仲直りのビーフシチュー

ビーフシチュー

昨日の朝、私は妻と言い争いをして、彼女の作った朝食を床にぶちまけた。

その夜に待っていたのは、ビーフシチューだった。

仲直りの話というより、私が自分の愚かさを思い知らされた一日の記録だ。

結婚して六年になる。

妻の美咲は、近所の保育園で週に四日、事務の仕事をしている。

私は住宅設備の会社で、見積もりや図面の確認に追われる毎日だ。

忙しさを言い訳にして、彼女の話をきちんと聞かない朝が、いつの間にか増えていた。

眠れなかった朝

原因は、私の寝不足だった。

前の晩、納期の迫った仕事を抱えて、気づけば午前二時を過ぎていた。

取引先から届いた修正指示の数が多く、持ち帰った図面を直しているうちに、時計の針だけが進んでいった。

美咲は先に寝室へ行ったが、私が布団に入った時、背中を向けたまま「おやすみ」と小さな声で言った。

私は返事をしなかった。

目覚ましが鳴った時、頭の芯が重く、まぶたが開かなかった。

「また仕事か」と、私は誰にともなくぼやきながら体を起こした。

リビングでは、妻の美咲が朝食の支度を終えていた。

カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいた。

キッチンのまな板の上には、使い終わった包丁が、きちんと伏せて置かれている。

そのどれもが、私に向けられた小さな気遣いだったのに、寝不足の頭はそれを少しも受け取れなかった。

炊きたてのご飯、焼き鮭、卵焼き。

皿の上の卵焼きは、端がきれいに巻かれ、出汁の香りがほのかに立っていた。

忙しい朝でも、美咲は必ず温かいものを用意してくれる。

私が風邪をひいたとき以外、それを欠かした日はなかった。

そして、湯気の立つ豆腐とわかめの味噌汁。

私は食卓に目もやらず、洗面所で顔を洗った。

鏡の中の自分は、目の下に濃い隈を作って、ひどく不機嫌な顔をしていた。

歯を磨く手つきまで荒く、コップを置く音が洗面所に響いた。

その音を、リビングにいる美咲がどんな顔で聞いているのか、想像する余裕もなかった。

美咲は私の気難しさを知っている。

だから何も言わず、そっと茶碗を置いた。

その沈黙が、かえって私を苛立たせた。

「何か言えばいいだろう」

「……疲れてるんでしょう。食べられるだけ食べて」

優しく言われたのが、なおさら癇に障った。

私は食卓の端を手で払った。

皿が床に落ちて、割れる音が部屋に響いた。

鮭も卵焼きも、味噌汁も、フローリングの上に散らばった。

美咲は何も言わなかった。

黙って膝をつき、割れた皿の破片を一つずつ拾い始めた。

流しに味噌汁を捨てる音が、私の背中に刺さった。

彼女の肩が小さく震えているのが分かったが、私は謝らなかった。

「行ってくる」とだけ言って、玄関を出た。

ビーフシチューの匂い

その日の帰り道の長さを、私はきっと一生忘れない。

電車の窓に映る自分の顔は、朝よりもずっと情けなく見えた。

何と言って謝ればいいのか、駅に着くまでに五通りも考えたのに、どれも口に出せそうになかった。

その日は一日中、仕事が手につかなかった。

画面の数字を追っていても、床に散らばった卵焼きの黄色が目に浮かぶ。

会議の最中も、資料の文字が滑って頭に入ってこない。

上司に名前を呼ばれて、二度聞き返してしまった。

昼休みに携帯を開いて、謝罪のメッセージを打っては消した。

隣の席の先輩が、ふと私の顔を覗き込んだ。

「どうした、今日は朝から地獄みたいな顔してるぞ」

「……朝、嫁さんに当たってしまいまして」

「そうか。うちは三日おきにやらかしてるから、お前の気持ちは分かるよ」

先輩は笑って、缶コーヒーを私の机に置いた。

「でもな、謝るのは遅くなるほど言い出しにくくなる。今日のうちに、顔を見て言えよ」

どんな言葉も、言い訳にしか見えなかった。

夜、会社を出た時には、足が重かった。

最寄り駅から家までの十五分を、わざと遠回りして歩いた。

商店街のパン屋の前で立ち止まり、閉まったシャッターを意味もなく眺めた。

花屋の店先には、仕舞い忘れたガーベラが一本だけ立っていた。

それを買って帰ろうかと迷って、結局やめた。

こんな時に花を差し出すのは、ずるい気がしたのだ。

もしかしたら美咲は、実家に帰ってしまったかもしれない。

部屋は真っ暗で、テーブルには書き置きが一枚。

そんな光景ばかりが頭に浮かんだ。

マンションの前に着くと、四階の窓に明かりが見えた。

それだけで、膝の力が抜けるほど安堵した。

エレベーターを降りた廊下に、ふわりと甘い匂いが漂っていた。

デミグラスソースと、赤ワインと、煮込んだ肉の匂い。

それは、玄関のドアを開ける前から、はっきりと分かった。

結婚前、初めてのデートで連れて行った洋食屋の味と、まったく同じ匂いだった。

あの店のビーフシチューを、美咲は何度も食べに行きたいと言っていたが、私は忙しさを理由に、最後に行ったのがいつかも思い出せない。

鍵を回す手が、少し震えた。

「……ただいま」

「おかえりなさい」

キッチンの奥から、美咲が顔を出した。

赤い目をしていた。

けれど、口もとには、いつもの小さな笑みがあった。

彼女は両手で大きな鍋を抱えていた。

「これで、仲直りしよう」

私の大好物の、ビーフシチューだった。

小さな椀の味噌汁

食卓には、白い皿に盛られたシチューとバゲットが並んでいた。

その横に、小さな椀がひとつ置かれていた。

湯気を立てているのは、豆腐とわかめの味噌汁だった。

「朝の分、まだ食べてないでしょう」

美咲は、少し照れたように笑った。

「一日中、朝のことが気になってたの。あなたの顔、疲れてたのに、私が気づいてあげられなかったから」

「違う。悪いのは俺だ」

言葉が喉につかえた。

それでも私は、ようやく頭を下げた。

「朝は、本当にごめん。皿も、君の味噌汁も」

「いいの。お皿は、割れても買い直せるから」

そう言って、彼女は私の手に箸を持たせた。

私は、まず味噌汁の椀を手に取った。

一口すすると、じんわりと出汁の味が舌にしみた。

朝に見たのと同じ、小さな賽の目に切った豆腐が浮かんでいた。

私が昔、「小さく切ったほうが好きだ」と言ったのを、彼女はずっと覚えていたのだ。

思い出すと、朝の食卓で、豆腐がいつもより丁寧に切り揃えられていたのを、私は見ていたはずだった。

見ていたのに、気づこうとしなかった。

次に、ビーフシチューをスプーンですくった。

肉は箸で崩れるほど柔らかく、人参も玉ねぎも、角が取れて甘かった。

「このシチュー、いつから仕込んだの」

「あなたが出かけたあとから。お昼前に、お肉を買いに行って」

「三時間もかけたのか」

「だって、三時間くらい煮ないと、あなたの好きな味にならないでしょう」

「あの洋食屋さんの味、ずっと真似しようとしてたの。まだ全然届かないんだけどね」

「そんなことない。ちゃんと、あの店の味がする」

それは嘘ではなかった。

少し焦げ目のついた玉ねぎの甘さまで、あの日と同じだった。

私は黙って、シチューを口に運んだ。

口に入れた肉の繊維が、舌の上でほどけていく。

ソースには赤ワインの酸味と、ほのかなコクがあった。

昨日までなら、こういう味を「うまい」の一言で済ませてしまっていただろう。

熱いものが喉を通るたびに、視界がにじんだ。

妻は、私が泣いているのに気づかないふりをして、割れた皿の話を笑い話にしてくれた。

「あのお皿ね、結婚祝いでもらったやつだったでしょう。割れた時、ああ、六年分だったなって思ったの」

「……ごめん」

「でもね、割れた破片を拾ってる時、思ったの。あなたがこんなに疲れてるのに、気づけなかった自分のほうが悪かったって」

私は、箸を持ったまま、何も言えなくなった。

食卓の向こうで、美咲は照れ笑いをしながら、自分の分のシチューをすくっている。

その左手の薬指に、細い絆創膏が巻かれているのに、私はそこで初めて気がついた。

「それ、どうしたの」

「ああ、お皿を拾ってる時に、ちょっと切っちゃって。大したことないよ」

私は、また言葉に詰まった。

割れた皿の破片

食べ終えたあと、二人で並んで皿を洗った。

泡だらけの美咲の手が、私の手に偶然ふれた。

どちらからともなく、指先を握り合った。

窓の外では、遠くを走る電車の音が、夜の底をゆっくり横切っていった。

「ねえ、来週の日曜は、あの洋食屋さんに行こうか」

私がそう言うと、美咲は泡のついた手で口もとを押さえた。

「本当に? 今度は仕事、入れないでよ」

「入れない。約束する」

小指を絡めるような年ではないけれど、私はその時だけ、少年のような気持ちでうなずいた。

その夜、私は久しぶりに、布団に入ってすぐに眠った。

私は、今後は二度と妻に八つ当たりをしないと、固く心に誓った。

それから、少し冷めてしまった小さな椀を、両手で包んだ。

朝の味噌汁、実は本当に食べたかったのだ。

家族の食卓にまつわる話は、ほかにも書いている。祖母の梅干しは年ごとに薄くなると、窓際の端の席に鮭が置かれるもあわせて読んでみてほしい。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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