
祖母が亡くなったのは、二月の終わりだった。
訃報を受けたのは夜勤明けのことで、美雪は着替えも済まないまま、病院の白衣のまま新幹線に飛び乗った。窓の外の景色が関東平野から山あいに変わり、やがて雪景色が広がり始めた頃、ようやく祖母がもういないという実感が、じわじわと体に染み込んできた。
祖母の家は、新潟の山間いにある古い温泉街に建っていた。築六十年以上の家で、廊下の床が鳴り、風が吹くたびに雨戸が揺れた。縁側から見える裏山に、毎年冬になると雪がこんもりと積もった。美雪が子どもの頃、夏休みになると毎年そこに預けられた。母の仕事が繁忙期を迎える時期と重なっていたから。
祖母は、厳しい人だった。少なくとも、美雪はずっとそう思って育った。
遅刻をすれば叱られた。食事の作法が悪ければその場で指摘された。宿題をしていなければ縁側に正座させられた。言葉に容赦がなく、「甘えるな」「ちゃんとしなさい」が口癖だった。
でも、褒められた記憶がない。発表会でうまく弾けた時も、受験に合格した時も、薬剤師の国家試験に受かった時も、祖母の口からは「そうか」の一言しか出てこなかった。電話で報告するたびに、美雪はいつも少し空ぶった気持ちになって受話器を置いた。
「おばあちゃんは不器用なのよ」と、母は言い続けた。「愛情はちゃんとあるのに、うまく出せない人なの」
美雪はずっと、半信半疑だった。愛情があるなら、どうして一度も言ってくれないのだろう、と思っていた。
※
葬儀を終えて三日後、美雪は一人で遺品整理を始めた。母はすでに東京に戻っていた。
祖母の部屋は、老人の部屋らしく物が多かった。着物の入った桐箪笥、仏壇に並んだ位牌、縁側に積まれた古い雑誌の束。使い込まれた茶道具の一式、何十枚もの古い年賀状。一つひとつを仕分けながら、美雪は淡々と作業を続けた。泣くつもりはなかった。正確には、泣けなかった。悲しくないわけではないのに、涙が出てこなかった。
押し入れの上段の奥に手を伸ばした時、重たい何かに触れた。引っ張り出してみると、古い菓子缶だった。丸型の、オレンジ色の地に花模様が描かれた昭和の缶で、蓋がかなり固く閉まっていた。錆びているわけでも変形しているわけでもなく、ただ長い年月で締まりがよくなっているだけだった。
台所に持っていき、バターナイフを隙間に差し込んでこじ開けた。
中に入っていたのは、大量の絵はがきだった。
輪ゴムで束ねられた絵はがきが、ぎっしりと詰まっていた。五束か六束はあった。美雪は一番上の一枚を取り出し、表を見た。
宛名の欄に、美雪の名前が書かれていた。
「石田美雪ちゃんへ」
でも、住所の欄は空白だった。切手も貼られていない。送り先がない。送るつもりがない。ただ書かれた、便りだった。
※
一枚目を裏返した。
几帳面な筆文字が、小さく並んでいた。祖母の字だった。
美雪ちゃんへ。今日から一年生だね。学校に行くのが怖いって、昨日の夜、布団の中でこっそり泣いていたのを、ばあちゃんは知っているよ。声をかけてやれなくてごめんね。ちゃんとやれるよ。あなたはそういう子だから。
日付は、美雪が小学校に入学した年の四月だった。
美雪は、あの夜のことを覚えていた。引っ越しが重なり、知り合いが一人もいない小学校に転校することになっていた。夜中に布団をかぶって、声を殺して泣いていた。祖母には見られていないつもりだった。翌朝、祖母は何も言わなかった。いつも通り「早く食べなさい」と言って朝ごはんを出した。美雪は「知らなかったんだ」と思って、少し寂しかった。
知っていたのか。知っていて、何も言わなかったのか。
声をかけてやれなくてごめんね、と書かれていた。
手が少し震えた。次の束に手を伸ばした。
※
絵はがきは、時系列に束ねられていた。
小学校の入学から始まり、中学校の入学、高校受験の前日、大学の合格発表の日、就職が決まった春、祖母の見舞いに来られなかった年の夏。美雪の人生の節目節目に、必ず一枚あった。それだけではなく、なんでもない日にも書かれたものがあった。「今日、テレビで薬剤師が出ていた。美雪ちゃんのことを思い出した」。「今日は雪が多い。あなたが子どもの頃、雪合戦で転んで泥だらけになった顔を思い出した。笑った」。
美雪は菓子缶の隣に座り込んで、一枚ずつ読んでいった。
中学に入って間もない頃のはがき。「クラスになじめないって、電話口でため息をついていたね。言いたいことが言えない子だから、きっとつらいね。でも、あなたの優しさはいつかきっと伝わるよ。ばあちゃんにはわかる」
高校三年の冬のはがき。「受験の結果を聞くのが怖くて、こちらからは電話できずにいる。でも、あなたならきっと大丈夫。ばあちゃんはいつもそう思っている」
就職して初めての夏。「東京での暮らしはどう? 聞きたいのに、なぜか電話口では別の話ばかりしてしまう。天気とか、ご飯のこととか、どうでもいいことばかり言ってしまう。ごめんね、うまく言えなくて」
美雪が薬剤師の試験に落ちた年のはがき。「今年はだめだったね。でも来年がある。ばあちゃんは信じているよ、あなたのことを。一度も言ったことがないけれど、ずっとそう思っている」
そのはがきの余白に、小さく追記があった。「言えればいいのに、と何度も思う」
美雪の目が、ぼやけてきた。
一度も言ったことがないけれど。何度も思う。
わかっていたのだろうか、と美雪は思った。自分が言えない人間だということを。だから書いた。送ることもできない絵はがきに、ずっと書き続けた。
※
最後の束の、一番上の一枚を取り出した。
日付を確認すると、三ヶ月前だった。祖母が入院する少し前の時期だった。
美雪ちゃんへ。今日、あなたの薬局の前を通ってみた。病院からの帰り道に、少し遠回りをして。窓から白衣姿のあなたが見えた。お客さんと話しているところを、少し遠くから見ていた。立派になったねえ、と思った。うれしくて、泣きそうになったから、急いで角を曲がった。あなたに薬剤師になってほしいと言ったのは、ばあちゃんだったね。でも本当のことを言うと、なんでもよかったの。あなたが元気でいてくれれば、それだけでよかった。一度でいいから、そう言いたかった。ありがとう、美雪ちゃん。あなたのことが、ばあちゃんの自慢でした。
美雪は、声を上げて泣いた。
押し入れの前に座り込んだまま、菓子缶を両手で抱えて、声が出なくなるまで泣いた。祖母の家の古い廊下に、一人の泣き声だけが響いた。どれくらい泣いていたか、わからなかった。気づいた時には、部屋の外がすっかり暗くなっていた。
病院から帰る道に、少し遠回りをして来てくれていた。窓から見ていた。それだけで角を曲がった。声をかけることもできずに。
それが祖母のやり方だった。いつも、そうだった。
ずっとそこにいたのに、なぜかそれが伝わらなかった。美雪も祖母も、お互いに不器用だった。
※
窓の外に、雪が降っていた。
温泉街の屋根が、白く積もっていく。煙突から湯気が上がり、夕方の灯りがぽつぽつとともり始めていた。祖母がいつも縁側から眺めていた、あの景色だった。
美雪は絵はがきを缶に戻し、蓋をした。送られなかった三十年分の便りを、全部。
東京に帰る時に、この缶を持って帰ろうと思った。引き出しの中に入れておこうと思った。大事なものをしまっておく場所に。
何度か読み返そうと思った。落ち込んだ夜や、くじけそうな時に。あの筆文字を読めば、ちゃんと立ち上がれる気がした。
ありがとう、ばあちゃん。
口に出して言ってみた。誰もいない部屋の中で、祖母に向けて。
答えはなかったけれど、雪はやわらかく、静かに降り続けていた。