
祖父がかつて満州に渡っていたことは、家族の誰もが知っていた。けれど、終戦後にシベリア行きが決まり、仲間とともに逃亡を図ったことまでは、私たちは知らなかった。
話によれば、祖父は2、3日間、何人かの戦友とともに身を潜めて逃げていたという。しかし、人数が多いと目立ってしまうと判断し、彼らは別々に行動することにした。
その後、祖父は一人きりで一週間近くをさまよい続け、ようやく一隻の帰国船にこっそり乗り込むことに成功し、日本の土を踏むことができた。
その逃亡中、現地の中国の人々に匿ってもらい、ご飯を分けてもらったことが何度もあったそうだ。だからこそ、祖父は「中国には足を向けて寝られない」と、いつも静かに語っていた。
祖父は、戦争の話をめったにしない人だった。
その祖父がある日、突然話し始めたのは、一通の手紙がきっかけだった。あの逃亡中に別れ別れになった戦友から届いた、長い年月を越えての便りだった。
相手は、ずっと祖父が生きていることを信じてくれていた。そして、長い時間をかけて祖父の消息を探し続けてくれていたという。
その手紙を読みながら、普段は感情をあまり表に出さない祖父が、静かに、けれどはっきりと声をあげて泣いた。膝をつき、手紙を抱きしめながら、何度も何度もこぼした言葉は――
「やっと……戦争が終わった」
その姿を、私は一生忘れないと思う。
※
その頃から、祖母が私と二人きりになると、ぽろぽろと涙をこぼすようになった。私が成人してからのことで、最初はその理由が分からず戸惑っていた。
ある日、思い切って理由を聞いてみた。
すると祖母は、静かに語り始めた。
「あなたがね、戦争で亡くなった私の母に、よく似ているのよ」
私は初めて、祖母の戦争体験を聞いた。
あの頃、祖母はまだ7歳。弟を連れて、身重の母親とともに逃げていた。しかし母は、満足な食事も取れず、衰弱して病に倒れた。
そして、最後に祖母の手を握りながらこう言ったという。
「お母さんの代わりに、弟を守ってね」
そのまま、防空壕の中で息を引き取った。
残された祖母は、幼い弟を背負って県の北部から南へとひたすら歩いた。空襲を避け、米軍から逃れながら、道端で力尽きそうになりながら。
ある夜、力尽きて道に倒れていた時、ジープに乗った米兵に見つかった。殺されるかもしれないと思ったその瞬間――兵士たちは祖母たちにご飯をくれ、お菓子を分け与え、お風呂にまで入れてくれたという。
「本当に嬉しかったの。あの人たちには、もう一度会ってお礼が言いたいのよ」
そう語る祖母の目は、涙で潤んでいた。
※
祖父が中国の人々に助けられ、祖母がアメリカ兵に命を救われたこと。二人とも、決して語らなかった記憶の奥底に、人の優しさと命の重みがあった。
私が今ここにこうして生きていられるのは、祖父と祖母が、あの時代を懸命に生き抜いてくれたからに他ならない。
だからこそ、私はこれからも胸を張って生きていこうと思う。
生かされた命を、大切に守りながら。