背中を押してくれた人

公開日: 心温まる話 | 戦時中の話

南国の空

仕事でどうしようもないミスをしてしまい、次の日に出勤するのがどうしても嫌で、気持ちが塞ぎ込んでいた時のことだった。

家に帰る気にもなれず、仕事帰りに普段は使わない電車に乗って、思い切って他県まで足を伸ばしてみた。

大きめの駅で降り、お腹も空いていたので、ふらりと一軒の飲み屋に入った。

サンマ定食とビールを頼み、ぼんやりとうつむいていたとき、隣に座っていたおじいさんが声をかけてきた。

「ずいぶんと暗い顔をしてるね。大丈夫かい?」

白髪混じりで髪は薄く、左目の下に古傷のあるそのおじいさんは、私のことが心配になったらしい。

最初は仕事のことなんて話しても仕方ないと思ったが、誰かに話を聞いてもらえるのが嬉しくて、つい愚痴をこぼしてしまった。

話すうちに、感情があふれて、最後には嗚咽交じりになっていた。

そんな私の背中をおじいさんは優しくさすってくれ、落ち着いたところでウーロン茶を一杯、ご馳走してくれた。

そして、静かにこんな言葉をかけてくれた。

「私が君くらいの歳の頃は、戦争中だったから、仕事の悩みなんてなかった。でもね、怖い上司はいたし、大事な部下もいたんだよ。

君が悩んでいるのは、それだけ仕事に真剣に取り組んでいる証拠だ。だからこそ自信を持ってほしい。

いつか君が部下を持ったとき、君がその部下を守れるように、今の苦しみを乗り越えてごらん」

それから彼は、戦時中の話をしてくれた。

彼は陸軍の小隊長として、ビルマ戦線に立っていたという。

地雷原を突破しなければならなかった時、「もう駄目だ」と覚悟を決めた瞬間もあったそうだ。

それでも、なんとか生き延びた――と、淡々と語るおじいさんの言葉に、私は心が震えた。

自分が「もう無理だ」と思っていたことが、恥ずかしく思えた。

そしてもうひとつ、どこかで聞いたことがある話だとも思った。

ふと、思い出して尋ねてみた。

「○川○○って名前に、聞き覚えはありませんか?」

その瞬間、彼の背筋がすっと伸び、私の顔をじっと見つめた。

「○川○○、上等兵。小銃の扱いに関しては天才だった」

私は驚いた。

その名は、私の祖父だった。

私はそのことを伝え、祖父がよく酔ったときに語っていた戦争の話を彼に聞かせた。

すると、おじいさんは首を振りながら、こう語ってくれた。

「○川上等兵はね、うちの隊で随一のスナイパーだった。誰よりも率先して危険な任務に出てくれた。あの時も…」

それは、祖父から聞いていた話と大きく異なっていた。

祖父の話では、自分は戦場で足と腹を撃たれ、仲間におぶってもらって何とか帰還した――ということになっていた。

だが、このおじいさん――小隊長によれば、祖父は部隊が地雷原に迷い込んだ際、自ら最後尾に立ち、敵の追撃を食い止めていたのだという。

その最中に被弾し、足と腹に大怪我を負った。

小隊が一時避難して地雷を除去して戻ってきた時、祖父は倒れていた。

「俺はここまでです。一発でお願いします」――と、覚悟を決めた言葉を口にしたのだという。

当時の日本兵にとって、捕虜になることは死よりも恥。

それでも彼は、祖父を見捨てることができなかった。

地雷原に再び足を踏み入れ、彼を背負って撤退した――と語ってくれた。

私は驚きと感動で言葉を失った。

祖父の語らなかった真実。あの「ドジなじいちゃん」は、本当は命を張って仲間を守った英雄だったのだ。

そして何より、その祖父と、祖父の命を救ってくれたこの人――小隊長――の再会が、今、私を通じて叶ったのだ。

「今度、祖父に会いに来てください。きっと喜びます」

そう言うと、彼は静かに笑い、「ああ、そろそろ会って酒でも酌み交わしたいね」と呟いた。

それからしばらくして、二人は再会を果たした。

歳月を越えて繋がった命と、絆。

私は、この奇跡のような縁に心から感謝している。

あの日、心が折れそうだった私を、祖父と同じように、もう一人の恩人が支えてくれた。

それは、ただの偶然ではなかったと思っている。


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