたまま四角い形に押し固めた。
押し固めながら、これは卵焼きではないな、と思った。
卵を焼いたもの、ではある。
それ以上のことは、何も言えない代物だった。
時計を見たら、五時四十分だった。
外はまだ暗く、牛舎のほうから、朝の一番早い牛の声が聞こえた。
唐揚げは、本の通りにやったのに、中が生だった。
切り直して、もう一度揚げた。
衣が剥がれた。
出来上がった弁当は、見るのが辛いものだった。
ご飯の上に、崩れた黄色いものと、剥げた茶色いものが載っている。
彩りのために入れたミニトマトだけが、やけに赤かった。
それでも時間だった。
「はい」
正太に渡した。
正太は弁当袋を両手で受け取って、少しだけ持ち上げて、重さを確かめるようにした。
「おもい」
「入れすぎたか」
「ううん。うれしい」
そう言って、走って行った。
園バスは、うちの前の道を七時四十分に通る。
その日は俺も見送りに出た。
いつもは美和が出ている場所だ。
バスに乗り込むとき、正太は弁当袋を胸に抱えて、両手で持ち直した。
窓際の席に座って、袋を膝の上に置いた。
バスが動き出しても、袋を抱えたままだった。
他の子は、みんなリュックを網棚に上げていた。
そのことに気づいたのは、バスが見えなくなってからだ。
道の真ん中に立ったまま、俺はしばらく牛舎に戻れなかった。
俺は牛舎に戻って、その日は敷料を二回替えた。
何かしていないと、落ち着かなかった。
その日は、初産の牛が一頭、産気づいていた。
昼前から様子がおかしくて、夕方まで付ききりになった。
生まれたのは、迎えに行く一時間前だ。
濡れた仔牛が、三十分もしないうちに立ち上がろうとする。
何度も転んで、それでも立つ。
俺は藁の上に座って、それをずっと見ていた。
獣医の先生が煙草を消しながら言った。
「初産の母牛はな、なめ方が下手なんだわ」
「けど、やめないだろ」
※
夕方、迎えに行った。
先生が、正太の弁当箱と、もう一つ、折り畳んだ紙を渡してきた。
「今日、正太くん、これを」
弁当箱は、軽かった。
振っても、音がしなかった。
車の中で開けたら、米粒ひとつ残っていなかった。
紙のほうを開いた。
鉛筆で、大きく書いてあった。
とうちゃん ありがとう
その下に、絵があった。
髪が三本しかなくて、腕が体から直接生えている男が、四角い箱を持っている。
胸のところに、黒い長靴が描いてあった。
俺の長靴だ。
正太は、まだ自分の名前も書けなかったはずだった。
先生が言うには、午後の外遊びの時間、正太は一人で教室に残って、ずっとこれを書いていたのだという。
「みんな外に出てるのに、いいのって聞いたら」
「かかなきゃいけないって」
先生は少し笑って、こう付け足した。
「お父さん、これ、何日か前から練習してましたよ」
「練習」
「ええ。連絡帳の裏に、同じ字がいくつも」
その連絡帳は、帰ってから見た。
裏表紙に、鉛筆の線がびっしり残っていた。
形になっていない線が、下に行くほど字になっていく。
一番下の行だけ、五文字がきちんと並んでいた。
と、う、ち、ゃ、ん。
その隣に、小さく丸が描いてあった。
花丸のつもりだったらしい。
自分で、自分に付けたのだ。
※
帰りの車の中で訊いた。
「腹減ってないか。何か食いに行くか」
正太はチャイルドシートの中で、しばらく考えていた。
それから言った。
「とうちゃんの、たまごやきがたべたい」
信号が青になっても、俺はしばらく発進できなかった。
後ろの軽トラにクラクションを鳴らされた。
道の両側は、刈り取りの済んだ畑だった。
遠くの防風林の上に、日が落ちかけていた。
正太はもう寝ていた。
口が半分開いていた。
※
その晩、俺はまた卵焼きを作った。
やっぱり巻けなかった。
正太は、崩れたのを箸で挟んで、口に入れて、笑った。
「くずれてるほうが、いっぱいある」
子どもというのは、ときどき、大人が一生かかっても言えないことを言う。
その晩、弁当箱を洗った。
隅に、卵の黄色い粒が一つだけ残っていた。
指で取って、流しに落とした。
落としてから、少し惜しいような気がした。
洗い終えた弁当箱を、伏せて置いた。
明日また使うわけでもないのに、乾かしておきたかった。
台所の窓の外は、真っ暗だった。
牛舎の常夜灯だけが、遠くで白く光っていた。
その灯りは、親父が付けたものだ。
親父は、俺の弁当を一度も作ったことがない。
作る必要がなかったからだ。
うちの母親が、毎朝四時に起きて作っていた。
俺は、それを当たり前だと思って十八まで食っていた。
一度も、礼を言わなかった。
母親は、俺が二十七の年に逝った。
弁当箱を伏せながら、そのことを思い出した。
四歳が、外遊びの時間をつぶして書いた紙のことも一緒に思い出した。
あの子は、俺が十八年かかってもできなかったことを、その日のうちにやったのだ。
※
下の子は、十一月の終わりに生まれた。
女の子だった。
美和が退院してきて、台所の物の置き場所が、また元に戻った。
俺の卵焼きは、それきり出番がなくなった。
美和が帰ってきた日、正太は玄関で妹の顔を見て、しばらく黙っていた。
それから、自分の弁当袋を持ってきて、赤ん坊の隣に置いた。
「これ、かして」
何に使うのかと訊いたら、
「あかちゃんのぶん」
と言った。
弁当の本は、棚の一番下で埃をかぶった。
あの手紙は、仏壇の引き出しにしまった。
※
それから十四年が経った。
正太は、この春に農業高校を出て、うちの牛舎に入った。
継げと言ったことは、一度もない。
高校三年の秋、進路の紙に「就農」と書いてあるのを見たときは、正直、手が止まった。
「他の道もあるぞ」
と言ったら、
「しってる」
と返ってきた。
それだけだった。
今は正太のほうが先に起きて、俺より先に牛舎の灯りをつける。
先月、その正太が、妙なことを言い出した。
「かあさんの荷物のなかに、おれの手紙、もういちまいあるって」
何のことか分からなかった。
美和に訊いたら、簞笥の奥から古い封筒を出してきた。
中に、あの日と同じ鉛筆の字で書かれた紙がもう一枚入っていた。
かあちゃん はやくかえってきて
「先生が、病院に送ってくれたの」
「あの子、あの日、二枚書いてたのよ」
俺は十四年間、一枚しか知らなかった。
封筒の表には、病院の住所が保育園の先生の字で書いてあった。
切手が、当時のままの値段で貼ってある。
美和は、その封筒を十四年、簞笥の一番下に入れていた。
「なんで見せなかった」
「見せたら、あんた泣くでしょ」
「牛舎で泣かれると困るのよ」
※
その晩、美和が湯呑みを両手で包んだまま言った。
「あの手紙ね、正太が一人で書いたんじゃないの」
どういう意味だと訊いた。
「電話。毎晩あんたと話した後、正太に代わってもらってたでしょ」
覚えていた。
毎晩、最後に正太が受話器を持たされていた。
「あのとき、一日にひと文字ずつ、書き方を教えてたの」
「入院してから、遠足の日まで、ちょうど三週間あったから」
美和は、病室から、電話越しに息子に字を教えていたのだ。
面会に来られない代わりに。
切迫早産の病棟は、小さい子どもは入れない。
正太は、駐車場から母親の病室の窓を見上げるだけだった。
四階の、右から三つ目。
カーテンが揺れると、正太は手を振った。
揺れているのが風なのか美和なのか、俺には分からなかった。
「なんで、そんな」
「あの子、あんたに何か言いたいのに、言い方が分からないみたいだったから」
美和は、自分の父親と長く口をきかない時期があった人だ。
若い頃に一度だけ、その話を聞いたことがある。
言いたいことがあったのに、言葉が出てこなくて、そのまま何年も過ぎたのだと言っていた。
そのことを、俺はすっかり忘れていた。
忘れていたが、美和は忘れていなかったのだろう。
「だったら、書けばいいって」
そこまで言って、美和は少し笑った。
「最初に教えたの、『ありがとう』じゃないの」
「じゃあ、何だ」
「『とうちゃん』」
息子が最初に覚えた字は、俺の呼び名だった。
※
受話器の向こうの沈黙のことを、俺はずっと勘違いしていた。
疲れていたのでも、電波が悪かったのでもない。
一文字を書き終える時間を、待っていたのだ。
四歳の指が、鉛筆を握り直して、線を一本引き終えるまでの時間。
美和はそれを、毎晩、黙って数えていた。
四十日ぶんの沈黙が、あの一枚の紙になった。
思い返せば、電話の最後はいつも同じだった。
「じゃあね」
と美和が言って、それから少し置いて、切れる。
あの少しの間に、四歳が一本の線を引き終えていた。
牛舎の外は、もう雪が降り始めていた頃だ。
俺は十円玉を握ったまま、その音のしない時間を、四十回聞いていたことになる。
※
今朝、牛舎で正太に訊いてみた。
あの手紙のこと、覚えてるかと。
正太は搾乳機を外しながら、少し考えて言った。
「あんまり。でも、たまごやきのことは、おぼえてる」
「なんで」
「くずれてたから」
それだけ言って、次の牛のところへ行った。
崩れていたから覚えている、と息子は言った。
うまく巻けた卵焼きなら、忘れていたのだろう。
下手なものほど、人の記憶に残る。
そういうふうに、この世はできているらしい。
※
明日は、下の子の高校の遠足だ。
弁当を作ってくれと言われた。
美和が作ればいいだろうと言ったら、娘は首を振った。
「とうちゃんの、崩れてるやつがいい」
娘は、あの日のことを何も知らない。
生まれる前の話だからだ。
それでも、崩れているやつがいい、と言った。
兄がそう言うのを、どこかで聞いていたのだろう。
話というのは、そうやって家の中を渡っていくものらしい。
仏壇の引き出しから、あの紙をもう一度出してきた。
十四年ぶんの折り目が、四本ついている。
髪の三本しかない男が、まだ四角い箱を持っていた。
台所に、卵と牛乳を出してある。
今度は、入れすぎないようにするつもりだ。
たぶん、また入れすぎる。