ばあちゃんいつまでもげんきでね

郵便屋さんと呼ばれた朝

ばあちゃんが俺の顔を忘れたのは、雪のいちばん深い二月の終わりだった。

その朝、茶の間に下りてきたばあちゃんは、俺を見るなり背筋を伸ばして、丁寧に頭を下げた。

「いつも郵便、ご苦労さまです」

俺は孫の蓮だよ、と言いかけて、口をつぐんだ。

言ったところで、ばあちゃんの中の景色は変わらないのだと、もう分かっていたからだ。

ばあちゃんと暮らしているのは、秋田の角館から少し外れた、古い平屋だ。

冬になると軒先まで雪が迫り、家じゅうが青白い光に沈む。

朝はまず、屋根から落ちた雪の山を崩すことから始まる。

玄関を掘り出し、井戸の蓋を掘り出し、それから湯を沸かす。

その一連の作業を、俺は子どもの頃からばあちゃんと並んでやってきた。

今は、ばあちゃんは縁側からそれを眺めているだけになった。

それでも、雪をすくう俺の背中に、時々「精が出るねえ」と声をかけてくれる。

その声だけは、昔と少しも変わらなかった。

山桜の皮を貼る仕事

俺はその家から、樺細工の工房へ通っている。

山桜の樹皮を薄く削り、木地に貼って、茶筒や小箱に仕上げる仕事だ。

樺、と書くが、使うのは桜の皮だ。

この土地では、二百年以上前から続いている。

まだ見習いで、皮を削るだけで一日が終わる日も多い。

親方の手にかかると、皮は紙より薄く、それでいて割れずにめくれていく。

俺がやると、必ずどこかで裂ける。

皮には表情がある、と親方は言う。

「艶の出る面と、出ん面がある。それを見分けるまでに、十年だな」

膠を溶かした鍋の匂いが、工房にはいつも立ちこめている。

甘いような、生臭いような、慣れるまでは頭が痛くなる匂いだ。

その匂いを嗅ぐと、なぜだか俺は落ち着く。

親方はよく言う。

「樺はな、剥いだ人の手を覚えとるもんだ」

その言葉を、俺は最近よく思い返す。

ひとつずつ手を離していく

ばあちゃんの物忘れは、二年ほど前から少しずつ始まっていた。

鍋を火にかけたまま縁側で日向ぼっこをしていたり、同じ話を三度繰り返したり。

はじめは、年だから仕方ないと笑っていた。

ある晩、ばあちゃんが寝間着のまま外へ出てしまったことがあった。

俺と親父が手分けして探すと、ばあちゃんは雪の積もった畑の真ん中に立っていた。

「大根を採りに来ただ」

真冬の、何も植わっていない畑で、ばあちゃんはそう言って笑っていた。

その笑顔が、なぜだか俺にはこたえた。

家に連れ帰る道々、ばあちゃんの手は氷のように冷たかった。

その手を、俺は両手で包んだまま歩いた。

季節がひとつ巡るごとに、ばあちゃんの中から人の名前が消えていった。

親父のことは「兄さん」と呼び、母のことだけは最後まで「母ちゃん」と呼んだ。

そして俺は、会うたびに違う誰かにされた。

ある日は電気屋、ある日は隣の集落の子、そしてこの冬は、毎朝決まって郵便屋になった。

母はそのたびに台所でそっと目元を拭っていたが、俺の前では決して泣かなかった。

「忘れていくのも、本人がいちばん怖いんだと思うよ」

母は、味噌汁をよそいながら、ひとりごとのようにそう言った。

「だから、訂正しなくていい。ばあちゃんが今いる場所に、こっちが合わせてあげればいいの」

その言葉に、俺はただうなずいた。

塩のきついおにぎり

俺が小さい頃、ばあちゃんはいつも手が荒れていた。

畑と漬物と、雪かきで、指の節がごつごつと太かった。

その手で握ってくれたおにぎりは、いつも少し塩がきつくて、海苔がぱりぱりだった。

幼稚園から帰ると、ばあちゃんは決まって縁側で繕い物をしていた。

俺の膝の破れたズボンを、何度でも縫い直してくれた。

継ぎ当ての布は、いつも違う柄だった。

同じ布で揃えればいいのに、と子どもながらに思っていた。

あとで母に聞いたら、わざと違う布を当てていたのだという。

「そのほうが、蓮が自分のだって分かるでしょう」

熱を出した夜は、冷たい手のひらをずっと額に当てていてくれた。

「蓮は元気がいちばんだあ」

それが口ぐせだった。

祭りの晩には、決まって俺の手を握って、人混みの中をゆっくり歩いた。

はぐれないように、と、その手は驚くほど強かった。

その口ぐせを言う相手も、その手を握る相手も、もう俺だとは分からなくなっている。

赤いポストまで歩いた日

あの絵はがきのことを、俺は工房で、少しずつ思い出していた。

幼稚園の年少のとき、敬老の日に絵を描く時間があった。

先生が「おじいちゃんやおばあちゃんに、ありがとうを描きましょう」と言った。

俺は迷わず、ばあちゃんと手をつないでいる絵を描いた。

字はまだほとんど書けなくて、先生に一文字ずつ教わった。

「げ」がどうしてもうまく書けなくて、点の数を何度も間違えた。

だからあのはがきの「げ」には、点が三つもついているのだ。

書き終えたあと、俺は自分の足で、近所の赤いポストまで歩いた。

背伸びをして、両手で、その一枚を投函口に押し込んだ。

届きますように、と思ったかどうかは、もう覚えていない。

ただ、指を離したときの、ことん、という音だけを覚えている。

誰を待っているのか

ばあちゃんは、若い頃に連れ合いを亡くしていた。

俺が生まれるずっと前のことで、じいちゃんの顔を俺は写真でしか知らない。

女手ひとつで親父を育て、畑を守り、この家を守ってきた人だった。

そのばあちゃんが、近頃はよく、縁側で誰かを待つように外を見ている。

「誰を待ってるの」と聞くと、決まって首をかしげる。

「さあねえ。誰だったかねえ」

忘れたことすら、もう忘れてしまっているのだった。

それでも、雪の日の午後だけは、決まって玄関のほうを見る。

郵便が来る時間だ、と母が教えてくれた。

この土地の配達は、雪の日は決まって午後になる。

体は、頭より正確に覚えていることがあるらしい。

蓋を撫でてから開ける

ばあちゃんには、ひとつだけ、忘れずに続けている動作があった。

座布団の下から小さな箱を出してくるときだ。

ばあちゃんは、箱の蓋を開ける前に、必ず一度、蓋の上を手のひらで撫でた。

ゆっくりと、右から左へ。

そのあとで、指を掛けて、蓋を持ち上げる。

俺は長いこと、それを埃を払っているのだと思っていた。

大事なものだから、丁寧に扱っているのだろう、と。

箱は、樺細工だった。

桜の皮の、黒みがかった飴色で、長い年月に磨かれて、しっとりとした艶があった。

ただ、工房で作られる箱とは、どこか違っていた。

どこが違うのか、その頃の俺には、まだ言葉にできなかった。

ばあちゃんの中の孫

その日も俺は、いつものようにお茶を運んだ。

ばあちゃんは座布団の上で、ちんまりと膝を抱えて座っていた。

湯呑みを差し出すと、また「郵便屋さん、ご苦労さまです」と頭を下げた。

俺は黙って隣に腰を下ろした。

窓の外では、雪が音もなく降り積もっていた。

ばあちゃんは湯呑みを両手で包み、ふいにぽつりと話し始めた。

「うちにもね、孫がいるんですよ」

湯気の向こうで、ばあちゃんの目がやわらかく細くなった。

「蓮ってね、それはそれは可愛い子でね。小さい頃は、ばあちゃんばあちゃんって、後ろをついて回ってねえ」

俺は湯呑みを持つ手に、力が入るのが分かった。

「でも、大きくなったらすっかり来なくなってねえ。忙しいんだろうねえ。元気にしてるかねえ」

目の前にいる俺に、ばあちゃんは、来なくなった俺の話をしていた。

俺は、何も言えなかった。

ここにいるよ、と言いたかった。

毎朝お茶を運んでいるのは、その蓮だよ、と。

けれど言葉にしてしまえば、ばあちゃんの中のやさしい景色を壊してしまう気がした。

忘れられているのは確かに寂しい。

けれど、ばあちゃんの中で、俺はまだ可愛い孫のままなのだ。

だから俺は、郵便屋のまま、ただうなずいていた。

点が三つある「げ」

ばあちゃんは、座布団の下にそろそろと手を入れた。

いつもの箱だった。

蓋を手のひらでひと撫でして、それから、両手で大事そうに開けた。

「これね、その子からもらった宝物なんですよ」

中に入っていたのは、すっかり色のあせた一枚の絵はがきだった。

クレヨンで、人がふたり描いてある。

大きな丸い顔の隣に、小さな丸い顔。

手と手が、はみ出しそうなほど太い線で、しっかりとつながれていた。

その下に、ひらがなが並んでいた。

「ばあちゃん いつまでも げんきでね」

幼稚園の年少だった俺が、敬老の日にばあちゃんへ送ったものだった。

「く」の字が裏返しで、「げ」の点が三つもあった。

俺は、こんなものを送ったことすら、すっかり忘れていた。

送った本人が忘れていたものを、もらった人が、こんなにも大切に持っていた。

ばあちゃんは、その下手くそな字を、指でそっとなぞった。

何度も、何度も、撫でるようになぞった。

名前も、顔も、年月も、ほとんど忘れてしまったばあちゃんが。

この一枚だけは、座布団の下に隠して、毎日触れていたのだ。

「ねえ郵便屋さん。もし蓮に会うことがあったら、伝えてくださいな」

ばあちゃんは、はがきを胸に抱いて、ほほえんだ。

「ばあちゃんは、いつまでも元気だよって」

俺は「はい、必ず」とだけ答えて、立ち上がった。

そのまま茶の間を出て、誰もいない工房まで歩いた。

削りかけの皮の前で、俺は肩を震わせて泣いた。

体じゅうの水分が、全部こぼれてしまうくらい泣いた。

手の甲に、ぽたぽたと滴が落ちた。

その手は、いつかのばあちゃんの手に、少しだけ似てきていた。

継ぎ目が正面にある箱

翌日、俺は工房で、親方にあの箱の話をした。

樺細工の箱が、うちの座布団の下にあること。

ばあちゃんが、蓋を撫でてから開けること。

親方は、しばらく手を止めずに聞いていたが、ふいに顔を上げた。

「その箱、継ぎ目はどこに来とる」

俺は、答えられなかった。

「うちの箱はな、皮の継ぎ目は、必ず後ろか、脇に回す。正面には出さん」

「正面に継ぎ目のある箱は、うちからは出ん」

その晩、俺はばあちゃんが眠るのを待って、箱を借りた。

灯りの下で見ると、継ぎ目は、はっきりと正面にあった。

しかも、わずかに段差になって浮いている。

指の腹を当てると、確かに引っかかる。

俺は、その段差を、上から下へなぞった。

撫でていたのは、埃ではなく、継ぎ目の段差だった。

ばあちゃんは、目が見えにくくなってからも、この段差を探して、そこに指を掛けていたのだ。

皮 一枚 ハツ

次の日、俺は親方に、箱を持っていった。

親方は箱を裏返し、底を透かして見て、それから低い声で言った。

「素人の仕事だ」

「膠の量が多い。だが、剥ぎは、うちの誰より上手い」

親方は奥の棚から、古い帳面を出してきた。

紙が飴色になって、めくると乾いた音がした。

その中ほどに、五十年以上前の日付で、一行だけ書いてあった。

「皮 一枚 ハツ」

ハツ、というのは、ばあちゃんの名前だった。

「昔はな、女は皮剥ぎまでだ。貼りはさせてもらえん」

「うちのじいさんの代の話だがな」

親方は帳面を閉じて、それを俺の手に戻した。

「一度だけ、貼らせてもらったんだろうな」

ばあちゃんが生涯でただ一つ自分の手で貼った箱に、俺のはがきが入っていた。

継ぎ目が正面に来てしまったのは、素人だったからだ。

けれどその失敗が、五十年後に、目の悪くなった本人を助けていた。

俺は工房の隅で、しばらく箱を持ったまま座っていた。

郵便が来るたびに

後日、近所のおばさんが、昔のばあちゃんの話を聞かせてくれた。

「あんたのばあちゃんはねえ、郵便が来るたびに、あの箱を出してきてねえ」

「これは孫からの宝物だって、配達のお兄さんにまで見せて回ってたんだよ」

俺は、はっとした。

だからばあちゃんは、俺を郵便屋だと思ったあの朝に、いちばんにあの箱を開けたのだ。

郵便屋にだけは、どうしても見せたかったのだろう。

忘れてしまった頭の奥で、その習慣だけが、静かに息づいていた。

おばさんは、それから思い出したように付け足した。

「あの、げの点が三つあるでしょう。あれが可愛いって、いつも数えてたよ」

「三つあるから、うちの蓮のだって分かるんだ、って」

下手だったから、見分けがついた。

継ぎ目が正面に出てしまったから、指が掛かった。

うまくできなかったものばかりが、いちばん長く役に立っていた。

端材の桜で額を作る

それから俺は、仕事の合間に、小さな額を作り始めた。

あの絵はがきを、これ以上あせさせたくなかった。

親方に頼んで、山桜の皮を一枚分けてもらった。

削り、木地を組み、薄いガラスを嵌める溝を彫った。

皮を貼るとき、俺はわざと、継ぎ目を正面に持ってきた。

親方は横目でそれを見て、何も言わなかった。

ただ、通りすがりに一度だけ、「そこは、少し厚めに膠を置け」と言った。

夜、家に帰ってからも、俺は手を動かし続けた。

うまく貼れない日もあった。

指を切って、血の滲んだ絆創膏を巻いたまま、それでも削った。

ばあちゃんが繕い物を、何度でもやり直していた姿を、なぜか思い出していた。

丁寧に手を動かすことは、それだけで、誰かを想うことなのかもしれない。

年老いた家族の何気ない習慣に、ずっと後になって気づいた話としては、ドア裏の落書きも、俺には他人事に思えなかった。

看病する側とされる側の気持ちがすれ違う話なら、お母さんの看病がしたいよも、あわせて読んでほしい。

上手に、つないであるねえ

額が仕上がったのは、雪解け水が軒先を伝う頃だった。

俺は箱からはがきを取り出し、そっと額に納めた。

クレヨンの絵が、ガラスの向こうで少しだけ明るく見えた。

それを持って、俺はばあちゃんの隣に座った。

「ばあちゃん、これ」

はじめて、郵便屋ではなく、ただそう呼びかけた。

ばあちゃんは額をのぞき込み、長いあいだ、じっと見ていた。

それから、しわだらけの指で、ガラスの上の小さな手の絵を、そっとなぞった。

「……上手に、つないであるねえ」

ばあちゃんの目から、ひとすじ、静かに落ちるものがあった。

その涙が、俺のことを思い出したからなのか、俺には分からない。

分からないまま、俺はばあちゃんの手の上に、自分の手を重ねた。

その手は、もう冷たくなかった。

ばあちゃんの指が、額の縁をなぞって、正面の継ぎ目のところで止まった。

そして、そこを一度、上から下へ撫でた。

俺は息を止めた。

ばあちゃんは、何も言わなかった。

ただ、ゆっくりとうなずいた。

いつまでも元気でね

額は今、ばあちゃんの枕元に置いてある。

目が覚めるたび、ばあちゃんはまずそれを見る。

誰が描いたのか、もう分からないのかもしれない。

それでも、つながれた手の絵を見ると、ばあちゃんは決まって、やわらかくほほえむのだ。

忘れていくことは、きっと、ひとつずつ手を離していくことなのだと思う。

名前を離し、顔を離し、季節を離し、それでもばあちゃんは、あの一枚だけは離さなかった。

人がいちばん深いところに仕舞っておくものは、名前でも顔でもないのかもしれない。

誰かに大切にされた、その温もりのほうなのだと思う。

親方の言葉を、また思い出す。

樺は、剥いだ人の手を覚えている。

きっと人の心も、同じなのだ。

翌朝も俺は、お茶を運ぶ。

「郵便屋さん、ご苦労さまです」と頭を下げるばあちゃんに、今日も俺は、はいと答える。

そうしてまた、箱の蓋がひと撫でされるのを、隣で静かに待つのだ。

いつまでも元気でね、と、今度は俺のほうが、心の中でつぶやきながら。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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