郵便屋さんと呼ばれた朝
ばあちゃんが俺の顔を忘れたのは、雪のいちばん深い二月の終わりだった。
その朝、茶の間に下りてきたばあちゃんは、俺を見るなり背筋を伸ばして、丁寧に頭を下げた。
「いつも郵便、ご苦労さまです」
俺は孫の蓮だよ、と言いかけて、口をつぐんだ。
言ったところで、ばあちゃんの中の景色は変わらないのだと、もう分かっていたからだ。
※
ばあちゃんと暮らしているのは、秋田の角館から少し外れた、古い平屋だ。
冬になると軒先まで雪が迫り、家じゅうが青白い光に沈む。
朝はまず、屋根から落ちた雪の山を崩すことから始まる。
玄関を掘り出し、井戸の蓋を掘り出し、それから湯を沸かす。
その一連の作業を、俺は子どもの頃からばあちゃんと並んでやってきた。
今は、ばあちゃんは縁側からそれを眺めているだけになった。
それでも、雪をすくう俺の背中に、時々「精が出るねえ」と声をかけてくれる。
その声だけは、昔と少しも変わらなかった。
※
山桜の皮を貼る仕事
俺はその家から、樺細工の工房へ通っている。
山桜の樹皮を薄く削り、木地に貼って、茶筒や小箱に仕上げる仕事だ。
樺、と書くが、使うのは桜の皮だ。
この土地では、二百年以上前から続いている。
まだ見習いで、皮を削るだけで一日が終わる日も多い。
親方の手にかかると、皮は紙より薄く、それでいて割れずにめくれていく。
俺がやると、必ずどこかで裂ける。
皮には表情がある、と親方は言う。
「艶の出る面と、出ん面がある。それを見分けるまでに、十年だな」
膠を溶かした鍋の匂いが、工房にはいつも立ちこめている。
甘いような、生臭いような、慣れるまでは頭が痛くなる匂いだ。
その匂いを嗅ぐと、なぜだか俺は落ち着く。
親方はよく言う。
「樺はな、剥いだ人の手を覚えとるもんだ」
その言葉を、俺は最近よく思い返す。
※
ひとつずつ手を離していく
ばあちゃんの物忘れは、二年ほど前から少しずつ始まっていた。
鍋を火にかけたまま縁側で日向ぼっこをしていたり、同じ話を三度繰り返したり。
はじめは、年だから仕方ないと笑っていた。
ある晩、ばあちゃんが寝間着のまま外へ出てしまったことがあった。
俺と親父が手分けして探すと、ばあちゃんは雪の積もった畑の真ん中に立っていた。
「大根を採りに来ただ」
真冬の、何も植わっていない畑で、ばあちゃんはそう言って笑っていた。
その笑顔が、なぜだか俺にはこたえた。
家に連れ帰る道々、ばあちゃんの手は氷のように冷たかった。
その手を、俺は両手で包んだまま歩いた。
※
季節がひとつ巡るごとに、ばあちゃんの中から人の名前が消えていった。
親父のことは「兄さん」と呼び、母のことだけは最後まで「母ちゃん」と呼んだ。
そして俺は、会うたびに違う誰かにされた。
ある日は電気屋、ある日は隣の集落の子、そしてこの冬は、毎朝決まって郵便屋になった。
母はそのたびに台所でそっと目元を拭っていたが、俺の前では決して泣かなかった。
「忘れていくのも、本人がいちばん怖いんだと思うよ」
母は、味噌汁をよそいながら、ひとりごとのようにそう言った。
「だから、訂正しなくていい。ばあちゃんが今いる場所に、こっちが合わせてあげればいいの」
その言葉に、俺はただうなずいた。
※
塩のきついおにぎり
俺が小さい頃、ばあちゃんはいつも手が荒れていた。
畑と漬物と、雪かきで、指の節がごつごつと太かった。
その手で握ってくれたおにぎりは、いつも少し塩がきつくて、海苔がぱりぱりだった。
幼稚園から帰ると、ばあちゃんは決まって縁側で繕い物をしていた。
俺の膝の破れたズボンを、何度でも縫い直してくれた。
継ぎ当ての布は、いつも違う柄だった。
同じ布で揃えればいいのに、と子どもながらに思っていた。
あとで母に聞いたら、わざと違う布を当てていたのだという。
「そのほうが、蓮が自分のだって分かるでしょう」
熱を出した夜は、冷たい手のひらをずっと額に当てていてくれた。
「蓮は元気がいちばんだあ」
それが口ぐせだった。
祭りの晩には、決まって俺の手を握って、人混みの中をゆっくり歩いた。
はぐれないように、と、その手は驚くほど強かった。
その口ぐせを言う相手も、その手を握る相手も、もう俺だとは分からなくなっている。
※
赤いポストまで歩いた日
あの絵はがきのことを、俺は工房で、少しずつ思い出していた。
幼稚園の年少のとき、敬老の日に絵を描く時間があった。
先生が「おじいちゃんやおばあちゃんに、ありがとうを描きましょう」と言った。
俺は迷わず、ばあちゃんと手をつないでいる絵を描いた。
字はまだほとんど書けなくて、先生に一文字ずつ教わった。
「げ」がどうしてもうまく書けなくて、点の数を何度も間違えた。
だからあのはがきの「げ」には、点が三つもついているのだ。
書き終えたあと、俺は自分の足で、近所の赤いポストまで歩いた。
背伸びをして、両手で、その一枚を投函口に押し込んだ。
届きますように、と思ったかどうかは、もう覚えていない。
ただ、指を離したときの、ことん、という音だけを覚えている。
※
誰を待っているのか
ばあちゃんは、若い頃に連れ合いを亡くしていた。
俺が生まれるずっと前のことで、じいちゃんの顔を俺は写真でしか知らない。
女手ひとつで親父を育て、畑を守り、この家を守ってきた人だった。
そのばあちゃんが、近頃はよく、縁側で誰かを待つように外を見ている。
「誰を待ってるの」と聞くと、決まって首をかしげる。
「さあねえ。誰だったかねえ」
忘れたことすら、もう忘れてしまっているのだった。
それでも、雪の日の午後だけは、決まって玄関のほうを見る。
郵便が来る時間だ、と母が教えてくれた。
この土地の配達は、雪の日は決まって午後になる。
体は、頭より正確に覚えていることがあるらしい。
※
蓋を撫でてから開ける
ばあちゃんには、ひとつだけ、忘れずに続けている動作があった。
座布団の下から小さな箱を出してくるときだ。
ばあちゃんは、箱の蓋を開ける前に、必ず一度、蓋の上を手のひらで撫でた。
ゆっくりと、右から左へ。
そのあとで、指を掛けて、蓋を持ち上げる。
俺は長いこと、それを埃を払っているのだと思っていた。
大事なものだから、丁寧に扱っているのだろう、と。
箱は、樺細工だった。
桜の皮の、黒みがかった飴色で、長い年月に磨かれて、しっとりとした艶があった。
ただ、工房で作られる箱とは、どこか違っていた。
どこが違うのか、その頃の俺には、まだ言葉にできなかった。
※
ばあちゃんの中の孫
その日も俺は、いつものようにお茶を運んだ。
ばあちゃんは座布団の上で、ちんまりと膝を抱えて座っていた。
湯呑みを差し出すと、また「郵便屋さん、ご苦労さまです」と頭を下げた。
俺は黙って隣に腰を下ろした。
窓の外では、雪が音もなく降り積もっていた。
ばあちゃんは湯呑みを両手で包み、ふいにぽつりと話し始めた。
「うちにもね、孫がいるんですよ」
湯気の向こうで、ばあちゃんの目がやわらかく細くなった。
「蓮ってね、それはそれは可愛い子でね。小さい頃は、ばあちゃんばあちゃんって、後ろをついて回ってねえ」
俺は湯呑みを持つ手に、力が入るのが分かった。
「でも、大きくなったらすっかり来なくなってねえ。忙しいんだろうねえ。元気にしてるかねえ」
目の前にいる俺に、ばあちゃんは、来なくなった俺の話をしていた。
※
俺は、何も言えなかった。
ここにいるよ、と言いたかった。
毎朝お茶を運んでいるのは、その蓮だよ、と。
けれど言葉にしてしまえば、ばあちゃんの中のやさしい景色を壊してしまう気がした。
忘れられているのは確かに寂しい。
けれど、ばあちゃんの中で、俺はまだ可愛い孫のままなのだ。
だから俺は、郵便屋のまま、ただうなずいていた。
※
点が三つある「げ」
ばあちゃんは、座布団の下にそろそろと手を入れた。
いつもの箱だった。
蓋を手のひらでひと撫でして、それから、両手で大事そうに開けた。
「これね、その子からもらった宝物なんですよ」
中に入っていたのは、すっかり色のあせた一枚の絵はがきだった。
クレヨンで、人がふたり描いてある。
大きな丸い顔の隣に、小さな丸い顔。
手と手が、はみ出しそうなほど太い線で、しっかりとつながれていた。
その下に、ひらがなが並んでいた。
「ばあちゃん いつまでも げんきでね」
幼稚園の年少だった俺が、敬老の日にばあちゃんへ送ったものだった。
「く」の字が裏返しで、「げ」の点が三つもあった。
俺は、こんなものを送ったことすら、すっかり忘れていた。
送った本人が忘れていたものを、もらった人が、こんなにも大切に持っていた。
※
ばあちゃんは、その下手くそな字を、指でそっとなぞった。
何度も、何度も、撫でるようになぞった。
名前も、顔も、年月も、ほとんど忘れてしまったばあちゃんが。
この一枚だけは、座布団の下に隠して、毎日触れていたのだ。
「ねえ郵便屋さん。もし蓮に会うことがあったら、伝えてくださいな」
ばあちゃんは、はがきを胸に抱いて、ほほえんだ。
「ばあちゃんは、いつまでも元気だよって」
俺は「はい、必ず」とだけ答えて、立ち上がった。
そのまま茶の間を出て、誰もいない工房まで歩いた。
削りかけの皮の前で、俺は肩を震わせて泣いた。
体じゅうの水分が、全部こぼれてしまうくらい泣いた。
手の甲に、ぽたぽたと滴が落ちた。
その手は、いつかのばあちゃんの手に、少しだけ似てきていた。
※
継ぎ目が正面にある箱
翌日、俺は工房で、親方にあの箱の話をした。
樺細工の箱が、うちの座布団の下にあること。
ばあちゃんが、蓋を撫でてから開けること。
親方は、しばらく手を止めずに聞いていたが、ふいに顔を上げた。
「その箱、継ぎ目はどこに来とる」
俺は、答えられなかった。
「うちの箱はな、皮の継ぎ目は、必ず後ろか、脇に回す。正面には出さん」
「正面に継ぎ目のある箱は、うちからは出ん」
その晩、俺はばあちゃんが眠るのを待って、箱を借りた。
灯りの下で見ると、継ぎ目は、はっきりと正面にあった。
しかも、わずかに段差になって浮いている。
指の腹を当てると、確かに引っかかる。
俺は、その段差を、上から下へなぞった。
撫でていたのは、埃ではなく、継ぎ目の段差だった。
ばあちゃんは、目が見えにくくなってからも、この段差を探して、そこに指を掛けていたのだ。
※
皮 一枚 ハツ
次の日、俺は親方に、箱を持っていった。
親方は箱を裏返し、底を透かして見て、それから低い声で言った。
「素人の仕事だ」
「膠の量が多い。だが、剥ぎは、うちの誰より上手い」
親方は奥の棚から、古い帳面を出してきた。
紙が飴色になって、めくると乾いた音がした。
その中ほどに、五十年以上前の日付で、一行だけ書いてあった。
「皮 一枚 ハツ」
ハツ、というのは、ばあちゃんの名前だった。
「昔はな、女は皮剥ぎまでだ。貼りはさせてもらえん」
「うちのじいさんの代の話だがな」
親方は帳面を閉じて、それを俺の手に戻した。
「一度だけ、貼らせてもらったんだろうな」
ばあちゃんが生涯でただ一つ自分の手で貼った箱に、俺のはがきが入っていた。
継ぎ目が正面に来てしまったのは、素人だったからだ。
けれどその失敗が、五十年後に、目の悪くなった本人を助けていた。
俺は工房の隅で、しばらく箱を持ったまま座っていた。
※
郵便が来るたびに
後日、近所のおばさんが、昔のばあちゃんの話を聞かせてくれた。
「あんたのばあちゃんはねえ、郵便が来るたびに、あの箱を出してきてねえ」
「これは孫からの宝物だって、配達のお兄さんにまで見せて回ってたんだよ」
俺は、はっとした。
だからばあちゃんは、俺を郵便屋だと思ったあの朝に、いちばんにあの箱を開けたのだ。
郵便屋にだけは、どうしても見せたかったのだろう。
忘れてしまった頭の奥で、その習慣だけが、静かに息づいていた。
おばさんは、それから思い出したように付け足した。
「あの、げの点が三つあるでしょう。あれが可愛いって、いつも数えてたよ」
「三つあるから、うちの蓮のだって分かるんだ、って」
下手だったから、見分けがついた。
継ぎ目が正面に出てしまったから、指が掛かった。
うまくできなかったものばかりが、いちばん長く役に立っていた。
※
端材の桜で額を作る
それから俺は、仕事の合間に、小さな額を作り始めた。
あの絵はがきを、これ以上あせさせたくなかった。
親方に頼んで、山桜の皮を一枚分けてもらった。
削り、木地を組み、薄いガラスを嵌める溝を彫った。
皮を貼るとき、俺はわざと、継ぎ目を正面に持ってきた。
親方は横目でそれを見て、何も言わなかった。
ただ、通りすがりに一度だけ、「そこは、少し厚めに膠を置け」と言った。
夜、家に帰ってからも、俺は手を動かし続けた。
うまく貼れない日もあった。
指を切って、血の滲んだ絆創膏を巻いたまま、それでも削った。
ばあちゃんが繕い物を、何度でもやり直していた姿を、なぜか思い出していた。
丁寧に手を動かすことは、それだけで、誰かを想うことなのかもしれない。
年老いた家族の何気ない習慣に、ずっと後になって気づいた話としては、ドア裏の落書きも、俺には他人事に思えなかった。
看病する側とされる側の気持ちがすれ違う話なら、お母さんの看病がしたいよも、あわせて読んでほしい。
※
上手に、つないであるねえ
額が仕上がったのは、雪解け水が軒先を伝う頃だった。
俺は箱からはがきを取り出し、そっと額に納めた。
クレヨンの絵が、ガラスの向こうで少しだけ明るく見えた。
それを持って、俺はばあちゃんの隣に座った。
「ばあちゃん、これ」
はじめて、郵便屋ではなく、ただそう呼びかけた。
ばあちゃんは額をのぞき込み、長いあいだ、じっと見ていた。
それから、しわだらけの指で、ガラスの上の小さな手の絵を、そっとなぞった。
「……上手に、つないであるねえ」
ばあちゃんの目から、ひとすじ、静かに落ちるものがあった。
その涙が、俺のことを思い出したからなのか、俺には分からない。
分からないまま、俺はばあちゃんの手の上に、自分の手を重ねた。
その手は、もう冷たくなかった。
ばあちゃんの指が、額の縁をなぞって、正面の継ぎ目のところで止まった。
そして、そこを一度、上から下へ撫でた。
俺は息を止めた。
ばあちゃんは、何も言わなかった。
ただ、ゆっくりとうなずいた。
※
いつまでも元気でね
額は今、ばあちゃんの枕元に置いてある。
目が覚めるたび、ばあちゃんはまずそれを見る。
誰が描いたのか、もう分からないのかもしれない。
それでも、つながれた手の絵を見ると、ばあちゃんは決まって、やわらかくほほえむのだ。
忘れていくことは、きっと、ひとつずつ手を離していくことなのだと思う。
名前を離し、顔を離し、季節を離し、それでもばあちゃんは、あの一枚だけは離さなかった。
人がいちばん深いところに仕舞っておくものは、名前でも顔でもないのかもしれない。
誰かに大切にされた、その温もりのほうなのだと思う。
親方の言葉を、また思い出す。
樺は、剥いだ人の手を覚えている。
きっと人の心も、同じなのだ。
翌朝も俺は、お茶を運ぶ。
「郵便屋さん、ご苦労さまです」と頭を下げるばあちゃんに、今日も俺は、はいと答える。
そうしてまた、箱の蓋がひと撫でされるのを、隣で静かに待つのだ。
いつまでも元気でね、と、今度は俺のほうが、心の中でつぶやきながら。