
結婚当初、私は姑とどうも噛み合わず、会うたびに気疲れしていました。
意地悪されることはありませんでしたが、気さくでよく笑う実母と違い、姑は長年看護士として働いてきたせいか、感情を表に出さず、シャキシャキと黙々と動く人でした。
「私はあまり好かれていないのかもしれない」そう思いながら、当たり障りなく付き合っていたのです。
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その年、私は秋に二人目を出産したため、混雑を避けて一月中旬に帰省することになりました。
早朝、今まで感じたことのない大きな揺れと衝撃に襲われました。阪神淡路大震災でした。
夫と舅が朝釣りに出るためのお弁当を姑と作っていた私は、立つこともできずに座り込みました。
食器棚が開き、次々と皿やグラスが落ちてきます。名前を呼ばれた気がして目を開けると、姑が私を庇うように覆いかぶさっていました。
その腕も肩も頭も血で滲んでいました。
そこへ夫と舅が子どもたちを抱えて飛び込んできて、私たちを廊下へと連れ出しました。
歪んでなかなか開かない玄関をようやく開けると、街の景色は一変していました。
マンションの高層階にある義実家はエレベーターが停まり、階段にはヒビが入っていました。余震が続き、廊下の壁にも大きな亀裂が走っていきます。
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「あなたたちは早く逃げなさい!」
姑は部屋に戻り、私たちの上着やマフラーを持って来ました。
「お義母さんは?」と泣きながら聞くと、「後で逃げるから、早く!」と恐い顔で言いました。
足が悪く、階段で逃げられない自分は足手まといになると思ったのでしょう。
夫が姑を背負おうとすると、姑は夫を叩きました。
「あんたの守るのは子どもと嫁!産後で完全じゃない嫁と、幼子二人を守ることだけ考えなさい!」
血だらけの手で私の髪を撫で、「ごめんね。帰省させなきゃ良かったね」と笑ったのです。
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結局、舅が姑を連れて後から逃げると説得し、私たち夫婦は子ども二人を抱えて先に階段を下りました。
避難所で姑と再会できたとき、私は安堵のあまり「おうおう」と言葉にならない声を上げて泣きながら抱きつきました。
マンションは数日後に全壊しました。
再会して気づいたのは、姑が持ってきてくれたのは私たち家族の上着だけで、自分はセーターにエプロン姿のままだったこと。
最初から自分だけ逃げないつもりだったと知り、涙が止まりませんでした。
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震災の影響で母乳が出なくなったり、出ても詰まったりして激痛に耐えていたとき、姑が泣きながらマッサージを手伝ってくれました。
「熱を持ってるね。痛いね。でも出さないともっと痛くなる。代わってあげられなくてごめんね」
姑は看護士としての知識を活かし、避難所では「ブランクがあるから知識は古いけど」と言いながらも、周りを助け、励ましていました。
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あの時赤ん坊だった下の子は、もう高校生です。舅はすでに他界しました。
福島の震災を見るたびに、私はあの阪神淡路大震災の記憶を思い出してしまいます。
今も姑はあまり喜怒哀楽を表に出しませんが、何を考えているかは自然と分かるようになりました。
ありがとう、お義母さん。あの時、血だらけで私を守ってくれたあなたを、私は決して忘れません。