兄の背中

公開日: 兄弟姉妹 | 心温まる話

兄妹

私が2歳、兄が6歳のとき、両親は離婚した。

その頃の記憶はほとんど残っておらず、「お父さんがいない」ことすら、特に気にした覚えもない。

やがて私が小学生に上がる頃、母は再婚し、私は義理の父を“本当のお父さん”だと思って育った。

それから少しして妹が生まれ、私の中で家族は“幸せな家庭”だった。

だが、そんな幸せは長くは続かなかった。

次第に両親の喧嘩が増え、私はただ怒鳴り合う声が恐ろしくて、まだ首もすわっていない妹を抱いて廊下で泣いた。

自分なりに、「妹に両親の怒鳴り声を聞かせてはいけない」と思ったのか、必死に妹を連れて、二人だけで静かな場所に逃げたことを覚えている。

兄がいるときは必ず私たちを連れ出し、私を宥め、妹を寝かしつけながら、何度もこう言ってくれた。

「大丈夫だから。何も心配いらないよ」

そんな日々が続いた。

まだ若かった母は、朝帰りを繰り返すようになり、育児を放棄。離婚は時間の問題だった。

とはいえ、当時の私に「離婚」という言葉もその意味も理解できるはずもなく、ただ「お母さんがなかなか帰ってこない、寂しい」という感覚だけが心にあった。

ある夜、両親と祖父母がテーブルを囲んでいた。

小学2年生の私にもわかるほど、空気は張り詰めていた。

何を言われたわけでもないのに、私は母親にしがみついていた。

「お母さんと一緒にいる! みんなあっち行って!」

必死に叫び続けた記憶は、今でも鮮明に残っている。

「大丈夫よ」「早く寝なさい」「お母さんはどこにも行かないから」

大人たちが並べる言葉が、どうしてか全部“嘘”だとわかった。

子どもだからわからないだろう、と思われていたのかもしれないが、子どもには子どもなりの直感がある。

「嫌だ! 絶対嫌! お母さんと一緒にいるの!」

私が泣き叫ぶと、祖母がこう言った。

「お母さんは病気なの。入院するだけだから」

すると、他の大人たちも声を揃えて、

「そうそう、すぐ戻ってくるよ」

そんな場当たり的な言葉を並べた。

私は「うそつき! おばあちゃんもおじいちゃんも、みんな嫌い! お母さんはずっと一緒にいるの!」と叫び、床に崩れ落ちた。

そのとき、私を抱きしめてくれたのは兄だった。

「○○、大丈夫だよ。大丈夫だから、一緒に寝よう」

不仲な両親の間で、いつも私を支えてくれた兄は、私にとってヒーローのような存在だった。

兄がそう言ってくれたなら……と、私はぐずりながらも、兄の言葉に従って自室へ戻った。

部屋に戻ってからも、兄はずっと「大丈夫」と言い続けてくれた。

私は「寝たらお母さんがいなくなる」と思いながらも、いつの間にか眠りに落ちていた。

翌朝。

家の中に、母の姿はなかった。

誰に聞いても「入院している」の一点張り。

そして、まるで何もなかったかのように、家族は口々に「おはよう」と言った。

その違和感に苛立ち、私は兄に「嘘つき! お兄ちゃんのバカ!」と怒鳴ったこともある。

その後、私と兄は母方の祖父母に引き取られ、妹は父親の元へ行った。

思春期になり、全てを理解するようになった私は、複雑な感情を抱えながらもなんとか成人を迎えた。

母親との連絡も再び取れるようになったころ、私はずっと胸に抱えていた疑問をぶつけた。

「どうして妹を、私たちを置いて行ったの?」

自らの意思で私たちを置いて出て行ったのなら、私は二度と母親には会わない。そんな覚悟だった。

母の答えはこうだった。

「せめて○○(妹)だけでも連れて行かせてほしいって、何度も頼んだ。でも、お父さんたちが許してくれなかったの」

さらに、兄と私のことも連れて行きたいと願ったが、「一人で出て行け」と強く言われたと。

その話を後に父や祖父母にも確認し、私はようやく知った。

母は、私たちを“捨てた”のではなかった。

私は捨てられたわけじゃなかった。

そう思えた瞬間、涙が止まらなかった。

そのとき、母は涙を流しながら言った。

「お兄ちゃんには、本当に……」

言葉を詰まらせて泣く母に、私は尋ねた。

「何? お兄ちゃんがどうしたの?」

母は、震える声で語り始めた。

「あの日……夜中の3時過ぎだったと思う。物音も立てずに、誰にも会わずに家を出るよう言われて、玄関で靴を履いたそのとき……お兄ちゃんが玄関に来て泣きながら言ったの」

『お母さん、出て行かないで。○○(私)が泣くからここにいて。○○(妹)はまだ赤ちゃんだよ。○○もお母さんがいないとダメだから……僕がちゃんと妹の面倒見るから、お願いだから、行かないで』

その話を聞いたとき、私は号泣した。

当時、小学6年生の兄が、どれほどの想いでその言葉を口にしたか。

翌朝、私に「おはよう」と言った兄の気持ちを想像すると、涙が止まらなかった。

私は自分ばかりが辛いと思っていた。

けれど、すべてを理解していた兄の方が、何倍も辛かったに違いない。

兄は、決してその姿を私には見せなかった。

思春期を迎えた私は、家庭のことですさんでしまい、祖父母や兄にたくさん迷惑をかけた。

けれど、そんな私にいつも寄り添ってくれたのは兄だった。

祖父母と衝突したときも、兄は「頭ごなしに叱るだけじゃなく、話を聞いてあげて」と庇ってくれた。

すべての場面で、兄はいつも私の味方だった。

今こうして大人になって思うのは、私がここまで生きてこられたのは兄のおかげだということ。

もちろん、育ててくれた祖父母、義理の父、そして母にも感謝している。

けれど——私はやっぱり、兄がいたからこそ、ここまで来られた。

妹もすでに成人し、家族のことをすべて理解している。

そんな妹が、こんなことを言っていた。

「お兄ちゃんが一番辛かったと思う。お兄ちゃんが私たちのお兄ちゃんで良かった。自慢のお兄ちゃんだよ」

兄は今、父親になり、小学生の子を育てている。

少し頼りないようにも見えるけれど、きっと子ども時代に甘えられなかった分、今は奥さんにたくさん甘えているのだろう。

妹としては、そのくらい多めに見てほしいなと、密かに願っている(笑)。

この兄の話を思い出すたび、私は思う。

子どもは、わかっていないようで、すべてを見ている。すべてを感じている。

だからこそ、大人の都合で子どもを振り回すことだけは、どうか避けてほしいと、心から願っている。

そして最後に。

お兄ちゃん、本当に、本当にありがとう。
私は、あなたの妹でよかった。

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