父の護衛をしていた猫

猫(フリー写真)

父が急に逝ったのは、十一月の冷え込む朝だった。

前の晩まで、いつものように麺を打っていた人だった。

うちの猫のみぃは、その父の護衛だった。

「こいつはいつも俺の後を付いて来るんだ。俺の護衛なんだ」

父は生前、少し自慢気にそう言っていた。

その言葉を、私は葬儀のあいだ何度も思い出すことになる。

父の護衛の持ち場

父は実家の隣で、小さな製麺所をやっていた。

朝は四時起きだ。

真っ暗な台所で湯を沸かす父の足もとに、みぃはいつも先に座っていた。

茶トラの小柄な雌猫で、鳴くと「みぃ」としか聞こえない。それがそのまま名前になった。

十二年前の梅雨に、麺の乾燥棚の奥で鳴いていた仔猫だった。

「うちは食べ物屋やぞ。猫なんか飼えるか」

父は最初、腕を組んでそう言い張った。

けれど翌朝には、空の麺箱に古いタオルを敷いていた。

私はそれを見て、笑いをこらえるのに苦労した。

父が長靴を履くと、みぃは玄関の戸の隙間から先に外へ出る。

五歩ほど前を歩き、振り返って、父が付いて来るのを確かめる。

製麺所に着くと、小麦粉の袋の上に座って動かない。

父が機械を回すあいだじゅう、じっと入口を見ていた。

「護衛ってのはな、主人より先に着いておくもんだ」

父はそう言って、粉だらけの指でみぃの頭を撫でた。

「おい、護衛。今朝も異常なしか」

みぃは返事のかわりに、細い尻尾を一度だけ振る。

その儀式めいたやり取りが、私は少しうらやましかった。

父は無口な人だった。

私が進学で家を出た日も、駅まで送ってはくれたが、別れ際に言ったのは「風邪ひくなよ」の一言だけだ。

嫁いでからは、電話をしても三分で終わる。

そのかわり、受話器の向こうでいつも「みぃ」と鳴く声がした。

「お父さん、いま何してるの」

「みぃに飯やっとる」

父との会話の半分は、みぃの話だった。

最後に話したのは、倒れる四日前の夜だった。

私は夕飯の支度の途中で、受話器を肩に挟んだまま言った。

「ごめん、また今度ゆっくり話すね」

「おう。忙しいんやろ。ええよ」

父はそれ以上、何も言わなかった。

あの「また今度」を、私は何度、悔やんだか分からない。

父の護衛の仕事は、十二年間、一日も休みがなかった。

その朝、みぃの鳴き声が止まらなかったそうだ。

製麺所の前で、喉が裂けそうな声で鳴き続けていた。

気づいた隣の奥さんが窓を開け、機械の止まった作業場で倒れている父を見つけた。

みぃは、父の肩のあたりから離れなかったという。

盆の帰省で、父の護衛の働きぶりを見たことがある。

私の子どもが、製麺所の裏で大きな犬に吠えられて泣いた。

どこからか茶色い影が飛び出して、犬と子どもの間に座り込んだ。

毛を逆立て、背中を丸めて、一歩も退かない。

「みぃ、ありがとうな」

父がしゃがんで、その小さな頭に手を置いた。

娘の肩を抱くよりも先に、父はみぃをほめた。

私は少し可笑しくて、少し胸が熱くなった。

守るという仕事は、声が大きい人だけのものではない。

あの小さな身体は、確かに一人前の護衛だった。

布団の中の小さな背中

父は病院から、夕方に家へ戻った。

座敷に敷かれた布団で、手を組んで眠っているように見えた。

私が夫と駆けつけたとき、母は父の枕もとで正座をしていた。

「みぃがね、ずっとここにおるんよ」

母がそう言って、布団の端を指した。

みぃは私たちの前を静かに通り、掛け布団の中へもぐった。

冷たくなった父の脇に、身体をぴたりと寄せて丸くなる。

声も出さず、喉も鳴らさない。

「冷たいやろ、みぃ」

母が布団をめくろうとした。

「ええよ、そのままにしとき」

弟が小さな声で止めた。

私はその光景を見て、堪えていたものが一度に溢れた。

線香の匂いと、乾いた小麦粉の匂いが、座敷で混ざっていた。

父の指の爪の間には、洗っても落ちない白い粉が残っている。

その手の脇に、みぃの茶色い背中があった。

猫にも分かるのだろうか。

これが最後の別れだということが。

夜になると、常連のお客さんたちが次々に線香をあげに来てくれた。

商店街の八百屋さんは、玄関先で帽子を握りしめて動かなかった。

「あの人のうどん、もう食べられんのか」

そう言って、目を赤くした。

私は何も答えられず、ただ頭を下げた。

葬儀社の若い担当の人が、遠慮がちに話しかけてきた。

「あの、猫ちゃんは、お式の間だけ別のお部屋に」

「いえ。ここにいさせてください」

母がきっぱりと言った。

担当の人は少し驚いて、それから静かに頷いた。

そのやり取りを、私はずっと覚えている。

棺の小窓を掘る爪

通夜の夜、父は棺に納められた。

家族だけで過ごす最後の晩だった。

棺には、顔が見えるように小さな扉がついている。

みぃは棺の上に飛び乗って、その扉を前足で引っ掻きはじめた。

がりがり、がりがりと。

砂を掘るような必死さだった。

弟が抱き上げて膝に乗せても、すぐに飛び降りて棺へ戻る。

「やめさせんでええ」

母が首を振った。

「あの子は、お父さんに会いたいだけやもん」

夜が更けても、音は止まなかった。

私は毛布をかぶって、座敷の隅でその音を聞いていた。

聞いているうちに、父の無口の意味が少し分かる気がした。

言葉にしなくても、そばにいる。

先に立って歩き、後ろを確かめる。

父もみぃも、愛し方が同じだった。

私が電話で言えなかった言葉を、みぃは爪で伝えていた。

みぃは本当に、一晩じゅうやめなかった。

朝になって、爪が一本割れ、肉球に血が滲んでいた。

私が濡らした布で拭こうとすると、みぃは嫌がりもせずに目を閉じた。

その様子を見て、家族みんなが声を殺して泣いた。

出棺の前に、母が棺の中へ小さな布袋を入れた。

「これ、お父さんの好きな煮干しや」

みぃのおやつの残りを、父はいつも作業着のポケットに忍ばせていた。

「猫に食わせるもんを、人間のポケットに入れるな」

そう言って母に叱られても、父は笑っていた。

煮干しの匂いが、一瞬だけ座敷に広がった。

みぃは棺の足もとで、鼻をひくひくさせていた。

その横顔が、あまりに父にそっくりで、私は思わず目をそらした。

どれだけ長く一緒にいると、人と猫は似てくるのだろう。

私はそんなことを考えながら、花を一輪、父の胸にそっと置いた。

白い花びらの上に、窓から差す冬の光が細く落ちていた。

その光は、棺の小窓の端で、静かに揺れていた。

空っぽになった玄関

父が骨になった日のことは、うまく思い出せない。

もう二度と顔を見られないのだと、頭では分かっていた。

お骨を抱えて家に戻ると、玄関の戸が指一本ぶん開いていた。

みぃの姿が、どこにもない。

餌の皿は手つかずで、座敷の布団の跡もひんやりしていた。

「みぃ、みぃ」

私は近所の路地を、日が暮れるまで呼んで歩いた。

製麺所の裏も、川沿いの空き地も、探した。

返事はなかった。

母が縁側で、ぽつりと言った。

「お父さんの護衛やもん。先に行ったんよ」

その言葉で、私は父のあの口癖を思い出した。

護衛ってのはな、主人より先に着いておくもんだ。

みぃは、父より先に着いて待つつもりなのだ。

そう思ったら、不思議と悲しみの形が少し変わった。

本当は私たちも、父に付いて行きたいくらいだった。

その代わりを、みぃが引き受けてくれたのだと思えた。

父の話を書き留めたくなった夜、私は父が渡した十二年分の通帳の話を読み返した。

父という人は、どうしてこうも不器用に子を守るのだろう。

龍之介の絵日記に出てくる無口な子のように、言葉より先に、そばにいる人たちがいる。

母は翌週から、製麺所の戸を開けた。

「うどんを待っとる人がおるけんな」

そう言って、父の割烹着を着た。

私は母の背中を見送りながら、足もとに茶色い影がないことを何度も確かめた。

父のいない製麺所の朝は、静かすぎた。

機械の回る音がしないだけで、建物が急に広くなる。

母は四時に起きて、誰もいない作業場の電気をつけた。

小麦粉の袋の上には、みぃの毛が三本ほど残っていた。

「ここに座っとったなあ」

母が指先でその毛をそっと集めて、小さな紙に包んだ。

それを父の位牌の前に置いて、手を合わせた。

私も隣で手を合わせたが、何を祈ればいいのか分からなかった。

ただ、玄関から作業場までの短い道を、一人で歩いてみた。

五歩先に、振り返る茶色い影がいない。

その空白の長さに、私はようやく声を出して泣いた。

四十九日の朝のことだ。

玄関の前で、ずっと誰かが鳴いていた。

開けてみると、灰色の野良猫が座っていた。

男の子だった。

みぃがいつも父を待っていた、同じ場所に。

「どこから来たの」

そう聞いても、猫は逃げずに私を見上げた。

母が黙って小皿に牛乳を注いだ。

その猫は、今もうちにいる。

父の長靴の横が、彼の定位置だ。

みぃも父も、姿は見えなくても、何か別の形で傍にいてくれる。

私はそう信じて、毎朝四時に、玄関の戸を少しだけ開けておく。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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