
本土から三百キロ離れたこの島で、灯台の明かりを守り始めて、もうすぐ四年になる。
祖母が逝ったのは、先月の、嵐の夜だった。
彼女の部屋を整理していた俺は、棚の奥から古びたノートを一冊、見つけた。
表紙に日付も名前も書いていない。ただ、ページを繰るたびに、黒々とした文字が続いている。
祖母の字だった。
几帳面だったが、日記を書くような人ではないと思っていた。年賀状の宛名書きと、誕生日のメッセージカード。俺が知っている祖母の字は、それだけだった。
窓際の椅子に腰を下ろして、最初のページを開く。
日付は、俺がこの島に赴任した年の春から始まっていた。
四年分だった。
※
祖母との距離は、いつも少し遠かった。
嫌いなわけじゃない。むしろ、俺は祖母のことが好きだった。だが俺も祖母も、互いに「遠慮」という厄介なものを抱えていた。
孫が心配をかけてはいけない、と俺は思っていた。
祖母も、孫に甘えてはいけない、と思っていたらしい。
電話をすれば「元気か」「元気よ」で終わる。帰省すれば「大変だろうに、来なくていいのに」と言われ、俺は「そんなことないよ」と笑う。それが俺たちの習慣だった。
遠慮が積み重なると、言葉が薄くなる。本当に伝えたいことは、いつもその下に沈んでいた。
祖父は俺が中学生の頃に逝った。祖母はその後、一人で本土の古い一軒家に住んでいた。俺が親戚の中で一番近くに住んでいたこともあって、何かあれば俺が顔を出す、という暗黙の取り決めがいつの間にかできていた。
でも島に来てからは、半年に一度帰れればいい方だった。
祖母が俺に古いレコードをくれたのは、ちょうどこの島への赴任が決まった日だった。
「これ、持っていきなさい」
薄紙に包まれた一枚。曲名も書いていない、素っ気ないジャケット。
何を聞けばいいかわからなくて、俺はただ「ありがとう」とだけ言った。
祖母は何も説明しなかった。笑顔でもなかった。ただ、少しだけ目を細めて、俺の手を一度だけ、ぎゅっと握った。
島に来て、灯台守の官舎の棚にそのレコードを飾った。
でも、一度も針を落としたことはなかった。
プレーヤーを持っていなかった。それに、何となく、軽々しく聴いてはいけない気がした。祖母の表情が、どこか特別な何かを込めていたような気がして。
「いつか聴こう」と思いながら、四年が過ぎた。
帰省のたびに棚に飾られたままのレコードを見ながら、俺は毎回「来年こそプレーヤーを買おう」と思った。でも、毎回そのままだった。
祖母が島を訪ねてきたのは、一度だけだった。
赴任して最初の夏、祖母は一人でフェリーに乗ってきた。観光ではなく、ただ俺の官舎を見たかったと言った。
棚のレコードを見た祖母は、「飾ってくれてるの」とだけ言った。
俺は「うん」と答えた。
それ以上、何も話さなかった。
※
日記を読み始めて、俺はすぐに手が止まらなくなった。
祖母は、俺がレコードを聴いていないことを知っていた。
「あの子は遠慮しているのだろう。プレーヤーがないから言い出せないのかもしれない。私も言い出せないでいる。あの子が島に来てから、もう半年が経った」
その一文に、胸が詰まった。
ページをめくると、祖母は毎年俺の誕生日が近くなると「プレーヤーを贈ろうか」と書いていた。でも結局、何年も贈らなかった。
「あの子はお金を使われると申し訳なさそうにする。先週の電話でも、新しいコートが必要かと聞いたら、すぐに『大丈夫』と言った。だから、プレーヤーも断るだろう」
「あのレコードをまだ聴かないのは、もしかしたらあの子なりの理由があるのかもしれない。邪魔をしたくない」
俺も、祖母も、ずっと同じことを考えていた。
相手を思って、何も言わなかった。
あの夏の帰島の記録もあった。
「官舎の棚に、ちゃんとあった。一度も聴いていないのに、ほこりひとつなかった。あの子はきっと、毎日拭いているのだろう。嬉しかった。なぜ嬉しかったのか、うまく説明できない。ただ、嬉しかった」
その行を読んで、俺は息が出なかった。
毎日拭いていた、というのは本当だった。理由はなかった。ただ、何となく。
日記の終わりに近いページで、他と筆圧の違う、力のこもった段落を見つけた。
「あのレコードには、おじいちゃんが吹いたハーモニカが入っている。二人でまだ若かった頃に、レコーディングした。私が歌って、あの人がハーモニカを吹いた。ただそれだけの、素人の録音。プロの演奏でも、きれいな音でもない。でも世界に一枚しかない。結婚する前のことだ。あの人と二人で、夏の公民館に忍び込んで、二時間かけて録った。あの人はずっと笑っていた」
次のページが続いていた。
「あの子に持っていてほしかった。いつかあの子の耳に届いてほしかった。私が言えなかったのは、なぜだろう。大事なものほど、言葉にするのが怖くなる。もし聴いてくれるなら、嵐の夜がいい。灯台の光が一番よく見える夜に、聴いてほしい。そのとき私のことを思い出してくれるなら、それでいい」
俺はノートを閉じて、しばらく天井を見上げた。
部屋に西日が差し込んでいた。
窓の外には、祖母が四十年以上見続けたという裏山が広がっていた。風に揺れる木々が、夕暮れの光の中でゆっくりと動いている。
泣きたかったのかもしれない。でも、涙は出なかった。ただ、呆然としていた。
「大事なものほど、言葉にするのが怖くなる」という一文を、何度も頭の中で繰り返した。
※
島に戻ったのは、嵐の前夜だった。
俺は本土の中古品店で、プレーヤーを一台買って帰った。
あの棚から、四年ぶりにレコードを手に取った。
ジャケットの裏を見ると、小さく文字が書いてあった。
祖父の名前と、日付。
四十三年前の夏。
俺はプレーヤーをセットして、窓を少し開けた。
潮の匂いが入ってくる。遠くで波の音がする。灯台の光が、窓の外の海をゆっくりと走っていた。
レコードに針を落とした。
最初はザラザラとした雑音。それから、ピアノの和音が低く響いた。
そして、ハーモニカの音が来た。
素人の演奏だった。でも、丁寧だった。一つ一つの音が、慎重に、真剣に吹かれている。まるで大切なものを壊さないように触れているような、そういう音だった。
やがて、歌が入ってきた。
若い頃の祖母の声だと、すぐにわかった。
俺は目を閉じた。
海が鳴っている。風が来ている。灯台の光が、一秒ごとに暗闇を切り取っていた。
祖母がこのレコードを渡した理由が、わかった。
四年間、何も言わなかった理由も。
遠慮じゃなかった。
愛情が、言葉になれなかっただけだ。
大切だから、言えなかった。届けたかったから、直接は言えなかった。
レコードが一周する間、俺はずっとそこに座っていた。
針が上がり、部屋に静寂が戻った。
海の音だけが残った。
俺は窓の外を見た。灯台の光が、変わらず回っていた。
祖母も、ずっとこの光を見ていたのだろう。
遠い夜の海の向こうで、孫がそこにいると感じながら。
何も言わなくても、わかることがある。
俺はそのことを、四年越しに、一枚のレコードから教えてもらった。