
娘が封筒詰めの仕事に電話をかけたのは、俺と妻が怒鳴り合った翌日の昼だった。
八歳の子が、新聞の求人欄の番号を、家の固定電話から一桁ずつ押した。
そのことを俺が知ったのは、夕方、泣き腫らした妻の手から切り抜きを渡されたときだ。
いまでも封筒詰めの仕事という言葉を見ると、胸の奥が一度だけ強く鳴る。
これは、俺が父親として一番恥ずかしかった二日間と、その二年後の話だ。
月謝の欄の丸
俺は横浜の運送会社で、配車の事務をしている。
三十八歳。
妻の恵と、小学二年の娘の真尋との三人暮らしだ。
その夜、俺は十一時過ぎに帰った。
午後に積み込みのミスが二件重なり、荷主に電話で頭を下げ続けた日だった。
受話器の向こうの「で、どうしてくれるの」という声が、まだ喉の奥に貼りついていた。
終電の窓に映る自分の顔は、知らない中年の男に見えた。
その男は、まだ誰にも謝っていない顔をしていた。
駅から家までの坂を上りながら、俺は明日の配車表のことだけを考えていた。
玄関の靴を脱ぐ前から、恵の声が弾んでいるのがわかった。
「ねえ、聞いて。真尋がね、バイオリンやりたいって」
「バイオリン」
「学校の音楽鑑賞会で見たんだって。自分からやりたいって言うの、珍しいでしょ」
テーブルには、楽器店の体験教室のチラシが置いてあった。
月謝の欄に、恵が赤いペンで丸をつけていた。
八千円。
楽器のレンタル代が、別に三千円。
俺はネクタイを緩めながら、数字だけを見ていた。
「どうせ一時の思いつきだろ。放っとけば三日で忘れる」
「本人がやりたいって言ってるんだよ」
「電子キーボードも、半年で埃かぶってる」
「あれは私が買ったの。真尋が欲しがったんじゃない」
恵は正しかった。
正しいことを言われるのが、その夜の俺には一番こたえた。
「せっかく本人が言ってるのに、どうしてそんな言い方するの」
「仕事で疲れてるんだ。いい加減に黙ってろ」
自分の声が、想像より大きく出た。
恵の口が、途中で閉じた。
廊下の奥で、何かが小さく軋んだ。
真尋の部屋のドアだと、俺は気づかないふりをした。
その夜は、別々に寝た。
ソファで天井を見ながら、月謝の八千円を、残業の時間に換算していた。
換算するものを間違えていたことに、まだ気づいていなかった。
翌朝、恵は俺の弁当を作らなかった。
俺も、いつもの「行ってきます」を言わなかった。
真尋だけが、玄関で「パパ、いってらっしゃい」と言った。
いつもなら「今日は何枚くる?」と続く。
郵便受けの封筒を数えるのが、真尋の毎日の役目だったからだ。
その朝、真尋はそれを聞かなかった。
俺は、靴紐を結びながら「ああ」と返した。
顔を見なかった。
ドアを閉めるとき、真尋がまだ玄関に立っている気配がした。
鏡の前の旋律
会社の洗面所で顔を洗っていると、鏡の中の自分が、何かを口ずさんでいた。
癖だ。
ひげを剃るときや、顔を洗うとき、俺は決まって同じ旋律を鼻で鳴らす。
曲の名前は知らない。
子どもの頃、団地の隣の部屋から毎晩聞こえていた旋律だ。
隣には、音大を出たという老人が一人で住んでいて、夕方になるとバイオリンを弾いた。
柚木さん、という名前だった。
俺は壁に耳をつけて、その音を聞いていた。
壁は薄くて、冷たくて、弓を返すたびに小さく震えた。
母が帰ってくるまでの、一時間と少し。
その震えが、俺にとっての夕飯の前の時間だった。
一度だけ、廊下で柚木さんに会った。
「弾いてみるか」と言われて、俺は首を振った。
家には、楽器を習うような余裕がないことを、八歳の俺はもう知っていた。
母はパートを二つ掛け持ちしていたし、父は夜の仕事だった。
柚木さんは、何も言わずに、小さな琥珀色の塊を俺の手に置いた。
「松脂だ。弓に塗る。いつか使え」
翌年の春、柚木さんは施設へ移った。
引っ越しのトラックが出たあと、隣の壁は、ただの壁になった。
旋律だけが、俺の鼻の中に残った。
松脂は、いまも会社の机の引き出しの奥にある。
三十年、一度も弓に触れていない。
恵は、その話を知っている。
付き合い始めた頃に、一度だけ話した。
「じゃあ、いま習えばいいじゃない」と恵は言った。
俺は「三十過ぎてバイオリンはない」と笑った。
恵は、そのとき少し変な顔をした。
その顔の意味を、俺は二年後に知ることになる。
昼休み、恵からメッセージが来た。
『今日、早く帰ってこられる?』
怒っている文面ではなかった。
それが、かえって胸にひっかかった。
午後、若い配車係が「お子さん、いくつでしたっけ」と聞いてきた。
「八つ」
「いいですね。うちはまだ喋らないんで」
いいですね、という言葉が、しばらく耳に残った。
昨夜の自分の声も、一緒に残っていた。
俺は定時で上がった。
駅から家までの道で、八千円で買えるものを、意味もなく数えていた。
一度も、娘の顔が浮かばなかったことを、いまも恥ずかしく思う。
坂の途中で、どこかの家からピアノの練習の音が聞こえた。
同じところで、何度もつまずいていた。
それでも、やめる気配はなかった。
俺は、その音を聞きながら坂を上った。
封筒詰めの仕事
玄関を開けると、恵が廊下に立っていた。
目が、朝より赤かった。
泣き腫らしたあとの、乾いた赤さだった。
「悪かった。昨日は、言いすぎた」
俺が先に言うと、恵は首を振った。
「違うの。あのね、ちょっとこれを見て」
恵が差し出したのは、新聞の求人欄の切り抜きだった。
『封筒に紙を入れるだけの簡単な仕事です。在宅可。一枚五円から』
よくあるDM封入の、封筒詰めの仕事の募集だ。
「これがどうした」
「今日ね、この会社から電話があったの」
「……」
「真尋が、この会社に電話して『働きたい』って言ったんだって」
恵の声が、そこで崩れた。
「電話に出た人が、声が幼いから変だと思って、真尋にうちの番号を聞いて、かけ直してくれたの」
俺は、切り抜きを持ったまま動けなかった。
紙の端が、小さく波打っていた。
恵が、泣きながら続けた。
「その人ね、おばあさんなの。小さい会社で、一人でやってる人。『お嬢さん、封筒ならいつも家でやってるから得意です、って言ったんですよ』って」
俺は、思い出した。
真尋は、郵便受けから取ってきた封筒を、毎日食卓に並べる。
「今日は五枚。パパのが三枚、ママのが二枚」
角をきちんと揃えて、宛名を上にして。
それが、娘の仕事だった。
「学校の帰りに、おばあさんの会社まで歩いて行くつもりだったみたい。住所、地図で調べてた」
「八歳が、一人で」
「『八歳です。でも、封筒は上手です』って言ったんだって」
おばあさんは、笑わずに最後まで聞いてくれたらしい。
「真尋に、確認したの」
恵は、台所のタオルで顔を押さえた。
「『ママとパパがケンカしてるのは自分のせいだってわかったから、すごく悲しかった。だから私も働いて、パパのお仕事がどれだけ大変なのかを知りたかった。私が働いたらお金がもらえるし、バイオリンも習える。それならパパもママもケンカしなくて済むから、それが一番いいと思ったの』って」
俺の喉が、音を立てて鳴った。
恵が、小さな声で「ごめんね」と言った。
その一言が、どこに向けた言葉なのか、俺にはわからなかった。
俺に向けたものなら、受け取る資格がない。
真尋に向けたものなら、言うべきなのは俺だった。
切り抜きを裏返した。
鉛筆の字で、計算が書いてあった。
『八〇〇〇÷五=一六〇〇』
その下に、封筒の絵が三つ。
八歳の娘は、バイオリンの月謝を、封筒詰めの仕事の枚数に換算していた。
千六百枚。
俺は、その数字を声に出せなかった。
昨夜、ソファで俺が換算していたのは、残業の時間だった。
娘は、封筒の枚数で考えた。
どちらが父親の考え方だったのか、俺にはわからなくなった。
恵が、俺の背中に手を置いた。
「あなたを責めてるんじゃないの。私も、昨日は言い方があった」
「いや」
「二人で、怒鳴ったの。真尋は、二人の声を聞いたの」
廊下の奥のドアが、十センチだけ開いていた。
ドアの隙間の目
隙間から、真尋がこちらを見ていた。
昨夜、軋んだのと同じドアだ。
「真尋。こっちに来なさい」
真尋は、靴下のまま、音を立てずに歩いてきた。
手に、折り紙で折った小さな封筒を握っていた。
俺はテーブルの前に座らせて、わざと厳しい顔を作った。
「お前は、まだ働かなくていいんだ」
「……うん」
「子どもの仕事は、勉強と、遊ぶことだ。その代わり、ちゃんとやりなさい」
「うん」
声が、途中から震えた。
震えを隠すために、俺はもっと強く言った。
「バイオリンは、習っていいぞ。ただし、途中でやめるとか言うなよ」
真尋の目が、丸くなった。
「その代わり、ママとパパも、ケンカしないようにするからな。わかったか」
「わかった」
強い口調で言ったつもりだった。
でも、俺の目からは、恵より先に涙が落ちていた。
テーブルの上の切り抜きに、丸い染みが一つできた。
『一六〇〇』の、〇の一つが滲んだ。
真尋は、そんな俺を見て、心配そうに小さくうなずいた。
それから、握っていた折り紙の封筒を差し出した。
「これ、パパのお給料」
中に、十円玉が三枚入っていた。
「お手伝いのお金、貯めてた。パパ、大変だから」
俺は、受け取った。
返す方が、娘を傷つける気がした。
三十円の重さが、掌から腕へ、ゆっくり上がってきた。
その夜、三人で夕食を食べた。
恵が、二日ぶりに俺の茶碗にご飯を盛った。
真尋は、封筒詰めの仕事の話をしなかった。
俺も、しなかった。
代わりに、聞いた。
「真尋。なんで、バイオリンなんだ」
鑑賞会で見たから、と答えると思っていた。
真尋は、箸を置いて、少し考えた。
「音が、壁みたいだったから」
「壁?」
「薄い壁の向こうで鳴ってるみたいな音。鑑賞会で聴いたとき、そう思った」
それ以上は、言わなかった。
俺は、その答えを子どもの言い方として受け取った。
団地の壁のことを、娘が知るはずがない。
そう思っていた。
真尋が寝たあと、俺は部屋のドアを少し開けた。
机の上に、地図を印刷した紙があった。
学校から、おばあさんの会社までの道順に、鉛筆で線が引いてあった。
途中の信号に、小さく「とまる」と書いてあった。
俺は、その紙を折って、自分の鞄に入れた。
捨てられなかった。
寝室で、恵が暗い中で言った。
「私たち、何を怒鳴ったんだろうね」
「八千円だ」
「違うよ」
恵は、それ以上言わなかった。
翌週、真尋は体験教室に行った。
小さなバイオリンを顎に乗せて、弓を引いた。
出てきた音は、猫の鳴き声に似ていた。
真尋は、それでも笑っていた。
先生は、真尋の左手を見て「指が長いですね」と言った。
恵が、横で「父親が、そうなんです」と答えた。
俺は、自分の左手を見た。
帰り道、恵が言った。
「あの封筒詰めの会社のおばあさんね、電話の最後に言ってたの」
「何て」
「『お嬢さんにお伝えください。働くのは大人になってからで十分です。でも、封筒の角を揃えるのが得意な子は、きっといい仕事をしますよ』って」
俺は、横浜の夕方の空を見た。
倉庫の屋根の向こうに、クレーンが並んでいた。
真尋は、俺と恵の間で、両手を繋いで歩いていた。
月謝の八千円は、俺の小遣いから出すことにした。
恵は反対したが、俺は譲らなかった。
千六百枚の封筒の代わりに、俺が払いたかった。
それから二年が経つ。
真尋は、途中でやめると言わなかった。
練習は、いつも洗面所でやった。
「ここが一番、音が響くから」と真尋は言った。
俺がひげを剃る場所で、娘が弓を引く。
狭い洗面所に、二人分の音が重なる朝が、週に何度かあった。
俺の鼻歌と、娘の音階は、たいてい合わなかった。
合わないまま、どちらもやめなかった。
発表会の一番後ろ
俺と恵は、ケンカをしなくなったわけではない。
ただ、声が大きくなりそうなとき、どちらかが廊下の奥のドアを見る。
それだけで、たいていの夜は収まる。
幸せなことは何度でもあると、恵はよく言う。
俺は、そういう言葉を信じるのが苦手な人間だった。
いまは、少しだけ信じている。
郵便受けの封筒は、いまも真尋が食卓に並べる。
「今日は四枚。パパのが二枚、ママのが一枚、あと真尋の」
真尋の分は、バイオリン教室の発表会の案内だった。
曲目の欄に、真尋の名前と、曲の名前があった。
俺は、その曲名を読めなかった。
外国語の題で、聞いたこともなかった。
「どんな曲だ」
「来てから、聴いて」
真尋は、それだけ言って、案内を自分の部屋に持っていった。
発表会までの一か月、真尋は洗面所で練習しなくなった。
恵の実家で弾いている、と恵は言った。
俺は、少し寂しかった。
朝の洗面所が、俺の鼻歌だけになったからだ。
発表会の日、俺は会場の一番後ろに座った。
前の方は、祖父母や親戚で埋まっていた。
恵は、俺の隣で、プログラムを膝の上で畳んでいた。
小さな子たちの演奏が、順番に続いた。
どの子の親も、その子の番だけ、椅子から少し身体を浮かせていた。
真尋の順番が来た。
小さなバイオリンが、顎に乗った。
弓が、弦に触れた。
最初の四つの音で、俺は背もたれから身体を起こした。
知っていた。
名前を知らないまま、三十年、鏡の前で鼻で鳴らしてきた旋律だった。
音は、何度も外れた。
それでも、俺の鼻の中にあった旋律が、十歳の娘の手で、初めて外へ出てきた。
あの団地の壁の向こうで聞いていた音が、こんなに近くで鳴っている。
隣で恵が、ハンカチを俺の膝に置いた。
自分が泣いていると、そのとき初めて気づいた。
演奏が終わって、真尋がこちらを探した。
俺は、手を振った。
手が、震えていた。
ロビーで、真尋はバイオリンのケースを抱えたまま走ってきた。
「パパ、わかった?」
「……ああ」
「鏡の前で、いつも歌ってるやつ。あれ、バイオリンの曲でしょ。音楽鑑賞会で、同じのやってた」
俺は、しゃがんで、娘と同じ高さになった。
「だから、やりたかったのか」
「弾けるようになったら、パパに聴かせられると思って」
真尋は、少し恥ずかしそうに、ケースの取っ手を握り直した。
「鑑賞会で聴いたとき、パパの歌だ、って思ったの。だから、壁みたいって言ったの。パパの声、いつも洗面所の壁の向こうから聞こえるから」
娘が習いたかったのは、俺が弾けなかった楽器だった。
俺が怒鳴ったのは、八歳の俺が諦めたものを、八歳の娘が俺のために欲しがった、そのことだった。
恵が、後ろで鼻をすすった。
「言わなかったの。真尋が、パパに言うなって。先生に曲名を聞いて、一か月、おばあちゃんの家で隠れて練習してた」
恵が二年前に見せた、あの変な顔の意味を、俺はそこで知った。
俺は、鞄の内ポケットから、小さな琥珀色の塊を出した。
会社の机の引き出しから、その朝、三十年ぶりに持ってきたものだ。
「松脂だ。弓に塗る。いつか使え」
柚木さんの言葉を、そのまま言った。
真尋は、両手で受け取った。
二年前、俺が三十円の封筒を受け取ったときと、同じ手つきだった。
温かい家庭というものを、俺は自分が作れるとは思っていなかった。
作ったのは、俺ではない。
三十円の入った折り紙の封筒と、信号に「とまる」と書いた地図は、まだ財布の奥にある。
ああ、本当に俺の娘は世界一の娘だ。
心から、そう思う。