橋の手前で吉岡は川の側を走る
高校の2年間、毎朝7時20分に橋の手前で一緒になる同級生がいた。吉岡はいつも川の側を走り、帰りは一度も一緒にならなかった。14年後、市役所の窓口に来た1枚の転出…
好きだった人のこと、一緒にいられた時間、終わってしまった恋のこと。恋愛の話は、泣ける話の中でも特別な痛みと温かさを持っています。実話風の短編から長編まで、恋する気持ちと別れの切なさを丁寧に描いた作品を集めました。
高校の2年間、毎朝7時20分に橋の手前で一緒になる同級生がいた。吉岡はいつも川の側を走り、帰りは一度も一緒にならなかった。14年後、市役所の窓口に来た1枚の転出…
夜10時、佐渡の柿畑から届くビデオ通話。画面の中の彼は、いつも左の耳にだけ片耳のイヤホンを挿していた。聞き逃されるたびに笑い合った2年のあいだに、私は少しずつ片…
店の奥、水道の脇の白いバケツには、売り物にならないはね出しの花が挿してある。毎月14日、そこから一輪だけが消える。電話をかけてくるのは毎回ちがう人で、みんな22…
返信が途絶えた一時間後に届いた、最後の一言。病室で綴られた日記、渡しそこねた指輪、ごみ箱から見つかった手紙。恋愛の泣ける話を十八本、言えなかった言葉・遺された文…
婚約者の長い療養で結婚式をあきらめた私と、注文の止まったウェディングドレスを十一年間しつけ糸のまま守り続けた仕立て屋の物語。袖口の白い糸に隠されていた約束と、病…
十七で硝子工場に入った俺の瓶を、七つ上の検品係すずさんは毎日そっと合格の箱へ入れていた。泣ける話としてお届けする長編の感動短編。五十八年後に口の右へ寄った一本が…
毎月おなじ一行だけを刷りに来た井戸掘り職人に、活版所の文選工だったわたしは勝手な一言を足した。いらんと言われたその紙を、五十年後に見知らぬ老女が財布の奥から出す…
踵のゴムを替えて――彼はそう言って明日と笑い、明日は来なかった。義肢装具士の私が二十八年抱えた泣ける話。告別式でひとことも言葉をくれなかった彼の母と、二十八年後…
昭和のオホーツク沿岸。漁業無線局の見習い通信士だった俺は、顔も知らないまま声だけで知り合った娘に、見栄の嘘ばかりついていた。流氷が好きだと言い合った三年半の終わ…
昭和三十四年の奥能登。電気の来ない集落の分校で、十九歳のわたしは毎晩ランプの火屋を磨いていた。ようやく電線が届いた夜、村中に灯りがともるのに、分校だけが暗いまま…
夜の峠で車の救援をする私は、十一年前、恋人だった彼にひとつだけ頼まれた。峠の霧が晴れる瞬間を見てきてほしい、と。報告するたび彼が聞いたのは「何時何分?」だけだっ…
女人禁制の霊山を担ぐ強力の俺と、頂を焦がれた許婚のスズ。彼女が遺した黄楊の櫛に託された『片割れが待っている』という言葉の本当の意味を、俺は雲海の頂で知る。昭和の…
子どもは望めないと告げられた日、私は好きだからこそ、彼に別れを切り出した。けれど彼は、裏の畑に植えた二本の若木の根元に、生まれるはずだった子の名を彫った名札を、…
昭和四十四年、雪深い湯の町の写真館。療養に来た娘・佐紀さんに頼まれ、僕は毎日一枚だけ町を撮った。裏を見ないでとわたした写真の、その裏に綴られていた言葉――万華鏡…
昭和三十一年、離島の灯台守だった俺は、時化の海から耳の聞こえない娘・汐里を救い上げた。帳面と手話で言葉を交わすうち、島じゅうが手話を覚えていく。声にできない想い…