銀の指輪の重さ

夕暮れの村道と花の枝

三年ぶりに帰った。それだけのことなのに、玄関の前で少し躊躇してしまった。

愛媛の漁村。祖母が一人で暮らす、古い木造の家。軒先には洗濯物が揺れていて、磯の匂いが海の方から絶えず流れてきた。チャイムを鳴らすと、しばらくして廊下をゆっくり歩いてくる足音が聞こえた。

「あら、来たんか」

引き戸が開いて、祖母が立っていた。背が少し縮んでいた。顔の皺が、三年前より深くなっていた。でも目だけは変わっていなかった。細くて、黒くて、何かをじっと見るような目。

「遅かったね」と、それだけ言って、祖母は台所の方へ向かった。

責める言葉でも、さみしいという言葉でもなかった。ただ「遅かった」という、事実の確認。それが余計にこたえた。

家の中は、ほとんど変わっていなかった。

縁側の向こうに小さな庭があって、祖父が生前に植えた梅の木がある。花の季節はとうに過ぎていて、今は青い葉ばかりだった。仏壇の写真は、昔と同じ角度で飾られていた。祖父が五十代のときに撮ったものだと、以前に聞いた覚えがある。

荷物を置いて台所へ行くと、祖母がすでに夕食の支度を始めていた。鍋に出汁を張り、魚をさばいていた。手が動くたびに、包丁がリズムよく鳴った。

「手伝おうか」と声をかけると、「ええよ」と祖母は背を向けたまま答えた。

断られたのか、許可されたのか、よくわからなかった。でも祖母の手はずっと止まらなかったから、そのまま椅子に座って眺めることにした。

窓の外が橙色に染まっていった。台所には魚を煮る匂いが広がって、子どもの頃にここへ来るたびにかいでいた匂いと、まったく同じだった。

祖母の手が動くたびに、何かが光った。

左手の薬指に、銀の指輪があった。細くて、シンプルな指輪。飾り気はなかった。でも光の当たり方によって、やわらかく輝いた。

「おばあちゃん、その指輪、ずっと着けとるね」

思わず口に出ていた。祖母は手を止めずに、ちらと指輪を見た。

「ああ、これか」

少し間があった。

「おじいさんがのう」と、祖母はゆっくり言った。「漁師やった頃に、五年かけて貯めてくれた金で買うてくれたんよ」

五年。

その数字が、妙に頭に残った。

「買うてくれた時、うちの手がこんなに震えてのう」と祖母は笑った。「あんな細い指輪やのに、もったいないと思うてな。結婚式の日でもないし、誕生日でもない、ただの普通の秋の日に渡されてな。『今日買うてきた』って、それだけ言うて」

祖父は饒舌な人ではなかったと聞いている。無口で、朝早く海へ出て、夕方に帰ってくる。それだけの人だったと。

「外さんかったん?」と、私は聞いた。

「外したことなどないよ」と、祖母は静かに言った。「もう五十年近くになるか。ずっとつけとった。台所でも、畑でも、寝る時も」

夕食は二人で食べた。魚の煮付けと、豆腐の味噌汁と、漬けものだけのシンプルな献立だった。祖母の箸の進み方が、ゆっくりだった。以前より食べる量が減っていた。

「たくさん作ったな」と私が言うと、「あんたが来るからね」と祖母はそれだけ言った。

私はうまく返せなかった。

食事の間、祖母はあまり喋らなかった。私も言葉を探したが、うまく出てこなかった。テレビもつけていなかったから、箸の音と波の音だけが聞こえた。

夜になると、風が出てきた。磯の匂いが強くなった。祖母が「明日は雨かもしれん」と窓の外を見て言った。空は雲に覆われていて、星は見えなかった。

「ここ、さみしくないか」と、私は聞いてしまった。

祖母は少し考えるように黙った。それから、「なんでやろな。さみしいとは思わんよ」と言った。「毎日、ここにおって、ご飯作って、庭の草でも抜いておると、それでもう一日が終わるんよ」

それだけだった。でもその言葉には、私が想像しているよりはるかに深いものが含まれているような気がした。

翌朝、早くに目が覚めた。

台所へ行くと、祖母がすでに起きて、お茶を飲んでいた。縁側の方を向いて、庭を眺めていた。梅の木の枝が風に揺れていた。

「起きとったんか」と祖母が言った。

「うん」と私は答えて、隣に座った。

二人でしばらく庭を見ていた。祖母は何も言わなかった。私も何も言わなかった。でも不思議なことに、それが苦しくなかった。台所の匂いと、海の音と、梅の木のそよぎだけが、朝の空気に混じっていた。

昼前のバスで帰ることを告げると、祖母は「そうか」と言った。引き留めもしなかった。「気をつけてな」と、それだけ。

玄関で靴を履いていると、後ろから祖母の足音がした。振り向くと、祖母が両手を前で重ねて立っていた。指輪が、廊下の光の中で光っていた。

「また来るよ」と私は言った。

「ゆっくりでええよ」と祖母は言った。「忙しいんやろ」

ゆっくりでええ、という言葉が、頭の中でずっと響いた。

バス停まで歩いた。祖母は途中の角まで来て、「ここでええ」と立ち止まった。

バスが来るまで、私は振り返らないようにしていた。でも乗り込む直前に一度だけ振り返った。祖母は角にまだ立っていて、こちらを見ていた。手は振っていなかった。ただ、そこに立っていた。

バスのドアが閉まった。

窓から見える景色が動き出した。祖母の姿が小さくなって、曲がり角の向こうへ消えた。

電車に乗り換えて、松山へ向かう頃に雨が降り出した。祖母の言った通りだった。窓に水の筋が流れていくのを見ながら、指輪のことを考えた。

雨が窓を打つ音は、穏やかだった。車内に人はまばらで、誰も喋っていなかった。

五年かけて貯めた、とだけ言っていた。それ以上の説明はなかった。祖父も、「今日買うてきた」とだけ言った。それだけだった。

なのに、五十年が経った。

祖母はその指輪を外したことがない、と言った。台所でも、畑でも、寝る時も。それは習慣なのか、それとも祖父への言葉のない返事なのか、私にはわからなかった。でも、五十年間ずっと同じ指に光り続けてきた銀の輪の重さは、もう指輪そのものの重さではないような気がした。

何かをずっと守り続けることは、何かを言い続けることに似ている。声には出さなくても、そこにあることで、伝わり続けるものがある。祖父と祖母の間では、きっとそれが五十年分積み重なっていた。

私は三年間、電話すらろくにしなかった。

それを、今さら恥ずかしいとは思わなかった。ただ、もったいなかったと思った。あの台所にいた時間も、縁側で庭を眺めた朝も、バス停まで一緒に歩いた道も。もっとたくさんあってよかったのに、と思った。

東京の駅についたのは、夜の九時過ぎだった。

改札を出て、まず鞄の中のスマートフォンを取り出した。着信はなかった。メールも来ていなかった。

祖母の電話番号を開いた。

呼び出し音が三回鳴って、「はいよ」という声が聞こえた。

「着いたよ」と私は言った。

「そうか」と祖母は言った。

それだけだった。でも祖母の声は、朝と同じ声だった。静かで、穏やかで、変わらない声。

「また来るよ」と私はもう一度言った。

「ゆっくりでええよ」と、祖母はまた同じ言葉で返した。

電話を切って、駅前の人混みの中に立ったまま、少しだけ空を見上げた。雨は東京にはまだ来ていなかった。星は見えなかったけれど、空が思ったよりも明るかった。

次に帰るのは、三年後にはしないようにしようと思った。それだけは、決めた。

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