テントの天辺で、赤い旗が九月の風に鳴っていました。
昭和五十年代の終わり、私が十四歳の秋の話です。
私の生まれた町は、川沿いに紡績工場の煙突が並ぶ、どこにでもある地方の町でした。
その河川敷に、ある日突然、巡業サーカスの大テントが建ったのです。
電柱という電柱に黄色いポスターが貼られ、町じゅうの子どもが、その話ばかりしていました。
空中ブランコ、火の輪くぐり、本物の象。
ポスターの隅に描かれた象の絵を、私は学校帰りに何度も立ち止まって眺めました。
けれど我が家では、誰もサーカスの話をしませんでした。
父は左官職人でした。
鏝ひとつで壁を塗って、母と私と妹を食べさせている人でした。
小学生の頃、一度だけ現場へ弁当を届けに行ったことがあります。
父は足場の上で、何メートルもある壁を、端から端まで一息に塗っていました。
塗り終えた面を、確かめるように手のひらでそっと撫でる。あの仕草を、私は今でも覚えています。
夜になると、土間から砥石の音がしました。鏝を研ぐ音です。
あの音がする家は、うちのほかにはもうほとんど残っていませんでした。
一度、父の塗った蔵の壁を、隣町まで見に行ったことがあります。
白い壁は西日を受けて、淡い飴色に染まっていました。
「ええ壁はな、百年もつ」
帰り道、父はそれだけ言いました。自分の仕事を誇ったのは、後にも先にもあのときだけです。
その年は夏の長雨で現場がいくつも飛んで、家計に余裕がないことは、子どもの私にもわかっていたからです。
雨の日の父は、玄関で空ばかり見ていました。
母は夜なべのミシンを踏む時間が長くなり、針の音は私が眠るまで止みませんでした。
学校では、前売り券を買ってもらった同級生が、毎日のように自慢話をしていました。
象に芸をさせる調教師の話。オートバイが球の中を走る話。
私は聞こえないふりをするのが、少しずつ上手になっていきました。
だから夕飯の席で、父が新聞の折込みを箸で軽く叩いて「行くか」と言ったとき、私は耳を疑いました。
「……いいの?」
「初日は安いらしい」
あとから知ったことですが、それは嘘でした。
父はあの夏、雨で空いた日に、組合の小さな補修仕事をいくつも拾い集めていたのです。
サーカスの切符二枚は、その手間賃でした。
父はそれだけ言って、味噌汁をすすりました。
母が黙って笑い、妹の分も連れて行ってやってと言いかけて、妹はまだ三つだから留守番ね、と言い直しました。
※
当日の夕方、河川敷は祭りのようでした。
発電機の唸りに混じって、楽隊の練習の音が漏れてきます。
獣と藁の匂い。綿菓子の甘い匂い。土と草の匂い。
切符売場の窓口には、長い列ができていました。
列に沿って裸電球が並び、屋台のカーバイドの灯りが川面に揺れていました。
どこかで風船の割れる音がして、そのたびに歓声と笑い声が上がります。
父と私は、その最後尾に並びました。
父は仕事着ではない灰色のシャツを着ていて、それでも爪の間には、落としきれない漆喰の白い粉が残っていました。
列は少しずつ進み、私たちの前は、ようやくあと一家族だけになりました。
私はその家族から、目が離せなくなりました。
両親と、子どもが七人。
いちばん上の子でも、十二歳くらいにしか見えません。
着ているものは上等とは言えませんでしたが、どれも綺麗に洗濯され、丁寧にアイロンが当てられていました。
子どもたちは二人ずつ手をつなぎ、両親の後ろに、行儀よく二列に並んでいます。
靴はどれも、上の子から順に下りてきたお下がりのようでした。
お母さんの提げた大きな鞄は、角ばって膨らんでいました。水筒と、握り飯の包みでしょう。
中で買い食いをさせない代わりに、腹いっぱいの弁当を持たせる。そういう家のやりくりが、鞄の形から透けて見えました。
「ぞうさんって、おうちより大きいの?」
「ばか、おうちよりは小さいよ。でもトラックよりは大きい」
「ブランコの人、おっこちたらどうするの」
「下にあみが張ってあるんだって。父ちゃんが言ってた」
ピエロのこと、象のこと、これから見るすべてのこと。
ひそひそ声のつもりらしいのに、全部こちらまで聞こえてきて、私は何度も笑いそうになりました。
「あのね、ぞうはね、はなでりんごをたべるんだよ」
「ちがうよ、はなでとって、くちでたべるの」
末の子と上の弟が真剣に言い合い、お母さんが肩を揺らして笑いを堪えていました。
九人家族の毎日が、どれだけ賑やかで、どれだけ大変か。当時の私には想像もつきませんでした。
ただ、両親の少し疲れた、それでいて満ち足りた横顔が、妙にまぶしかったことだけを覚えています。
どうやら、サーカスを見るのは生まれて初めてのようでした。
「ちいちゃん、はぐれたらこの旗の下だからね」
いちばん上の女の子が、末の妹に何度も言い聞かせています。
その子だけは、はしゃぐ弟妹を数えるのに忙しくて、自分が楽しみにする暇もないようでした。
子どもたちの前には、両親が立っていました。
お母さんはお父さんの腕に手を添えて、嬉しそうに夫を見上げています。
お父さんは胸を張って、その視線を受け止めていました。
うちの父より少し若いくらいでしょうか。
よく日に焼けて、首にタオルの跡が白く残っていました。
革靴はきちんと磨かれていましたが、踵がすっかり減っているのが、後ろに立つ私からは見えました。
「ええ兄弟やな」
父がぽつりと言いました。
「七人もおるんやで」
「賑やかでええ」
父はそういう人でした。言葉の数だけなら、電報のほうがまだ多いくらいです。
※
列が進み、その家族の番が来ました。
窓口の小さな明かりの中で、売場の女の人が枚数を尋ねます。
お父さんは、誇らしげに答えました。
「大人二枚と、子ども七枚。頼みます」
九人分です。
女の人がそろばんを弾いて、合計の金額を告げました。
初日割引は前売り券だけで、当日券は通常の値段だったのです。
そのときです。
お母さんの手が、すっと夫の腕から離れました。
そのまま、黙って俯いてしまいました。
お父さんは窓口に少し顔を近づけて、聞き返しました。
「……いくらですって」
女の人は、同じ金額をもう一度、今度は少しゆっくり告げました。
お父さんの首筋が、ゆっくり赤くなっていくのがわかりました。
足りないのです。
お父さんは上着の内ポケットから小銭入れを出して、手のひらの上で、何度も数え直していました。
何度数えても、増えるはずがないのに。
いちばん上の女の子だけが、何かを察したように、弟妹たちをそっと列の後ろへ下がらせようとしていました。
後ろの子どもたちは、まだ気づいていません。
いちばん小さい子が、象の鳴き真似をして、すぐ上の姉に口を塞がれていました。
九月だというのに、お父さんのこめかみを汗が伝いました。
窓口の女の人も、急かしませんでした。
困った顔のまま、ただ待っていました。彼女にも、どうしようもないことでした。
ポケットを探るふりをしても、出てくるものがないことは、本人がいちばんよく知っているはずでした。
サーカスを見るにはお金が足りないと、期待に頬を染めた七人の子どもたちに、どうやって告げればいいのでしょう。
「やめとこか」のひと言が、どれほど重いか。
仕事が飛んだ雨の日の、うちの父の背中を思い出して、私は目を逸らしそうになりました。
誇らしげだった「大人二枚と、子ども七枚」の声が、まだ窓口の明かりの中に残っているようでした。
私は自分の胸まで苦しくなって、思わず父を見上げました。
父はもう、ズボンのポケットに手を入れていました。
※
父の手が出てきたとき、指の間には、小さく折った千円札が二枚ありました。
今のお金の感覚より、ずっと重たい二枚です。
父はそれを、誰にも見えないように足元へ落としました。
乾いた左官の手が、地面のお札を拾い上げます。
ひび割れて、漆喰の粉の染みた、あの手がです。
うちにだって、余裕なんてないはずでした。
長雨で飛んだ現場の分を、母のミシンが夜なべで埋めている。それをいちばん知っているのは父のはずでした。
父は前のお父さんの肩を、軽く叩きました。
「失礼、ポケットから落ちましたよ」
お父さんが振り返りました。
自分の財布の中身は、自分がいちばんよく知っています。
落とすはずのないお札を差し出されて、その人は一瞬で、すべてを察したのだと思います。
二人の男の人は、窓口の明かりの下で、しばらく黙って見つめ合っていました。
長い沈黙でした。
受け取れば、矜持が痛む。
突き返せば、子どもらの夜が消える。
その人の目の奥で天秤が揺れているのが、十四歳の私にも見えるようでした。
列のざわめきも、楽隊の音も、その数秒だけ遠くなった気がしました。
その人は、人から施しを受けるような人ではなかったのでしょう。
日に焼けた首筋にも、磨かれた革靴にも、そういう矜持が滲んでいました。
けれどその夜だけは、子どもたちの後ろ姿が、矜持より重かったのです。
その人は両手で、父の手をお札ごと固く握りました。
唇が震えて、頬を涙がひとすじ伝いました。
「ありがとう。ありがとうございます。これで、子どもらに見せてやれます」
後ろで子どもたちが「はやくはやく」と袖を引いています。何も知らない、いい声でした。
「ええから。早う買いなはれ、始まってまうで」
父は手を解いて、なんでもないことのように顎でテントを指しました。
父の言い方には、施す側の湿り気が、ひとかけらもありませんでした。
本当に、ただ落とし物を返しただけの声でした。
あとで思えば、あれこそがいちばんの親切だったのです。
切符は九枚、無事に買えました。
テントへ駆けていく列の最後で、いちばん小さい子が一度だけ振り返り、誰にともなく大きく手を振りました。
窓口の女の人が、何も言わずに、深く頭を下げるのが見えました。
テントの中から、開演を告げるブラスバンドの音が漏れてきました。
ひときわ大きな歓声が、夜空に抜けていきました。
※
それから父は、私の肩に手を置いて、列の外へ出ました。
財布の中に、もう切符二枚分が残っていないことは、訊かなくてもわかりました。
私たちはバスを乗り継いで家へ帰りました。
本当なら今ごろ、テントの中で象を見ていたはずでした。
ポケットの中で、固く折り畳んだ演目表が、所在なく音を立てました。
バスの窓から、河川敷のテントの灯りが、だんだん小さくなっていきました。
楽隊の音が、川風に乗って追いかけてきて、やがてそれも聞こえなくなりました。
見たかったなあ、と思いました。
でもどうしてか、口には出せませんでした。
「親父、もしばれてたら、格好悪かったな」
代わりにそう言うと、父は目を閉じたまま答えました。
「落ちとるもんは、拾って返すもんや」
「落ちてないだろ、あれは」
「落ちとった。わしには見えた」
それきり、父は本当に眠ってしまいました。
街灯の光が、眠った父の顔を、流れるように照らしては過ぎていきました。
働く人の顔でした。
私はあの夜、サーカスの代わりに、もっと大きなものを見たのだと思います。
もっとも当時の私は、悔しさのほうがまだ少しだけ勝っていましたけれど。
代わりに隣を見ると、父は腕を組んで目を閉じていました。
「腹、減ったな」
父が言ったのは、それだけでした。
家に着くと、母は何も訊かずに素麺を茹でてくれました。
卓袱台に三つ並んだガラスの器と、よく冷えた麦茶。
あの夜の素麺の味を、私は四十年経った今でも覚えています。
氷がひとつ、器の中で回っていました。
母はあとにも先にも一度だけ、「サーカス、どうだった」と訊きました。
父より先に、私が「見られなかった」と答えると、母は「あらそう」とだけ言って、薬味のネギを足してくれました。
あの「あらそう」の柔らかさの意味が、大人になってからやっとわかりました。
母はたぶん、バス代の残り方だけで、何もかも察していたのです。
夫婦というのは、そういうものなのかもしれません。
父はその晩、縁側で煙草を一本だけ吸って、いつもより早く寝ました。
サーカスは数日後、次の町へ発っていきました。
結局、父とサーカスを見る機会は、その後の人生で一度も巡ってきませんでした。
テレビでサーカスの中継が流れるたび、父はチャンネルを変えませんでした。
あぐらの膝を、調子を取るように軽く叩きながら、最後まで黙って見ていました。
その横顔に、後悔のようなものは見えませんでした。
父も母も、あの夜のことを一度も口にしませんでした。
私も、しませんでした。
あれは口に出した瞬間に、何かが目減りしてしまう種類の出来事だと、子ども心にわかっていたからです。
※
父は数年前に亡くなりました。
通夜の晩、父の古い仕事仲間だというお年寄りが、ぽつりと教えてくれました。
「あんたの親父さんはな、人に貸した金の話を、一度もせん人やった」
きっと、私の知らない『落とし物』が、ほかにもいくつもあったのでしょう。
祭壇の父は、現場の昼休みみたいな、気持ちよさそうな顔で写っていました。
物置には今も、父の道具箱が残っています。
鏝の柄は手の形にすり減って、蓋の裏には現場の予定が鉛筆で書かれたまま消されずにいます。
そして去年の冬、駅前の映画館でのことです。
私は左官にはなりませんでした。中学校で国語を教えて、定年まで勤め上げました。
教室であの夜の話をしたことは、一度もありません。
口に出した瞬間に目減りするものがあると、教えてくれたのも父だからです。
ただ、月謝の封筒を握りしめて職員室の前に立つ親御さんには、人の何倍も早く気づく教師ではあったと思います。
券売機の前で、若いお母さんが財布を覗き込んだまま、動けなくなっていました。
後ろには、ちいさな子が三人。
上の子が弟たちに、ポスターの怪獣の説明をしてやっています。
「ねえ、まだ?」と末の子が言い、上の子が「しっ」と窘めました。
その「しっ」の言い方が、あの夜の、旗の下を約束していたお姉ちゃんとそっくりでした。
気づいたときには、私は千円札を足元に落としていました。
腰をかがめて拾い、そのお母さんの肩を、軽く叩きました。
「失礼、ポケットから落ちましたよ」
言いながら、自分の声の向こうで、父の声が重なって聞こえた気がしました。
お母さんは目を見開いて、それから何かを察したように、深く深く頭を下げました。
「いいんです。落ちていたものですから」
私は父と同じ顔で、そう言えていたでしょうか。
切符を買い終えた親子四人が、上映時間に間に合うように、小走りでロビーを横切っていきました。
いちばん小さい子が、入口で一度だけ振り返って、大きく手を振りました。
あの夜の、あの子のように。
映画館のロビーの匂いは、あの夜の河川敷とはまるで違います。
それでも私は確かに、九月の風に鳴る赤い旗を見ていました。
あの夜の父の手の温度が、四十年遅れで、自分の手のひらに移ってきたようでした。
あの晩、私たちはサーカスを見ることができませんでした。
でも、それで良かったのです。