帳面は一寸左に寄っていた
十九で紺屋に弟子入りした私は、二十三年連れ添った兄弟子の帳面を盗み見た。九つの甕の図と、川下へ下る朝の便の時刻。黙って戻した帳面は、その日から一寸だけ左に寄って…
仕事の場所には、人の本音が宿っています。お客さんとのやりとり、先輩の背中、後輩への言葉——仕事をテーマにした泣ける話は、日常の中の人間の温かさと誠実さを描いています。「感動する話 実話」を探しているあなたへ。
十九で紺屋に弟子入りした私は、二十三年連れ添った兄弟子の帳面を盗み見た。九つの甕の図と、川下へ下る朝の便の時刻。黙って戻した帳面は、その日から一寸だけ左に寄って…
利根川べりの河岸の町で左官を続けた姉と、七つで黙ることを選んだ弟。父が最後に残した蔵の鏝絵の人影は、三つではなく四つだった——兄弟姉妹の泣ける話。六十四年後に白…
訪問理容師のわたしが十年通った丘の団地の一室。桐生さんの注文はいつも耳の上二分だけで、部屋には鏡がなかった。切り終えるたび指でカレンダーを押す仕草の意味を、わた…
教室で一年間声が出せなかった十四歳のわたしに、担任は給食の献立だけを読ませた。〈壁に読め〉と鉛筆で書かれた藁半紙。十四年後、声を失った恩師が病室で綴った一枚の筆…
昭和二十二年の秋、台風で汽車が止まり、山あいの酒蔵に二十数人が流れ着いた。米は尽きた。義父は翌年の仕込みのために三年かけて隠した一俵を釜に空け、酒造りの櫂で粥を…
昭和三十一年、離島の灯台守だった俺は、時化の海から耳の聞こえない娘・汐里を救い上げた。帳面と手話で言葉を交わすうち、島じゅうが手話を覚えていく。声にできない想い…
十七の冬、厳しい父と衝突し家を捨てた俺は、雪の北の港町で行き場を失った。飯にありつけず座り込む俺に声をかけたのは、腰に藍色の手ぬぐいをさげた老いた船頭だった。名…
昭和の港町を舞台にした泣ける話。風鈴職人の私のもとへ、海から戻らぬ父のために、泣いてばかりの母を笑わせたいという男の子が訪れた。豆粒ほどの小さな風鈴に託した祈り…
恩師との再会で明かされた、削られなかった十二色の色鉛筆。声の小さな貧しい教え子に、匿名で贈った箱を、その子は五十年、一本も削らずに守り続けていた。たった一人に見…
昭和の城下町の銭湯を舞台にした泣ける話。番台を継いだ俺が、だらしないと決めつけた路地裏の少年。先代が遺した帳面には、母を見送り独りで長湯をする子の姿が記されてい…
教壇を降りて家庭に入った私は、夕方のスーパーで四年ぶりに先生と再会した。恩師に教えた味噌汁の湯気の向こうで、あの日の「逃げるんか」が静かにほどけていく。ガリ版刷…
機械が牧場にやってきた昭和の冬、私は世話をしてきた三頭の馬を手放すことになった。最後の朝、ハナはそっと私の肩に額を押しあてた。北の開拓村で交わした別れと、今も引…
戦後すぐの山あいの貧しい村で病弱だった私の脇に、恩師の体温計を毎日挟みに来てくれた矢島先生。四十年後、記憶を失い私を忘れた先生に、私は同じ体温計で五分の検温を続…
転任前日に音楽の先生がくれた一枚の五線紙を、わたしは読まないまま忘れた。五十三歳のある日、母が熊本の実家を片付けて送ってきた文具箱の底から、その紙が出てきた。万…
昭和の終わり、北関東の城下町で三代続いた床屋を継いだ続かない俺。大叔父である先代から受け継いだ親方の革砥と、三十年分の常連カルテだけを頼りに刃を握る。嵐の朝、シ…