医師になって二年目の冬、私は瀬戸内の造船の町にある総合病院で救急当直に就いていました。
二月の夜でした。海から吹き上げる風に細かい雪が混じり始め、救急外来の自動ドアが開くたび、潮の匂いと粉雪の冷たさが廊下の奥まで流れ込んで来ます。
町の斜面には造船所の巨大なクレーンが並び、夜はその赤い航空灯だけが、雪空の下でゆっくり瞬いていました。
進水式の日には学校が半日で終わり、町中が岸壁に集まる。そういう土地柄でした。
病院の待合室にも、造船所の名前の入った作業帽を被ったままのお年寄りが、よく座っていました。
船を造る手と、船を送り出す町。私はこの土地の救急外来で、医師としての最初の冬を過ごしていました。
研修医としての私は、正直に言えば、まだ「人の死」との向き合い方が分からないままでした。
教科書は死亡確認の手順を教えてくれます。瞳孔の確認、心音の聴取、時刻の宣告。
けれど、その傍らに立ち尽くす遺された人へ何を言えばよいのかは、どの教科書にも書いてありませんでした。
その年の初め、初めて受け持ちの患者さんを亡くしたとき、私はご家族に頭を下げることしかできませんでした。
「先生、ありがとうございました」と逆に労られて、更衣室で一人、しばらく動けなかったのを覚えています。
当直明けの朝、医長にそのことを打ち明けると、医長は白衣のポケットに手を入れたまま、短くこう言いました。
「言葉が見つからん夜は、無理に探さんでええ。ただ、最後まで丁寧に居なさい」
居なさい、という言い方が、若い私には不思議に響きました。
処置をしなさいでも、説明をしなさいでもなく、居なさい。
その意味を本当に理解するのは、もう少し先のことになります。
だからでしょうか。あの二月の夜のことを、私は今も折に触れて思い出します。
医師としての私の背骨を作ってくれた夜だったと、年月が経った今では、はっきりそう思うのです。
※
日付が変わる少し前、ホットラインが鳴りました。
「八十八歳男性、心肺停止。自宅居間で倒れているのを、買い物から戻った奥様が発見──」
受け入れ準備を整えるあいだも、窓の外の雪は少しずつ濃くなっていました。
点滴のルート、挿管の準備、モニターの電極。手順は身体が覚えていても、心拍の戻らない高齢の方を迎える夜は、いつも処置室の空気が少し重くなります。
サイレンの音が近づき、救急車の後部扉が開いたとき、ストレッチャーの上の老人は、すでに瞳孔が開き切っていました。
医学的には、その場で死亡確認ができる状態でした。
長くこの町の造船所で船大工をしていた方だと、後から知りました。
節くれ立った大きな手。日に焼けて茶色く朽ちたような身体。
そこに、パリッと糊の利いた白いシャツだけが、不釣り合いなほど真っ白に光っていました。
処置の邪魔になるため、シャツは鋏で切り開かなければなりませんでした。
「ご容赦ください」と断ると、奥さんは首を横に振りました。
「構いません。……ただ、切れ端だけ、うちにもらえますか」
看護師が畳んで手渡した白い布切れを、奥さんは両手で包み、胸に当てました。
そのときはまだ、そのシャツの意味を、私たちは誰も知りませんでした。
付き添って来たのは、八十四歳になる奥さんでした。
腰は深く曲がり、ストレッチャーの柵に掴まっていなければ立っていられないほど小さな身体で、それでも取り乱した様子はありませんでした。
「居間でテレビを視とったんです。うちが買い物から戻ったら、もう、息をしとらんで」
長く肺気腫を患っていたこと。かかりつけ医からは、いつ心臓が止まってもおかしくないと言われていたこと。
奥さんは途切れ途切れに、しかし丁寧に話してくれました。
「救急車の中でも、隊員さんがずっと胸を押してくれとりました。ありがたいことです」
自分の夫が生き返るかどうかという瀬戸際で、まず人へ礼を言う人でした。
その姿に、私は胸の奥が軋むような感じを覚えました。
当直の医長は静かに頷くと、私に胸骨圧迫を指示しました。
正直に書きます。それは蘇生のためというより、奥さんが夫の死を受け容れるまでの、祈りに似た手続きでした。
モニターの電子音。アンビューバッグの規則正しい呼吸音。消毒液の匂い。
その場にいる誰もが、奥さんの口から「もう結構です」という言葉が出るのを、静かに待っていました。
救急の現場では、決して珍しくない光景のはずでした。
少なくとも、その時までは。
※
五分ほど経った頃だったと思います。
それまで俯いて夫の顔を見つめていた奥さんが、ゆっくりと顔を上げました。
何かを決めた人の目でした。
奥さんが、壁伝いによろよろと、圧迫を続ける私の傍らへ歩いて来ました。
処置の邪魔になってはいけませんと、看護師が支えようとした手を、奥さんはやんわりと押し返しました。
そして、私の手元をじっと見つめてから、深々と頭を下げて言ったのです。
「先生、すまんことです。うちの人の心臓じゃけぇ、最後はうちの手で動かさせてつかぁさい」
一瞬、自分の耳を疑いました。
圧迫の手を止めそうになり、私は慌てて医長を振り返りました。
三十年近く救急に立ち続けたという医長も、さすがに驚いた顔をしていました。
こんな申し出は初めてだと、後で医長自身も言っていました。
けれど、ほんの少しの沈黙のあと、医長は一言だけ、はっきりと言いました。
「教えて差し上げなさい」
看護師が急いで足台を運んで来ました。
台に上がった奥さんの手を取り、私は胸骨の位置にそっと重ねました。
指先が、氷のように冷たかったのを覚えています。
雪の夜に、上着も羽織らず救急車に飛び乗って来た手でした。
「ここに手のひらの付け根を当てて、肘を伸ばしたまま、真下に押します」
「一分間に百回。想像されるより、ずっと速くて、ずっと強くです」
「胸の骨が軋むかもしれません。それでも、やめずに押し続けてください」
「骨のことなら、心配は要りません。この人の身体のことは、うちがいちばんよう知っとりますけぇ」
「よう分かりました。……これで、良ぇんですか」
弱々しくはあるけれど、驚くほど正確なリズムでした。
「お上手です。それで結構です」
私がそう答えると、奥さんは満足そうに頷いて、なんと微笑みさえ浮かべたのです。
そして、小さな身体で夫の胸を押しながら、語りかけを始めました。
※
「お父さん。あんたは、なぁんも自分のことができん人じゃったねぇ」
「靴下の場所も、薬の時間も、寄り合いの日取りも、みぃんなうちが覚えとった」
「しまいにゃ心臓まで、うちが動かしちゃらんといけんようになって。ほんに、世話の焼ける人よ」
圧迫のリズムに合わせて、言葉が波のように寄せては返します。
「じゃけど、うちは幸せじゃった。楽しかったんよ」
「覚えとる? あんたが初めて棟梁に任された船の進水式。前の晩から一睡もできんで、うちに何べんもお茶を淹れさせて」
「緊張しすぎて、塩と砂糖を間違えるんじゃもん。あんな塩辛いお茶、うちは後にも先にも飲んだことなかったわ」
「進水式の朝、あんたの背中がいっとう大きゅう見えたこと、うちは今でも覚えとるよ」
「所帯を持ったばっかりの頃は、二人とも若うて、お金もなかったねぇ」
「六畳一間の社宅で、あんたの給料日にだけ、二人で鯛焼きを一つ買うて、半分こしたわ」
「あんたはいっつも、頭のほうをうちにくれた。自分は尻尾が好きじゃ言うて。……嘘ばっかり」
「ほんまは、餡子の詰まっとるほうを、うちに食べさせたかっただけじゃろう」
聞いているうちに、モニターの音も、雪の夜も、遠くなっていくようでした。
処置室は、いつの間にか、二人が六十年を過ごした居間になっていました。
見合いの席で夫が緊張のあまり一言も喋らなかったこと。
喧嘩をして三日口をきかず、それでも弁当だけは毎朝手渡していたこと。
娘さんの嫁入りの日、二人きりになった縁側で、夫が初めて「ありがとう」と言ったこと。
「あんた、不器用じゃけぇ、言葉はいっつも足りんかった。じゃけど、うちが熱を出した晩は、朝まで枕元におってくれたねぇ」
「台風で船が心配な夜も、うちが怖がりよるほうを先に案じてくれた。あんたはそういう人よ」
「定年で道具を置いた日、あんた、うちの湯呑みをこさえてくれたじゃろう。木を削って、つるつるになるまで磨いて」
「不格好じゃけど、うちの手にいっとう馴染む湯呑みよ。あれで毎朝お茶を飲むたび、うちはあんたの手ぇを思い出しよった」
船大工の手が最後に作ったものが、軍艦でも漁船でもなく、妻の小さな湯呑みだったこと。
私はそれを、処置室の隅で聞いていました。
六十年分の暮らしが、皺だらけの小さな手から、止まった心臓へ流し込まれていくようでした。
私はその傍らで、ただ立っていることしかできませんでした。
何が始まったのかと、他の処置台の看護師たちも集まって来ていました。
そのとき、医長が黙って片手を挙げ、出口を指しました。
全員、外へ。言葉はなくても、意味は明らかでした。
アンビューバッグを押していた看護師が、そっと手を止めて一礼しました。
私も、奥さんの小さな背中に頭を下げて、処置室を出ました。
扉が閉まる寸前、細い声が聞こえました。
「ほら、お父さん。今はうちと、あんたの二人きりよ」
※
廊下は、静かでした。
誰も口を開きませんでした。
医長は腕を組んで壁にもたれ、目を閉じていました。
扉の向こうから、途切れ途切れに、歌のような、子守唄のような声が漏れ聞こえて来ます。
窓の外では、クレーンの赤い灯りの周りだけ、雪が舞っているのが見えました。
私はそのとき、自分がこれまで「死亡確認」と呼んでいたものについて、考えていました。
心停止。瞳孔散大。対光反射の消失。
けれど、人がほんとうに旅立つ時刻は、心電図の波形ではなく、遺された人の心が決めるのかもしれない。
医療機器が全て沈黙したあとの病室で、あの小さな手だけが、まだ夫を送る仕事を続けている。
それを「無意味な処置」と呼ぶ言葉を、私は持ち合わせていませんでした。
蛍光灯の白い光の下で、十分あまりが、とても長く、とても静かに過ぎて行きました。
隣に立っていた年配の看護師が、目元を押さえているのが分かりました。
彼女は後で、こう言っていました。
「うちらは何百人も看取って来たけど、あんなふうに送ってもらえる人は、初めて見た」
誰かの一生の終わりに、あれほど似合いの幕引きがあるだろうかと、私も思いました。
やがて、扉が内側から開きました。
奥さんは足台を降り、乱れてもいない襟元をきちんと直してから、廊下に並ぶスタッフ一人ひとりに、深々と頭を下げました。
「ご迷惑をお掛けしました。……もう、結構です」
目元には涙の跡が残っていました。
それでも、その顔に浮かんでいたのは、確かに微笑みでした。
医長が処置室に入り、静かに死亡を確認しました。
時刻を告げる医長の声は、心なしか、いつもより柔らかく聞こえました。
奥さんは夫の額に手を当てて、長いあいだ、そのままじっとしていました。
「お疲れさんじゃったね、お父さん」
それは死亡宣告というより、長い航海を終えた船を岸壁に迎える、船大工の女房の挨拶のように聞こえました。
あの真っ白なシャツは、その日の夕方、奥さんがアイロンを当てたばかりのものだったそうです。
「うちの人、明くる日は町内の寄り合いに行く言うとったんです。ええ格好しぃじゃけぇ、シャツだけは毎晩、枕元に揃えとらんと気が済まんの」
毎晩、寝る前に翌日のシャツへアイロンを当てる。それが六十年続いた、奥さんの日課だったのだそうです。
糊の利いた白いシャツは、この夫婦の暮らしそのものでした。
帰り際、看護師に支えられながら、奥さんは少しだけ笑って、そう教えてくれました。
霊安室へ向かう夫の傍らを、奥さんは最後まで、自分の足で歩いて行きました。
エレベーターの前で、奥さんは一度だけ振り返り、窓の外の雪を見ました。
「この人と初めて会うた日も、雪じゃった」
独り言のような、その一言だけを残して。
※
ひと月ほど経った頃、救急外来に一通の封書が届きました。
宛名は「救急外来の皆さま」。差出人は、あの奥さんでした。
四十九日を無事に終えたという報告と、丁寧なお礼の言葉が、震えるような細い字で便箋二枚に綴られていました。
手紙には、あの晩のことも書かれていました。
皆さんが部屋を出て二人きりにしてくださったこと。あの十分間で、六十年分の話がぜんぶできたこと。
「言い残したことは、何もありません。あの人も、きっとそうじゃと思います」
結びの一文を、私は今も忘れることができません。
「あの晩、この手に残ったお父さんのぬくもりが、これからのうちの杖になります」
医長はその手紙を全員に回覧したあと、記録棚のいちばん上の引き出しに、そっとしまいました。
「迷ったら、読み返しなさい」
それだけ言って、あとはいつもの無口な医長に戻りました。
※
その年の春、桜が散り始めた頃に、奥さんがもう一度、外来に顔を見せてくれました。
娘さんに付き添われて、あの晩よりも少しだけ小さくなったように見えました。
「先生、あの節は。……うち、今もあの人の湯呑みで、毎朝お茶を飲みよります」
風呂敷から取り出して見せてくれたのは、飴色に使い込まれた、少し不格好な木の湯呑みでした。
縁のところに、細かい鑿の跡が残っていました。
「掌に、ようも吸い付くでしょう。この人の作るもんは、みんなこうなんよ」
私は湯呑みを両手で受け取り、その軽さと温かさに、少しのあいだ言葉を失いました。
六十年を支えた手の仕事が、そこに静かに残っていました。
「先生方には、また世話になるかもしれません。そのときは、どうぞよろしゅうに」
「はい。いつでも」
それ以上の言葉は、お互いに要りませんでした。
「お身体を大切になさってください」と、それだけをようやく伝えると、奥さんは深々と礼をして、娘さんと帰って行きました。
廊下の角を曲がるまで、その背中は、あの夜と同じようにまっすぐでした。
あれから長い年月が経ち、私も人の最期に立ち会った回数を、もう数え切れなくなりました。
今でも、蘇生を続けるべきか迷う夜があります。ご家族に掛ける言葉が見つからない朝もあります。
研修医に胸骨圧迫を教える立場になった今、私は手技の説明の最後に、必ず一つだけ付け加えることにしています。
「この手技は、心臓を動かすためのものです。けれど時々、心を送り届けるためのものにもなります」
怪訝な顔をする研修医には、いつか分かる日が来ます、とだけ答えるようにしています。
医長が私に「居なさい」とだけ言った意味が、今なら少し分かるからです。
そのたびに私は、雪の夜の処置室で足台に上がった、あの小さな背中を思い出すのです。
医療にできることには、限りがあります。
けれど、限りの先へ歩いて行く人を、その人らしく見送るお手伝いをすることも、私たちの仕事なのだと。
八十四歳の小さな奥さんが、皺だらけの手で、若い私に教えてくれました。
夫婦の最期の時間は、確かに、二人だけのものだったのです。