犬からの10のお願い

犬からの10のお願い

玄関のドアの内側に、まだ、古いリードがかけてあります。

外すのを、どうしても、ずっと、ためらっています。

その下の床には、今も、うっすらと、丸い跡が残っています。

ナナが、十四年間、そこで私の帰りを待っていた場所です。

鍵を回す音がすると、家じゅうに響くほど、しっぽで床を叩いた、あの場所です。

ナナがいなくなって、半年が経ちました。

私はまだ、玄関を開けるたびに、いないはずの足音を、探しています。

ナナは、口がきけませんでした。

でも今になって、あの子が、私に十のことを頼んでいたのだと、分かるのです。

※

ナナと出会ったのは、私が二十五の、雨の夜でした。

会社を辞めたばかりで、何もかもが、うまくいっていない頃でした。

アパートの軒下で、濡れたダンボールの中に、小さな子犬がいました。

灰色がかった、やせっぽちの雑種でした。

私を見上げて、震えながら、それでも、しっぽを振ったのです。

「お前、こんなとこで、何やってんだよ」

私は、傘をたたんで、その子を、上着の中に入れました。

小さな心臓が、私の胸で、ものすごい速さで打っていました。

その夜から、私の一人きりの部屋に、もう一つの呼吸が、増えました。

名前は、ナナにしました。

拾った日が、七月七日だったからです。

「ナナ。お前は、今日からナナだ」

そう言うと、その子は、まるで返事をするように、小さく鳴きました。

ミルクを温めてやると、皿に顔を突っ込むようにして、夢中で飲みました。

飲み終えると、私の指を、ぺろぺろと、いつまでも舐めていました。

その温かい舌の感触を、私は、たぶん一生、忘れません。

次の日、私は、貯金の少なさを思い出して、青くなりました。

自分一人、食べていくのも、やっとだったのです。

「お前を、ちゃんと飼えるのかな」

不安をこぼした私を、ナナは、ただ、まっすぐに見上げていました。

その目は、こう言っているようでした。

「私には、あなたしか、いないのです」

その目に、私は、負けました。

思えば、救われたのは、私のほうだったのかもしれません。

※

ナナは、賢い子でした。

おすわりも、待ても、すぐに覚えました。

でも、私が落ち込んでいる日だけは、命令を聞きませんでした。

そういう日は、ぴったりと体を寄せて、私の膝に、あごを乗せてくるのです。

「私の言うことが分からなくても、声は分かるんだな」

私が話しかけると、ナナは、決まって、首をかしげました。

言葉は通じなくても、私たちは、たしかに、会話をしていました。

再就職して、生活が、少しずつ立て直っていきました。

残業で、帰りが、夜中になる日もありました。

それでも、ナナは、文句ひとつ言わずに、玄関で待っていました。

何時間でも、何時間でも、あの丸い場所で。

「ただいま。遅くなって、ごめんな」

そう言うと、ナナは、責めるどころか、全身で、喜びをぶつけてきました。

私の一日の疲れは、その瞬間に、いつも溶けていきました。

私が、妻と出会い、結婚したときも、ナナは、そばにいました。

妻は、初め、犬が少し苦手でした。

それでも、ナナは、焦らずに、少しずつ、距離を縮めていきました。

妻が泣いていた夜、ナナが、そっと寄り添ったことがありました。

次の朝、妻は言いました。

「ナナは、人の気持ちが、分かるのね」

その日から、ナナは、私たち二人の、家族になりました。

子どもが生まれてからは、ナナは、立派な「お兄ちゃん」でした。

赤ん坊が泣くと、いちばんに、私たちを呼びに来ました。

よちよち歩きの娘に、しっぽを引っぱられても、決して怒りませんでした。

あの子は、人の手の骨など、簡単に噛める歯を持っていました。

それでも、家族には、一度も、牙をむきませんでした。

優しさとは、力を持つ者が、それを使わずにいることなのだと、ナナに教わりました。

※

時は、犬には、人の何倍もの速さで流れます。

気づけば、ナナの口のまわりは、白くなっていました。

あんなに軽やかだった足どりが、少しずつ、重くなっていきました。

散歩の距離が、日に日に、短くなっていきました。

階段を上れなくなった日、私は、ナナを抱いて、二階へ運びました。

昔、雨の夜に、上着の中に入れたときと、同じように。

ただ、あの頃よりも、ずっと、ずっと、重くなっていました。

その重さの分だけ、私たちは、長い時間を、一緒に生きたのです。

最期の朝、ナナは、もう、立てなくなっていました。

動物病院の先生は、静かに、首を横に振りました。

「もう、長くは、ないと思います」

私は、迷いませんでした。

「家で、看取らせてください。この子は、家が好きなので」

先生は、うなずいて、痛みを取る薬だけを、出してくれました。

家に帰ると、ナナを、いつもの玄関の、あの丸い場所に寝かせました。

家族みんなで、ナナを囲みました。

娘が、小さな声で、「ナナ、いかないで」と、泣いていました。

私は、ナナの頭を、ずっと、なで続けました。

「ナナ、ありがとうな。お前が来てくれて、本当に、よかった」

ナナは、最後の力で、私の手を、一度だけ、ぺろりと舐めました。

あの、雨の夜の、子犬の頃と、同じように。

私は、ナナの目を、最後まで、見ていました。

「こわくないぞ。ここにいるからな。どこにも、行かないからな」

昔、誰かに、「見ているのがつらいだろう」と言われたことがあります。

でも、私は、席を外しませんでした。

あの子が、雨の夜に、私を信じてくれたように。

今度は、私が、最後まで、そばにいる番でした。

ナナは、私の手のひらの中で、眠るように、息を引き取りました。

穏やかな、本当に、穏やかな、顔でした。

※

ナナは、口がきけませんでした。

だから、何ひとつ、言葉では頼みませんでした。

でも、十四年をふり返ると、あの子が、私に頼んでいたことが、たしかに、十、ありました。

今、それを、ナナの代わりに、書いておきます。

一つ。「私の時間は、あなたの何倍も速い。だから、一緒にいられる今を、大切にしてほしい」

白くなったナナの口もとを見て、私は、これを、いちばんに思い知りました。

二つ。「私が言うことを分かるまで、少しだけ、待ってほしい」

おすわりを覚えるまで、ナナは、何度も失敗しました。でも、焦らなかったのは、私のほうが教わったことです。

三つ。「叱るより先に、おなかが空いていないか、どこか痛くないか、気にかけてほしい」

年老いて粗相をした夜、私は、叱る代わりに、そっと、ナナの体をさすりました。

四つ。「長い留守番は寂しいけれど、あなたが帰ってくると信じて、私は待っている」

残業の夜、玄関のあの丸い場所で、ナナは、いつも、信じて待っていてくれました。

五つ。「あなたには家族や仕事があるけれど、私には、あなたしか、いないのです」

雨の夜、ダンボールの中から私を見上げた、あの目が、ずっと、そう言っていました。

六つ。「私に話しかけてほしい。言葉は分からなくても、あなたの声は、ちゃんと分かるから」

落ち込んだ日に膝へあごを乗せてきたナナは、言葉ではなく、声を聞いていたのです。

七つ。「私がいたずらをしても、叩く前に、思い出してほしい。私が決して、あなたを噛まないことを」

娘にしっぽを引っぱられても怒らなかったナナを、私は、生涯、忘れません。

八つ。「私が年老いて、動けなくなっても、どうか、世話をしてほしい。あなたも、いつか年を取るのだから」

階段を上れなくなったナナを抱き上げたとき、私は、この願いを、はっきりと受け取りました。

九つ。「私のことを、ときどきでいいから、思い出してほしい」

今、こうして書いていること自体が、その願いへの、私の返事です。

十。「最期の旅立ちのときには、どうか、そばにいてほしい」

この、いちばん大切な願いだけは、私は、ちゃんと、かなえてあげられました。

「あなたがそばにいてくれるだけで、私は、どんなことも、安らかに受け入れられる」

ナナは、きっと、最後に、そう言いたかったのだと思います。

その十番目の願いだけは、私は、ちゃんと、かなえてあげられました。

それだけが、今の私の、たった一つの、救いです。

玄関のリードは、もう少しだけ、あのままにしておきます。

外す日が来たら、きっと、私は、ちゃんと笑えるようになっている気がするから。

ナナ。短い一生を、私のそばで、生ききってくれて、ありがとう。

次に生まれてくるときも、どうか、また、あの雨の夜に、私を見つけてください。

今度は、傘をささずに、走って、迎えに行きます。

会社を辞めたあとの数か月は、私は、ほとんど、部屋から出られませんでした。

昼も夜も、布団にもぐって、自分を責めてばかりいました。

そんな私を、毎朝、起こしに来たのが、ナナでした。

鼻先で、布団を、ぐいぐいと押すのです。

「分かったよ、散歩だろ」

しかたなく外に出ると、朝の光が、思いのほか、まぶしかった。

ナナがいなければ、私は、あの部屋から、出られなかったかもしれません。

あの子は、ただ散歩をせがんでいただけのつもりで、私の命を、引っぱり出していたのです。

一度だけ、ナナが、迷子になったことがあります。

花火の音に驚いて、開いていた門から、飛び出してしまったのです。

私は、夜じゅう、名前を呼びながら、町じゅうを走りました。

「ナナ!ナナ、どこだ!」

声がかれて、もう、だめかと思った明け方。

アパートの、あの軒下に、ナナは、ずぶ濡れで、座っていました。

出会った、あの場所に、自分で、帰ってきたのです。

私を見つけると、ナナは、転がるように、駆け寄ってきました。

私は、泥だらけのその体を、力いっぱい、抱きしめました。

ナナが子犬の頃、一度、大きな病気をしました。

高い熱が、何日も下がらず、もう、覚悟してください、と言われました。

私は、乏しい貯金をはたいて、できるかぎりの治療を、頼みました。

夜通し、小さな体を、てのひらで温め続けました。

「頼む、ナナ。まだ、逝くなよ」

三日目の朝、ナナは、ふっと目を開けて、私の指を、舐めました。

あのとき、助かってくれたから、私たちには、その後の十年以上があったのです。

※

家族が増えて、私たちは、海の近くの町へ、引っ越しました。

ナナは、初めて見る海に、最初は、おっかなびっくりでした。

でも、すぐに、波打ち際を、走り回るようになりました。

娘とナナが、砂浜を駆けていく姿を、私は、今も、よく思い出します。

夕日の中で、二つの影が、長く伸びていました。

あの夏は、もう、戻ってきません。

だからこそ、あの夏は、私たちの宝物になりました。

私の父が亡くなった年も、ナナは、そばにいてくれました。

葬式から帰った夜、私は、誰もいない部屋で、声を殺して泣きました。

ナナは、何も言わず、ただ、私の背中に、体をぴたりとつけていました。

その温もりが、どんな慰めの言葉よりも、私を、支えてくれました。

「お前は、いてくれるだけで、いいんだな」

ナナは、ふっと、ため息のような息を、つきました。

分かっているよ、とでも言うように。

年を重ねたナナは、よく、窓辺の日なたで、うとうとするようになりました。

私も、隣に座って、一緒に、夕暮れを眺めました。

特別なことは、何もない時間でした。

でも、そういう、なんでもない時間こそが、いちばん、幸せだったのだと、今は分かります。

ナナの寝息と、私の呼吸が、同じ速さに、なっていく夕暮れでした。

亡くなる三日前、ナナに、調子の良い日が、一日だけ、ありました。

その日、ナナは、自分から、リードのほうへ、よろよろと歩いていきました。

「散歩、行きたいのか」

私たちは、ゆっくり、ゆっくり、近所の公園まで歩きました。

ナナは、いつもの木の根もとの匂いを、長い時間、かいでいました。

まるで、一つひとつに、別れを告げているようでした。

ベンチに並んで座った夕方を、私は、生涯、忘れないと思います。

あれが、ナナと私の、最後の散歩になりました。

ナナには、毎日の、決まった儀式がありました。

私の帰る時間になると、窓辺に座って、外を見張るのです。

角を曲がる私の姿を見つけると、家じゅうを駆け回って、知らせました。

妻が、よく笑っていました。

「あなたが帰ってくるの、ナナのほうが、先に分かるのよ」

どんな日も、私には、待っていてくれる相手がいる。

そのことが、外でどんなに嫌なことがあっても、私の足を、家へ向かわせました。

ナナがいなくなって、家は、ずいぶん、静かになりました。

床に落ちる、足音がありません。

窓辺で、外を見張る影も、ありません。

娘は、しばらく、ナナの名前を、口にしませんでした。

ある日、ぽつりと、こう言いました。

「ナナは、お空で、走り回ってるかな」

私は、「きっと、そうだよ」と、答えるのが、精一杯でした。

家族みんなの中に、ナナの形をした、小さな空白が、できたのです。

ナナは、自分の名前が、大好きでした。

「ナナ」と呼ぶたびに、しっぽが、千切れそうなほど振れました。

七月七日に拾ったから、ナナ。

いいかげんに付けた名前なのに、あの子は、世界でいちばん、その名前を喜びました。

私は、一日に何度も、意味もなく、その名前を呼びました。

呼べば、必ず、返事がある。

それが、どれほど、ありがたいことだったか。

犬の一年は、人の、何年分にもあたると言います。

だから、私がうっかりしているあいだに、ナナは、どんどん、年を取っていきました。

昨日まで子犬だったのに、気づけば、私を、追い越していました。

その速さを知っていたら、もっと、たくさん、散歩に行けばよかった。

もっと、たくさん、名前を呼べばよかった。

後悔は、いつも、間に合わないところから、やってきます。

不思議なことに、ナナは、雨の日が、好きでした。

普通の犬は、濡れるのを嫌がるのに。

雨が降ると、窓の外を、じっと、いつまでも眺めていました。

きっと、私と出会った、あの雨の夜を、覚えていたのだと思います。

「お前は、雨に拾われた子だもんな」

そう言うと、ナナは、振り向いて、私を、まっすぐに見ました。

その目は、雨の夜の子犬のまま、最後まで、澄んでいました。

今、ナナは、小さな骨壷になって、窓辺にいます。

あの子が好きだった、日なたの場所です。

毎朝、私は、その白い壺を、てのひらで、そっと撫でます。

昔、頭を撫でたときと、同じ手つきで。

「おはよう、ナナ。今日も、いい天気だぞ」

返事は、もう、ありません。

でも、撫でた手のひらに、たしかに、あの温もりが、よみがえる気がするのです。

犬を飼うということは、いつか必ず、この別れを引き受けるということです。

それでも、私は、もう一度、あの雨の夜の選択を、繰り返すでしょう。

短い一生だと知っていても、その時間が、何よりも温かいと、ナナが教えてくれたから。

あの丸い跡は、いつか、消えてしまうのかもしれません。

それでも、あそこでナナが待っていてくれた十四年は、消えません。

私の胸の、いちばん温かい場所に、ちゃんと、刻まれています。

ありがとう、ナナ。

出会えたことが、私の人生の、いちばんの幸運でした。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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