三度、月に祈った夜

公開日: 友情 | 夫婦 | 子供 | 家族 | 悲しい話

三度目の月

俺は、これまでの人生で三度だけ、神様にすがったことがある。

最初は、七歳のとき。

両親が離婚し、俺は父方の祖父母に預けられた。

祖父母はとても厳しく、愛情というものはまるで感じられなかった。

「お前なんて、生まれてこなければよかった」

「お前のせいで、あのふたりは別れたんだ」

そんな言葉を、繰り返し浴びせられた。

夜になると、孤独と寂しさに押し潰されそうになり、布団の中で声を殺して泣くしかなかった。

ある晩のこと。

ふと、カーテンの隙間からやわらかな光が差し込んでいた。

気になってカーテンを開けると、夜空には満月が浮かび、まるでこちらを見つめているようだった。

優しく、静かに、見守るようなその光が、当時の俺には“神様”のように思えた。

月なら、何かを叶えてくれるんじゃないか。

そう信じた俺は、人生で初めて祈った。

「父ちゃんと母ちゃんと一緒に暮らしたい。神様、お願いします…」

けれど、願いは叶わなかった。

親父は、その年の正月に一度だけ顔を見せただけで、それ以降は2、3年に一度会うかどうか。

母親には、離婚以来一度も会うことはなかった。

それ以来、俺は誰かを信じることも、涙を流すこともなくなっていった。

心は、静かに凍っていった。

中学を卒業すると、俺は祖父母の家を飛び出し、住み込みで働き始めた。

厳しい環境だったが、それでも自由だった。

二十歳になったとき、こんな俺にも恋人ができた。

やがて結婚し、彼女は俺の妻となった。

彼女は、俺が初めて心から信じることのできた人だった。

優しく、強く、あたたかい人だった。

そして、ふたりの間に子どもが生まれた。

けれど──

我が子は、左の手足や内臓が未発達という重い障害を抱えていた。

医師に言われたのは、残酷な一言だった。

「持って一ヶ月です」

病院の夜。

待合室でひとり、暗闇に包まれながら、俺は呆然としていた。

ふと窓の外を見ると、そこには満月が浮かんでいた。

子どもの頃に見た、あの時の月とまったく同じだった。

もう二度と流すことはないと思っていた涙が、溢れて止まらなかった。

祈るしかなかった。

「俺はどうなってもいい。だから、この子だけは助けてください」

二度目の神頼みだった。

床に頭をこすりつけ、声を殺して泣きながら、何度も何度も願った。

けれど──

願いは、またしても叶わなかった。

我が子は、生まれてからちょうど一ヶ月で、天に還っていった。

三年後。

地元の会社が倒産し、俺は関東へと働きに出ることになった。

妻は、知り合いもいない場所での暮らしに不安を感じていたため、俺は単身で上京した。

それが原因となり、寂しさやすれ違いが積み重なり、離婚することになった。

一年後、彼女が再婚したと聞き、少しだけ安心した。

俺は地元には戻らず、ひとりで関東での生活を続けていた。

ある日、偶然にも、子どもの頃からの友人と再会した。

なぜか馬が合う、唯一「友達」と呼べる存在だった。

よく殴り合いの喧嘩もしたが、気づけば一番大切な奴になっていた。

四年ぶりの再会だった。

とはいえ、心のどこかで「誰も信用できない」という気持ちは消えておらず、完全に信じていたわけではなかった。

それでも、そいつはよく俺の家に泊まるようになり、気づけばまた、日常に溶け込んでいた。

再会から一ヶ月が経った頃。

そいつは体調を崩し、熱を出すようになった。

何度も「病院に行け」と言ったが、病院嫌いの彼は聞く耳を持たなかった。

ある日、久しぶりに「今日は自分の家に帰る」と言って去った。

翌日、病院から電話がかかってきた。

自宅の前で倒れていたらしい。救急車で搬送されたという。

病院へ駆けつけると──診断は、末期の癌だった。

すでに全身に転移していて、「持って半年」と告げられた。

四年前、そいつの身体にはこぶのような腫れができていた。

それが癌だったらしい。

もし、あの時に病院に連れて行っていれば──助かったかもしれないと医者は言った。

病院嫌いのあいつを、無理にでも連れて行けるのは俺しかいなかった。

「すまん」と、泣きながら謝った。

あいつは、笑って「お前、馬鹿か」と言った。

仕事が終わると、毎日のように病院へ通った。

ある日、病室にあいつの両親が来ていた。

「こいつ、俺の大親友なんだ」

あいつはそう言って、俺を紹介してくれた。

その言葉が、胸に刺さった。

俺なんかが──大親友だなんて。

トイレに駆け込み、情けなくて、悔しくて、声を殺して泣いた。

心から信じきれていなかった自分が、恥ずかしくてたまらなかった。

数日後のこと。

あいつは、ずっと弱音を吐かなかった。

けれど、ある夜、ぽつりとこう言った。

「まだ……死にたくないな」

そのとき、俺は何も言えなかった。

言葉が出なかった。

ただ、泣いた。

あいつも、黙って泣いていた。

二人で、夜通し泣いた。

病院を出て、空を見上げると、そこには満月があった。

何度も何度も祈ってきた、あの月だった。

俺は地面に膝をつき、手を合わせた。

「もう、願いごとはしません。どうかお願いします」

「俺の命と引き換えでいい。あいつを助けてください」

三度目の神頼みだった。

それでも──願いは、届かなかった。

あいつも、逝ってしまった。

それから、数年が過ぎた。

今、俺は独りで、ただ何となく生きている。

俺のせいで、子どもが逝った。

俺のせいで、あいつが逝った。

俺のせいで──

そんな思いが、いつも胸を締めつける。

寂しくて、苦しくて、どうしようもない。

何度も、「もう終わらせたい」と思った。

けれど、死ぬのはやめた。

これは、俺に与えられた罰だと思うことにした。

だから一生、孤独の中で生きていこうと思った。

職場でも、人と話すことは極力避けている。

何人か、俺に好意を寄せてくれる女性もいた。

でも、すべて断った。

誰かを不幸にするぐらいなら、ひとりでいい。

もう誰も──巻き込みたくない。

息子よ。

親友よ。

そして、俺に関わってくれたすべての人たちへ。

本当に、ごめんな。

いつか、俺がそちらに行ったとき──

息子は、また「父ちゃん」と呼んでくれるだろうか。

あいつは、もう一度「大親友」と言ってくれるだろうか。

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