ばあちゃんいつまでもげんきでね

ばあちゃんが俺の顔を忘れたのは、雪のいちばん深い二月の終わりだった。

その朝、茶の間に下りてきたばあちゃんは、俺を見るなり背筋を伸ばして丁寧に頭を下げた。

「いつも郵便、ご苦労さまです」

俺は孫の蓮だよ、と言いかけて、口をつぐんだ。

言ったところで、ばあちゃんの中の景色は変わらないのだと、もう分かっていたからだ。

ばあちゃんと暮らしているのは、北国の町外れにある古い平屋だ。

冬になると軒先まで雪が迫り、家じゅうが青白い光に沈む。

朝はまず、屋根から落ちた雪の山を崩すことから始まる。

玄関を掘り出し、井戸の蓋を掘り出し、それから湯を沸かす。

その一連の作業を、俺は子どもの頃からばあちゃんと並んでやってきた。

今は、ばあちゃんは縁側からそれを眺めているだけになった。

それでも、雪をすくう俺の背中に、時々「精が出るねえ」と声をかけてくれる。

その声だけは、昔と少しも変わらなかった。

俺はその家から、建具屋の親方のもとへ通っている。

障子の桟を削り、襖の紙を張り替え、戸の建て付けを直す仕事だ。

まだ見習いで、鉋の刃を研ぐだけで一日が終わる日も多い。

砥石の上で刃を前後させると、水が灰色に濁っていく。

その濁りが澄むまで研いで、ようやく一枚の薄い削りくずが出る。

木を削ると、手のひらに薄い温もりが残る。

その感触だけが、近頃の俺には確かなものに思えた。

親方はよく言う。

「木は、削った人のことを覚えてるもんだ」

その言葉を、俺は最近よく思い返す。

ばあちゃんの物忘れは、二年ほど前から少しずつ始まっていた。

鍋を火にかけたまま縁側で日向ぼっこをしていたり、同じ話を三度繰り返したり。

はじめは、年だから仕方ないと笑っていた。

ある晩、ばあちゃんが寝間着のまま外へ出てしまったことがあった。

俺と親父が手分けして探すと、ばあちゃんは雪の積もった畑の真ん中に立っていた。

「大根を採りに来ただ」

真冬の、何も植わっていない畑で、ばあちゃんはそう言って笑っていた。

その笑顔が、なぜだか俺にはこたえた。

家に連れ帰る道々、ばあちゃんの手は氷のように冷たかった。

その手を、俺は両手で包んだまま歩いた。

季節がひとつ巡るごとに、ばあちゃんの中から人の名前が消えていった。

親父のことは「兄さん」と呼び、母のことだけは最後まで「母ちゃん」と呼んだ。

その母ちゃんさえ、自分を産んだ親のことだと思い込んでいるらしかった。

そして俺は、会うたびに違う誰かにされた。

ある日は電気屋、ある日は隣の集落の子、そしてこの冬は、毎朝決まって郵便屋になった。

母はそのたびに台所でそっと目元を拭っていたが、俺の前では決して泣かなかった。

「忘れていくのも、本人がいちばん怖いんだと思うよ」

母は、味噌汁をよそいながら、ひとりごとのようにそう言った。

「だから、訂正しなくていい。ばあちゃんが今いる場所に、こっちが合わせてあげればいいの」

その言葉に、俺はただうなずいた。

俺が小さい頃、ばあちゃんはいつも手が荒れていた。

畑と漬物と、雪かきで、指の節がごつごつと太かった。

その手で握ってくれたおにぎりは、いつも少し塩がきつくて、海苔がぱりぱりだった。

幼稚園から帰ると、ばあちゃんは決まって縁側で繕い物をしていた。

俺の膝の破れたズボンを、何度でも縫い直してくれた。

熱を出した夜は、冷たい手のひらをずっと額に当てていてくれた。

「蓮は元気がいちばんだあ」

それが口ぐせだった。

祭りの晩には、決まって俺の手を握って、人混みの中をゆっくり歩いた。

はぐれないように、と、その手は驚くほど強かった。

その口ぐせを言う相手も、その手を握る相手も、もう俺だとは分からなくなっている。

あの絵はがきのことを、俺は作業場で泣きながら、少しずつ思い出していた。

幼稚園の年少のとき、敬老の日に絵を描く時間があった。

先生が「おじいちゃんやおばあちゃんに、ありがとうを描きましょう」と言った。

俺は迷わず、ばあちゃんと手をつないでいる絵を描いた。

字はまだほとんど書けなくて、先生に一文字ずつ教わった。

「げ」がどうしてもうまく書けなくて、点の数を何度も間違えた。

だからあのはがきの「げ」には、点が三つもついているのだ。

書き終えたあと、俺は自分の足で、近所の赤いポストまで歩いた。

背伸びをして、両手で、その一枚を投函口に押し込んだ。

届きますように、と思ったかどうかは、もう覚えていない。

ばあちゃんは、若い頃に連れ合いを亡くしていた。

俺が生まれるずっと前のことで、じいちゃんの顔を俺は写真でしか知らない。

女手ひとつで親父を育て、畑を守り、この家を守ってきた人だった。

そのばあちゃんが、近頃はよく、縁側で誰かを待つように外を見ている。

「誰を待ってるの」と聞くと、決まって首をかしげる。

「さあねえ。誰だったかねえ」

忘れたことすら、もう忘れてしまっているのだった。

その日も俺は、いつものようにお茶を運んだ。

ばあちゃんは座布団の上で、ちんまりと膝を抱えて座っていた。

湯呑みを差し出すと、また「郵便屋さん、ご苦労さまです」と頭を下げた。

俺は黙って隣に腰を下ろした。

窓の外では、雪が音もなく降り積もっていた。

ばあちゃんは湯呑みを両手で包み、ふいにぽつりと話し始めた。

「うちにもね、孫がいるんですよ」

湯気の向こうで、ばあちゃんの目がやわらかく細くなった。

「蓮ってね、それはそれは可愛い子でね。小さい頃は、ばあちゃんばあちゃんって、後ろをついて回ってねえ」

俺は湯呑みを持つ手に、力が入るのが分かった。

「でも、大きくなったらすっかり来なくなってねえ。忙しいんだろうねえ。元気にしてるかねえ」

目の前にいる俺に、ばあちゃんは、来なくなった俺の話をしていた。

俺は、何も言えなかった。

ここにいるよ、と言いたかった。

毎朝お茶を運んでいるのは、その蓮だよ、と。

けれど言葉にしてしまえば、ばあちゃんの中のやさしい景色を壊してしまう気がした。

忘れられているのは確かに寂しい。

けれど、ばあちゃんの中で、俺はまだ「可愛い孫」のままなのだ。

だから俺は、郵便屋のまま、ただうなずいていた。

するとばあちゃんは、座布団の下にそろそろと手を入れた。

取り出したのは、桐でできた小さな箱だった。

蓋には、長い年月で磨かれたような、しっとりとした艶があった。

「これね、その子からもらった宝物なんですよ」

ばあちゃんは箱の蓋を、両手で大事そうに開けた。

中に入っていたのは、すっかり色のあせた一枚の絵はがきだった。

はがきには、クレヨンで人がふたり描いてあった。

大きな丸い顔の隣に、小さな丸い顔。

手と手が、はみ出しそうなほど太い線で、しっかりとつながれていた。

その下に、ひらがなが並んでいた。

「ばあちゃん いつまでも げんきでね」

幼稚園の年少だった俺が、敬老の日にばあちゃんへ送ったものだった。

「く」の字が裏返しで、「げ」の点が三つもあった。

俺は、こんなものを送ったことすら、すっかり忘れていた。

送った本人が忘れていたものを、もらった人が、こんなにも大切に持っていた。

ばあちゃんは、その下手くそな字を、指でそっとなぞった。

何度も、何度も、撫でるようになぞった。

名前も、顔も、年月も、ほとんど忘れてしまったばあちゃんが。

この一枚だけは、座布団の下に隠して、毎日触れていたのだ。

「ねえ郵便屋さん。もし蓮に会うことがあったら、伝えてくださいな」

ばあちゃんは、はがきを胸に抱いて、ほほえんだ。

「ばあちゃんは、いつまでも元気だよって」

俺は「はい、必ず」とだけ答えて、立ち上がった。

そのまま茶の間を出て、誰もいない作業場まで歩いた。

削りかけの障子戸の前で、俺は声を殺して泣いた。

体じゅうの水分が、全部こぼれてしまうくらい泣いた。

鉋を握る手の甲に、ぽたぽたと滴が落ちた。

その手は、いつかのばあちゃんの手に、少しだけ似てきていた。

その夜、俺は台所にいた母に、桐の箱のことを話した。

母はしばらく黙って、それから小さく笑った。

「あの箱はね、じいちゃんが嫁入り道具にって、自分で削って作ったものなんだよ」

はじめて聞く話だった。

ばあちゃんは、いちばん大切なものを、いちばん大切な箱に入れていた。

忘れていく頭の中でも、何を仕舞うべきかだけは、ちゃんと分かっていたのだ。

後日、近所のおばさんが、昔のばあちゃんの話を聞かせてくれた。

「あんたのばあちゃんはねえ、郵便が来るたびに、あの箱を出してきてねえ」

「これは孫からの宝物だって、配達のお兄さんにまで見せて回ってたんだよ」

俺は、はっとした。

だからばあちゃんは、俺を郵便屋だと思ったあの朝に、いちばんにあの箱を開けたのだ。

郵便屋にだけは、どうしても見せたかったのだろう。

忘れてしまった頭の奥で、その習慣だけが、静かに息づいていた。

忘れていくことは、きっと、ひとつずつ手を離していくことなのだと思う。

名前を離し、顔を離し、季節を離し──それでもばあちゃんは、あの一枚だけは、最後まで離さなかった。

たとえ俺のことを忘れても、俺がいちばん伝えたかった言葉のほうが、ばあちゃんの中にずっと残っていた。

人がいちばん深いところに仕舞っておくものは、名前でも顔でもないのかもしれない。

誰かに大切にされた、その温もりのほうなのだと思う。

親方の言葉を、また思い出した。

木は、削った人のことを覚えている。

きっと人の心も、同じなのだ。

それから俺は、仕事の合間に、小さな木の額を作り始めた。

あの絵はがきを、これ以上あせさせたくなかった。

親方に頼んで、端材の桐を一枚分けてもらった。

奇しくも、あの箱と同じ木だった。

鉋をかけ、角を落とし、薄いガラスを嵌める溝を彫った。

夜、家に帰ってからも、俺は手を動かし続けた。

うまく削れない日もあった。

指を切って、血の滲んだ絆創膏を巻いたまま、それでも削った。

ばあちゃんが繕い物を、何度でもやり直していた姿を、なぜか思い出していた。

丁寧に手を動かすことは、それだけで、誰かを想うことなのかもしれない。

額が仕上がったのは、雪解け水が軒先を伝う頃だった。

俺は桐の箱からはがきを取り出し、そっと額に納めた。

クレヨンの絵が、ガラスの向こうで少しだけ明るく見えた。

それを持って、俺はばあちゃんの隣に座った。

「ばあちゃん、これ」

はじめて、郵便屋ではなく、ただそう呼びかけた。

ばあちゃんは額をのぞき込み、長いあいだ、じっと見ていた。

そして、しわだらけの指で、ガラスの上の小さな手の絵を、そっとなぞった。

「……上手に、つないであるねえ」

ばあちゃんの目から、ひとすじ、静かに落ちるものがあった。

その涙が、俺のことを思い出したからなのか、俺には分からない。

分からないまま、俺はばあちゃんの手の上に、自分の手を重ねた。

その手は、もう冷たくなかった。

額は今、ばあちゃんの枕元に置いてある。

目が覚めるたび、ばあちゃんはまずそれを見る。

誰が描いたのか、もう分からないのかもしれない。

それでも、つながれた手の絵を見ると、ばあちゃんは決まって、やわらかくほほえむのだ。

やがて雪がゆるみ、軒先の氷柱が一日ごとに短くなっていった。

翌朝も俺は、お茶を運ぶ。

「郵便屋さん、ご苦労さまです」と頭を下げるばあちゃんに、今日も俺は、はいと答える。

そうしてまた、桐の箱がそっと開くのを、隣で静かに待つのだ。

いつまでも元気でね、と、今度は俺のほうが、心の中でつぶやきながら。

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