母の仏壇に、見覚えのない湯呑みがひとつ増えていた。
四十九日が済んで、家の片付けに帰ったときのことだ。
古い湯呑みだった。
縁が欠けていて、内側に茶渋の輪が三本ついている。
うちの食器棚には、こんなものはなかった。
「これ、誰の」
父に聞くと、父は仏壇のほうを見たまま言った。
「知らん」
知らんはずがない、と思った。
この家の物の在り処を、父は全部知っている。
知っていて、知らんと言う人だった。
※
私は中学の頃、ちょうど反抗期の真ん中にいた。
母が何を言っても、腹が立った。
ご飯だよ、と呼ばれれば、うるさいと返した。
制服のスカートを折れば、みっともないと言われた。
みっともないのはお母さんのほうだ、と言い返した。
今思えば、意味のない喧嘩ばかりだ。
だが、あのときは本気だった。
本気で、母を困らせたかった。
困った顔を見ると、なぜか安心した。
この人は、私のことを見ている。
そう確かめたかったのだと思う。
子供というのは、ずるい生き物だ。
※
中学一年の授業参観に、母は割烹着のまま来た。
本当は、来る予定ではなかった。
うちは自営で、その年は父が体を壊していた。
母はパン工場のパートに出ていた。
その日は休めないと言っていた。
それが、三時間目の途中で、教室の後ろの扉が開いた。
母が立っていた。
髪に、白い粉がついていた。
工場の粉だ。
クラスの誰かが、くすっと笑った。
私は、下を向いた。
顔が熱くて、黒板が見えなかった。
休み時間に、私は母のところへ行って言った。
「なんで来たの」
「見たかったから」
「恥ずかしいから、帰って」
母は、少しだけ黙った。
それから、笑って言った。
「そうだね。ごめんね」
そして、帰った。
廊下を歩いていく後ろ姿の、割烹着の紐が、片方ほどけていた。
私は、それを直してあげなかった。
※
母の弁当は、正直、うまくなかった。
おかずはいつも同じだ。
卵焼きと、ウインナーと、きんぴら。
それだけ。
友達の弁当は、もっと色がついていた。
私は、母に言ったことがある。
「もっと、普通のにして」
「普通って」
「みんなみたいなの」
母は、返事をしなかった。
次の日から、弁当のおかずが増えた。
彩りも良くなった。
それを見て、私は満足した。
満足して、二ヶ月ほど経ってから気づいた。
母の弁当箱の中身が、白いご飯と梅干しだけになっていたのだ。
朝、台所で見てしまった。
「お母さん、それだけ」
「これでいいの」
「なんで」
「お母さん、少食だから」
母は、少食ではなかった。
私が知っている中で、一番よく食べる人だった。
※
ある日曜の朝、些細なことで火がついた。
何が発端だったかは、もう覚えていない。
洗濯物のことだった気もするし、部活の道具のことだった気もする。
台所で、母が振り返って言った。
「そんな子に育てた覚えはない」
包丁を置いた音が、やけに大きかった。
売り言葉に買い言葉だった。
私は、玄関の靴を履きながら言った。
「産んでくれなんて、頼んだ覚えはないよ」
言ってから、しまったと思った。
思ったが、引っ込められなかった。
母は、何か言い返してくると思った。
お前なんか産まなきゃよかった。
そのくらいのことは、返ってくると思っていた。
だが、母は黙った。
※
何も言わなかった。
本当に、ひとことも。
私は玄関で靴を履いたまま、母の返事を待っていた。
待っている自分に気づいて、余計に腹が立った。
振り返ると、母は流し台の前に立っていた。
背中を向けたまま、動かなかった。
水道の水が出しっぱなしになっていた。
母は、それを止めなかった。
私は、扉を思い切り閉めて出て行った。
その日は、公園で日が暮れるまで座っていた。
腹が減って、結局帰った。
帰ると、食卓に私の分の夕飯が並んでいた。
ハンバーグだった。
私の好物だ。
母は、居間にいなかった。
父が、テレビの前でひとりで箸を動かしていた。
「お母さんは」
「風呂だ」
私は黙って食べた。
おいしかった。
それが、悔しかった。
※
その日から、母は少し変わった。
いや、変わっていない。
変わったのは、私に対する言葉の量だ。
「そんな子に育てた覚えはない」
その手のことを、母は二度と言わなくなった。
何をしても、言わなくなった。
私が門限を破っても、テストで落ちても、髪を染めても。
ただ、黙って夕飯を作った。
私は、それを勝ったと思っていた。
勝った、と本気で思っていたのだ。
※
高校のとき、一度だけ、母が言いかけたことがある。
夏だった。
私が進路の紙を書いていると、母が後ろに立っていた。
「あんた」
「なに」
「お母さんね」
そこで、止まった。
振り返ると、母は台所へ行ってしまった。
水の音がした。
何を言おうとしたのか、私は聞かなかった。
聞けば、面倒なことになる気がしたからだ。
今なら、わかる。
あのとき、母は言おうとしていた。
言おうとして、やめたのだ。
やめた理由も、今ならわかる。
私が、進路の紙を書いていたからだ。
その紙には、書類がいる。
戸籍がいる。
母は、その前に自分の口から言おうとして、できなかった。
※
月日が経った。
大学に入るとき、戸籍抄本を出せと言われた。
役所へ取りに行ったのは、二月の寒い日だった。
窓口で紙を受け取って、待合の椅子に座って、何気なく開いた。
そこに、見たことのない二文字があった。
養女。
最初、字を読み違えたと思った。
何度も読み返した。
父の名前があって、母の名前があって、私の名前があって。
その横に、養女と書いてあった。
役所の暖房が効きすぎていて、耳が熱かった。
私は紙を畳んで、鞄に入れた。
入れてから、また出して、また読んだ。
※
家に帰る道で、私はずっと計算していた。
何年前だ。
何歳のときだ。
いつから、この人たちは私の親なのだ。
そして、あの朝のことを思い出した。
産んでくれなんて、頼んだ覚えはない。
私は、あの人に、それを言ったのだ。
言われた側が、どんな顔をしたのか。
私は見ていない。
背中しか、見ていない。
水道の水を、止めなかった背中しか。
道の途中で立ち止まった。
息が白かった。
胸のあたりが、内側から押されるように痛かった。
※
家に帰って、母の顔が見られなかった。
「ただいま」
「おかえり。寒かったでしょ」
母はいつも通りだった。
炬燵に足を入れて、みかんを剥いていた。
私はその向かいに座って、何も言えなかった。
剥いたみかんが、目の前に置かれた。
白い筋が、丁寧に全部取ってあった。
私は、子供の頃から筋が嫌いだった。
それを、母は覚えている。
覚えていて、四十年近く、毎回取っている。
「食べないの」
「食べる」
声が震えた。
母は、それに気づいたはずだ。
だが、何も聞かなかった。
また、みかんを剥き始めた。
※
私は結局、その話を母にしなかった。
言えなかった、というのが正しい。
言えば、母が何かを謝る気がした。
黙っていて悪かった、とか、そういうことを。
それだけは、絶対に嫌だった。
謝るべきは、私のほうだ。
だから、言わないことにした。
言わないまま、私は大学を出て、就職して、結婚した。
子供が生まれた。
女の子だった。
母は、病院に一番に来た。
ガラス越しに新生児室を覗いて、しばらく動かなかった。
「似てるねえ」
母はそう言った。
「あんたの、赤ん坊の頃に」
私は、母の顔を見た。
母は、真顔だった。
冗談でも、慰めでもなかった。
本気で、そう思っている顔だった。
※
結婚式で、母は泣かなかった。
一滴も。
親族の誰かが「お母さん、強いねえ」と言った。
母は笑って「もう歳だから、涙が出ないのよ」と言った。
式が終わって、控室に戻ったとき、母がいなかった。
探したら、化粧室の前の廊下にいた。
壁に手をついて、下を向いていた。
「お母さん」
振り返った母の目は、真っ赤だった。
「なんでもない」
「泣いてるじゃん」
「泣いてない」
母は、そう言い張った。
「化粧が崩れるから、あっち行って」
私は、あっちに行った。
今なら、行かない。
今なら、腕を掴んで、あの日の朝のことを謝る。
だが、あのときの私は、素直に行ってしまった。
※
その子が三歳のとき、私は同じことを言われた。
公園の砂場だった。
帰ろうと言っても帰らない娘に、私はつい強く言った。
そうしたら、娘が泣きながら叫んだ。
「ママなんか、きらい」
子供の言うことだ。
本気じゃない。
そんなことはわかっている。
わかっていて、息が止まった。
砂場の砂が、やけに白かった。
私は、あの日の台所に立っていた。
流し台の前で、水を止められなかった人の背中の内側に、初めて入った。
これか、と思った。
これを、あの人に。
私は、これよりずっとひどいことを。
帰りの道で、娘を抱いたまま泣いた。
娘は、驚いて泣きやんだ。
※
その夜、私は母に電話をした。
用もないのに、電話をした。
「どうしたの、こんな時間に」
「別に」
「なによ」
母は、少し笑っていた。
何か言おうとして、やはり言えなかった。
四十年、私はいつもそうだ。
言えないまま、話題を変える。
「お母さん、あのさ」
「うん」
「今度、みかん買ってきて」
「みかん」
「うん。剥いてほしい」
母は、電話の向こうで黙った。
それから、言った。
「いいよ」
たったそれだけの電話だった。
今思えば、あれが私の精一杯の謝罪だった。
母には、たぶん、伝わっていた。
伝わっていたから、何も聞かなかったのだ。
※
母が入院したのは、それから十二年後だ。
最後の一週間、私は病室に泊まり込んだ。
母は、痩せて小さくなっていた。
点滴の管が、腕に何本も入っていた。
夜中に、母が目を覚ました。
天井を見たまま、母は言った。
「ねえ」
「なに」
「あんた、あのとき」
心臓が跳ねた。
どのとき、とは聞けなかった。
聞かなくても、わかった。
四十年、一度も口に出さなかったことだ。
母は、ずっと覚えていた。
私が覚えているのと同じ長さだけ、覚えていた。
「あのとき、お母さんね」
母の声は、掠れていた。
「言い返さなくて、よかったと思ってる」
「なんで」
「言い返してたら」
母は、少し笑った。
「あんたが、本気にしちゃうから」
※
「お母さん」
「ん」
「ごめんね」
言えたのは、それだけだった。
四十年、ずっと言いたかったことが、三文字しか出なかった。
母は、天井を見たまま、少しだけ首を動かした。
「なにが」
「あの朝の」
母は、目を閉じた。
そして、言った。
「そんな子に育てた覚えはないって、お母さんが先に言ったのよ」
「え」
「あれが、悪かったの」
私は、言葉が出なかった。
母は、四十年、そっちを悔やんでいた。
私が投げた言葉ではなく、自分が投げた言葉を。
「あんたに、育てたって言っちゃった」
母の声が、また掠れた。
「育てたなんて、言う資格ないのに」
違う。
そうじゃない。
そう言いたかったのに、喉が塞がって、声にならなかった。
私は、母の手を握り直した。
私は、母の手を握った。
骨と皮だった。
それでも、温かかった。
「知ってたんでしょ」
初めて、私はそれを口にした。
「私が、戸籍を見たこと」
母は、黙っていた。
それから、天井を見たまま言った。
「大学のとき、帰ってきて、みかん食べたでしょ」
覚えている。
「あんた、あのとき、手が震えてた」
だから、みかんを剥き続けたのだと母は言った。
何か言えば、私が何か言わなければいけなくなる。
それが、かわいそうだった、と。
「言わせたくなかったの」
※
母の湯呑みは、その病室にはなかった。
家にあると思っていた。
だが、仏壇の前にあったあの欠けた湯呑みが、母のものだったのだ。
父が、後で教えてくれた。
母は、あの湯呑みを二十年以上使っていたのだという。
私が知らないはずがなかった。
だが、知らなかった。
母は、家族が集まるときには必ず新しいほうの湯呑みを出した。
自分の欠けたものは、台所の奥に隠していた。
「なんで」
父に聞くと、父は初めてこちらを向いた。
「欠けてるもんを、客に出せんだろう」
「私、客じゃないよ」
父は、それには答えなかった。
※
父は、母が亡くなってから、よく喋るようになった。
四十年分の言葉が、順番待ちをしていたみたいだった。
ある夜、二人で仏壇の前に座っているとき、父が言った。
「あれはな」
「なに」
「お前が三つのときだ」
父は、私を引き取った日の話をした。
役所の人と、施設の人と、母と父と。
狭い部屋で、書類に判子を押した。
その帰り道、母が父に言ったのだという。
「この子には、絶対に言わない」
「なんで」
「言ったら、この子が、遠慮する」
父は、そこで一度言葉を切った。
「お前の母さんは、遠慮されるのが、一番嫌いだった」
私は、湯呑みを見た。
欠けたほうの、湯呑みを。
※
片付けの最後に、母の鏡台の引き出しを開けた。
奥に、封筒がひとつあった。
中に、私が中学の頃に書いた作文が入っていた。
「わたしの母」という題だ。
授業で書かされたやつだ。
中身は、覚えていない。
広げて読んだ。
ひどい作文だった。
うちの母はうるさい、口が悪い、料理が下手だ。
そんなことばかり書いてある。
最後の一行だけ、こう書いてあった。
「でも、いなくなったら困ると思う」
母は、これを二十年以上、鏡台の奥に入れていた。
封筒は、何度も開け閉めされて、糊のところが柔らかくなっていた。
作文の裏に、赤いペンで先生の字があった。
「よく書けています」
その下に、鉛筆で、母の字があった。
先生に見せる欄ではない。
ただの余白だ。
そこに、こう書いてあった。
「わたしも、いなくなったら困ります」
日付はない。
いつ書いたのかも、わからない。
書いて、封筒に戻して、鏡台の奥に隠した。
誰にも見せるつもりのない字だった。
私は、その紙を持ったまま、しばらく動けなかった。
畳の目が、涙で歪んだ。
※
養女だと知ったとき、私はショックを受けなかった。
それが、自分でも不思議だった。
今なら、わかる。
血の話ではないからだ。
あの朝、私は世界で一番ひどい言葉を、母に投げた。
母はそれを、受け取って、飲み込んで、黙って夕飯を作った。
四十年、一度も投げ返さなかった。
それが、答えだ。
それ以上の答えを、私は知らない。
※
今、私の家の食器棚には、縁の欠けた湯呑みがある。
母のものだ。
私はそれを、毎朝使っている。
娘が、この前それを見て言った。
「お母さん、それ欠けてるよ。捨てれば」
「いいの」
「なんで」
私は、答えなかった。
父と同じだ。
説明できないことは、説明しないほうがいい。
湯呑みは、毎朝使うたびに、指が欠けたところに引っかかる。
その引っかかりが、なぜか心地いい。
欠けているから、そこにあるとわかる。
完璧なものは、手のひらを素通りしていく。
そのうち、わかる。
わからなくても、いい。
※
※
娘が、うちに来た。
みかんを剥いて出したら、娘が笑った。
「筋、全部取ってある」
「嫌いでしょ」
「別に、そこまでは」
娘はそう言って、それでも全部食べた。
食べながら、欠けた湯呑みを見ていた。
「ねえ、それ、おばあちゃんの」
「うん」
「じゃあ、捨てちゃだめだね」
私は、手が止まった。
なんで、と聞きそうになって、やめた。
聞かなくていい。
この子には、もう伝わっている。
私が四十年かかったことが、この子には十六年で伝わっている。
それでいい。
それが、たぶん、順番というものだ。
娘が来週、うちに来る。
みかんを買っておいた。
剥いておこうと思う。
白い筋を、全部取って。
あの人がしてくれたように、丁寧に、一本ずつ。
それが、私が受け取ったものの、たぶん全部だ。