進学を願ってくれた母

母の割烹着は、いつも油と出汁の匂いがしました。

三十年ちかく経った今でも、ふとその匂いを思い出すと、私はまだあの狭い台所の隅に立っている気がします。電気の止まった夜の、蝋燭のかすかな匂いと一緒に。

私が育ったのは、坂の途中にある小さな商店街でした。母はその一角で、六畳ほどの惣菜屋を営んでいました。

コロッケと、きんぴらと、大根の煮物。朝から店先にだしの匂いが流れて、通りを歩く人が「今日は何にする」と覗いていく、そんな店です。ガラスケースの中で、揚げたてのコロッケがまだ湯気を立てていました。

学校が終わると、私はよく店の手伝いをしました。母が揚げるコロッケの、じゅうっという音と、立ちのぼる湯気。その匂いの中にいると、家の暗い事情を忘れられました。常連のおばあさんが「お嬢ちゃん、しっかりしてるねえ」と、時々こっそり飴玉をくれました。母はその横で、少し照れたような、けれど誇らしそうな顔をしていました。

父のことは、ほとんど覚えていません。私が四つのとき、家を出たきり、二度と戻りませんでした。母は女手ひとつで、私と、二人の弟を育てました。

母子家庭という言葉の重さを、当時の私はまだ知りませんでした。ただ、うちの家計がいつも綱渡りだということだけは、子どもながらに肌で感じていました。

母は決して、お金がないと口にしませんでした。愚痴も、弱音も、聞いた覚えがありません。けれど月末が近づくと、店の奥で電卓を叩く母の背中が、少しだけ丸くなるのを、私は知っていました。

店を閉めたあと、母はよく、売れ残った惣菜を私たち三人に「味見して」と食べさせました。今にして思えば、それが我が家の夕飯だったのです。母は、それを「味見」と呼ぶことで、私たちに惨めさを感じさせないようにしていたのだと思います。

電気が止まった夜のことを、今でも覚えています。夕方、スイッチを入れても台所の電球がつかなくて、私は最初、電球が切れたのだと思いました。

母は一瞬だけ慌てた顔をして、それからすぐにいつもの笑顔に戻り、「よし、今日はキャンプの日にしよう」と言いました。

押し入れから仏壇用の蝋燭を出してきて、卓袱台の真ん中に立てて、マッチで火を点けて。

「ほら、ごちそうだよ」

揺れる炎に照らされた食卓には、店で売れ残ったコロッケが一人一つと、白いご飯が並びました。弟たちは蝋燭の火を面白がって、壁に手をかざしては影の形を当てっこして、はしゃいでいました。

私だけが、母の茶碗にご飯がほとんど盛られていないことに気づいていました。

「母さん、食べないの」

「母さんはお店でつまみ食いしたから、もうお腹いっぱいなの」

母はそう言って、湯呑みのお茶をすすりました。その湯気の向こうで、母の目が笑っていないことに、当時の私は気づけませんでした。

だいぶあとになって知ったことですが、母さんの分の白いご飯は、いつも私たちの茶碗の底にありました。自分は漬物とお茶だけで済ませて、炊いたご飯を子ども三人の茶碗に、そっと分けていたのです。

あの夜の蝋燭の炎を、私は今でも、世界でいちばん温かい灯りだったと思っています。

ガスが止まった冬もありました。銭湯代さえ工面できない日、母は台所の大きな寸胴鍋でお湯を沸かして、それを風呂場まで何度も運びました。

湯気の立つ廊下を、割烹着のまま行ったり来たりする母の背中を、私はいまでもはっきりと思い出せます。

「熱くない。ごめんね、ぬるかったらすぐ足すからね」

弟たちを先に入れて、そのあとに私を入れて、母が身体を洗うのはいつも一番最後でした。冷めきったお湯に、母がどんな顔で浸かっていたのか、私はとうとう見たことがありません。

下の弟の運動靴の底に穴が空いたときも、母はすぐには買い替えてやれませんでした。雨の日、濡れた靴下を恥ずかしがる弟に、母は前の晩、こっそり厚紙を切って中敷きを作っていました。

「これでしばらく我慢してね。今度のお給料が入ったら、ちゃんと買おうね」

弟は「うん」とうなずいて、その中敷きの入った靴を、宝物みたいに大事に履いていました。

中学二年の秋には、校納金を払えなかった月がありました。担任の先生から、みんなの前でではなく、放課後にそっと督促の封筒を手渡されました。

家に帰って母に渡すと、母は封筒を開けて中の紙を読み、少しだけ黙って、それから、「あら、忘れてた。ごめんね」と言いました。

その「忘れてた」が、本当は忘れたのではないことを、私は知っていました。忙しさでも、うっかりでもなく、ただ、その月はお金がなかっただけなのだと。

母はいつも、自分が悪いという顔をして謝りました。それが辛くて、心苦しくて、何もできない自分が情けなくて、私はその晩、布団をかぶって声を殺して泣きました。

商店街の魚屋のおじさんが、閉店間際に売れ残った切り身を「持ってけ」と分けてくれたり、隣の八百屋のおばさんが「傷モンだけど」と野菜を届けてくれたり。今思えば、あの坂の途中の街の人たちは、みんなでさりげなく、私たち家族を支えてくれていました。

お正月には、母は必ずお雑煮を作りました。具は餅と、細切りの人参と、青菜だけの質素なものでしたが、お椀の底にはいつも、私たち三人の分だけ、鶏肉が沈んでいました。母のお椀には、餅と菜っ葉しか入っていませんでした。「母さんはお肉、苦手だから」と言って、母はいつも笑っていました。子どもの頃の私は、その言葉を、疑いもせずに信じていました。

けれど、正月に親戚が集まる席では、母はいつも一番の御馳走を、私たちの前に並べました。「うちは母子家庭だから」と、誰かに憐れまれるのが、母は何より嫌だったのだと思います。見栄っ張りで、けれど、その見栄はいつも、自分ではなく私たちのためのものでした。

私が中学三年になり、高校受験が近づいた秋のことです。進路希望の紙を前に、私は何日も迷いました。そして、思い切って、夕飯のあとの母に言いました。

流しで皿を洗っている、割烹着の背中に向かって。

「母さん。私、高校に行かなくてもいいよ」

母の手が、止まりました。

「弟たちもまだ小さいし、うち、大変でしょう。私、中学を出たら働くよ。工場でも、お店でも、どこでも行くから」

言いながら、声が震えました。本当は、高校に行きたかったからです。友達と同じ制服を着て、同じ教室で笑いたかったからです。

母は蛇口を閉めて、ゆっくりと振り返りました。濡れた手を割烹着で拭きながら、私の顔をじっと見て、それから、静かな声で言いました。

「あんたが諦める方が、私は何倍も辛いよ」

涙が、ぼろぼろとこぼれました。私が進学すれば、母はもっと働かなければならないのに。もっと痩せて、もっと眠らなくなるのに。それでも母は、私に諦めさせない方を選びました。

「お金のことは、母さんの仕事。あんたの仕事は、しっかり勉強すること。それだけでいいの。いい」

「……でも」

「でもじゃないの。母さんはね、あんたたちが自分のやりたいことを諦める顔を見るのが、この世でいちばん怖いの。お金がないことより、ずっとね」

「……うん」

「約束だよ」

その夜、私は布団の中で、絶対にこの高校を卒業しようと、固く決めました。母に、これ以上、あの申し訳なさそうな顔をさせたくなかったのです。

私は無事に志望していた高校へ進み、三年間、一日も休まずに通いました。

アルバイトが許される学校だったので、放課後はスーパーのレジに立ち、参考書代くらいは自分で稼ぎました。母には「勉強だけしてなさい」と言われていましたが、少しでも家計の足しにしたかったのです。

レジ打ちのバイト代から、私は毎月わずかばかりを、こっそり母の財布に戻していました。母はきっと気づいていたはずですが、何も言いませんでした。ただある日、私のお弁当のおかずが、少しだけ豪華になっていました。

高校二年の三者面談で、担任の先生が母にこう言ったことがあります。「お子さん、本当によく頑張っています。家のことも手伝いながら、この成績は立派です」。母は深く頭を下げて、「先生のおかげです」と何度も言いました。帰り道、母は珍しく、私の手をぎゅっと握りました。「よく頑張ったね」。その手が、水仕事で荒れてざらざらしていたことを、私は今でも覚えています。

そして私は奨学金を借りて、短大にも進みました。保育士になりたい、という夢ができたからです。あの蝋燭の夜に母がくれた温かさを、今度は自分が、誰か小さな人に手渡したいと思ったのです。

短大に入って一年目の、冬の晩のことです。翌日に必要な参考書を買い忘れたことに気づいた私は、実家の母に電話をかけました。けれど、何度呼び出しても、母は出ませんでした。

胸騒ぎがして、私は夜道を走って実家に戻りました。家の電気は消えていて、台所に母の姿はありませんでした。下の弟に聞くと、「母さん、夜も、少しだけ働きに行ってる」と、口ごもりながら教えてくれました。

母は、昼間の惣菜屋を閉めたあと、駅前のビルの清掃の仕事を掛け持ちしていたのです。私の学費と、弟たちの暮らしのために。

私は、母が帰ってくるのを、玄関の前で待ちました。夜中の一時を過ぎた頃、坂の下から、疲れた足音がゆっくりと近づいてきました。

母は私に気づくと、一瞬だけ驚いた顔をして、それから、いつものように笑いました。

「あら、どうしたの、こんな時間に」

「母さん。なんで、言ってくれなかったの」

「言うほどのことじゃないよ。ちょっとした運動だと思えば、健康にもいいしね」

母の手には、洗剤の匂いが染みついていました。あの割烹着の、油と出汁の匂いの上に、今度は薬品のつんとする匂いが、重なっていました。

私はその場で、立ったまま泣きました。母は「もう、こんなに大きくなったのに、泣き虫だねえ」と言って、水仕事で荒れた手で、私の頭をぽんぽんと叩きました。

「あんたが立派な保育士さんになる。母さんはそれだけを楽しみに、床を磨いてるんだから。だから、泣かないの」

あの夜、坂の下から近づいてきた母の足音を、私は一生忘れないと思います。

思えば母は、私たちの前で一度も、疲れたと言いませんでした。眠そうな顔さえ、見せませんでした。今になって、あの笑顔がどれほどの無理の上に成り立っていたのかを思うと、胸が締めつけられます。

卒業式の朝、母は店を臨時休業にして、慣れないスーツを着て来てくれました。

「こんなの、似合わないでしょう」と、母は割烹着でないことが落ち着かない様子で、何度も襟元を直していました。式のあいだ、母は少し離れた保護者席で、ずっとハンカチを握りしめていました。

私が保育士として働き始めて、二年ほど経ったある日のことです。長年の無理がたたって腰を痛めた母が、とうとう惣菜屋をたたむことになりました。

店の荷物を二人で片づけていたとき、レジの奥の古い抽斗から、一冊の大学ノートが出てきました。

開くと、それは家計簿でした。私がちょうど中学生だった頃の、日付が並んでいました。几帳面な母の字で、一円単位の収支が、余白もないほどびっしりと書き込まれていました。

米、味噌、弟の運動靴、私の受験料。数字の一つひとつが、あの頃の暮らしそのものでした。ページのあちこちに、赤い鉛筆で「がまん」「来月にまわす」と小さく書き添えられていました。

ページをめくる私の指が、震えていました。数字の一つひとつが、母の眠らなかった夜の記録でした。誰にも見せず、誰にも言わず、母はたった一人で、この帳面と向き合い続けていたのです。

そのページの隙間に、色の褪せた小さな紙きれが挟まっていました。質屋の預り証でした。日付は、ちょうど私が高校に入る、少し前。

預けた品物の欄には、ただ一言、「指輪」と書いてありました。

母の左手の薬指には、私が物心ついた頃から、もう指輪はありませんでした。私はてっきり、出て行った父が持って行ったのだとばかり思っていました。

そうではなかったのです。母は、たった一つ手元に残していた自分の結婚指輪を手放して、私の入学の費用に充てていたのでした。

ノートのいちばん最後のページには、走り書きのように、こう記されていました。

「この子たちが笑ってくれるなら、私は何もいらない」

私はその一行を、何度も何度も読み返しました。文字がにじんで、読めなくなるまで。

家計簿のあるページには、「娘 受験料 支払済」という文字の横に、小さな花丸が描かれていました。まるで、大きな試験に合格したときのような、嬉しそうな花丸でした。母にとって、私の受験料を工面できたことは、それほどまでに誇らしいことだったのです。

私はそのノートを胸に抱えたまま、しばらく立ち上がれませんでした。

あの蝋燭の夜も、湯気の立つ寒い廊下も、弟の靴の中敷きも、「忘れてた、ごめんね」の一言も。すべては、母が自分を後回しにして、私たちの茶碗の底にご飯をよそい続けた日々だったのだと、ようやく胸に落ちました。

母は一度も、恩に着せませんでした。だから私は、こんなにも長いあいだ、気づかずにいられたのです。

いま、私は保育園で、毎日たくさんの子どもたちの給食をよそっています。どの子の茶碗にも、私はご飯をきちんと山盛りにします。ひと粒だって、底に隠したりしません。

そして、自分のことをいつも後回しにしてしまう保護者の方に出会うと、私は決まって母のことを思い出します。割烹着の、あの丸い背中を。

保育園で働いていると、迎えに来るのがいつも遅い、疲れきった顔のお母さんに出会うことがあります。私はそのたびに、「無理なさらないでくださいね」と声をかけます。かつて誰も、私の母にそう言ってあげられなかったから。せめて私は、目の前のお母さんたちに、そう伝えたいのです。

母は今も元気で、私のアパートに来ては、ときどき私の作った惣菜を「あんたのは味が濃いねえ」と笑いながら食べています。あの頃、自分は漬物とお茶で済ませていた人が、今はやっと、私のよそったご飯を、お腹いっぱい食べてくれます。

進学を願ってくれたあの日の母に、私はまだ、半分も恩を返せていません。それでも、いつか胸を張って報告できるように、私は今日も、小さな手のひらに、温かいご飯を山盛りによそいます。あの蝋燭の夜に、母が私にしてくれたように。

先日、母を私のアパートに泊めた夜、私はそっと聞いてみました。「母さん、あのとき指輪、手放して、寂しくなかった」。母はしばらく黙って、それから、こともなげに言いました。「指輪より、あんたの笑った顔のほうが、ずっと綺麗だもの」。私はまた、台所で泣いてしまいました。あの蝋燭の夜から、何十年も経った台所で。

母さん。あのとき、私に諦めさせないでくれて、ありがとう。

そして、あの惣菜屋のガラスケースの湯気の向こうで笑っていた母の顔を、私は世界でいちばん美しいものだと、今でも思っています。

あなたの割烹着の、油と出汁のあの匂いを、私は一生、忘れません。

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