母の想い

救急外来の廊下は、いつも同じ匂いがする。

消毒液と、床用ワックスと、誰かの雨に濡れたコートの匂い。

私が看護師として働き始めて、十二年になる。

その匂いに慣れることは、たぶん一生ない。

十一月の夜、時計の針が二時を回った頃だった。

自動ドアが開き、担架が入ってきた。

六十に手が届くくらいの女性。

雨の県道で、路肩を歩いていて車と接触したのだという。

意識はなかった。

身分を示すものを、何ひとつ持っていなかった。

財布も、免許証も、携帯もない。

持っていたのは、擦り切れた布の手提げ袋と、首に下がった小さなペンダントだけだった。

その夜の当直医が、私の同僚である佐伯先生だった。

佐伯先生は三十四歳で、来月に結婚を控えている。

婚約者は、この病院の小児科医だ。

私は二人の式に、受付として立つことになっていた。

佐伯先生には、いくつか有名な話がある。

一つは、この人自身がこの病院で命を拾っているということ。

十七歳のとき、急性の血液の病に倒れた。

型の合う骨髄が見つからないまま、半年が過ぎたのだそうだ。

その後、ドナーが現れ、移植を受け、先生はここへ戻ってきた。

「戻ってきた」というのは、比喩ではない。

先生は、自分が眠っていた病棟の、二つ下の階で働いている。

もう一つは、先生が母親のことを一度も話さないということだ。

先生は父方の祖母に育てられた。

その祖母が亡くなったのは、ひと月ほど前のことだ。

葬儀のあと、先生はいつもより丁寧に手を洗うようになった。

長く、何度も、指の股まで。

私はそれを、廊下から見ていた。

見ていたけれど、何も言わなかった。

言葉というのは、いつも一拍遅れて出てくる。

私自身、母とはもう四年、まともに話していない。

実家は、この病院から電車で二時間の海沿いにある。

盆にも正月にも、勤務表を理由にして帰らずにいた。

理由はある。

けれど、その理由を口に出すと、いつも自分のほうが小さくなる。

母は年に二度、みかんを送ってくる。

段ボールの隙間に、新聞紙が丸めて詰めてある。

その新聞は、いつも私が生まれた町の地方紙だ。

読むところなど、どこにもない。

それでも私は、みかんを出したあと、新聞紙を広げて皺を伸ばしてしまう。

そういう娘が、他人の親子の話をこれから書こうとしている。

処置室で、佐伯先生は淡々と指示を出した。

血圧、酸素、輸液。

声が乱れることは一度もなかった。

家族への連絡が必要だった。

私は、患者さんの首にかかったペンダントに気づいた。

小さな楕円で、蓋が開くようになっている、古い型のものだった。

留め金は錆びていて、爪をかけても動かなかった。

その錆びが、この十何年、開けられていないことを語っていた。

「開けます」

私が言うと、先生は頷いた。

「身元の手がかりがあるかもしれません」

薄い金属の蓋が、こつん、と音を立てて開いた。

中には、写真が一枚。

セピアになりかけた、幼い男の子の写真だった。

前髪を短く切りそろえて、少し困ったように笑っている。

私は、その顔を知っていた。

先生の机の上に、同じ顔の写真立てが置かれている。

七五三の日に撮ったものだと、いつか聞いた。

私は、ペンダントを差し出す手が止まった。

先生は、患者さんの瞳孔を診ていた手を止めて、こちらを見た。

そして、写真を見た。

長い時間、何も言わなかった。

「洗浄、続けてください」

やっと出たのは、それだけだった。

声は、震えていなかった。

震えていないことのほうが、私には怖かった。

その夜の処置を、先生は最後まで自分の手でやった。

本来なら、当直医は交代できる。

交代しますか、と私が言いかけたとき、先生は首を横に振った。

「私が診ます」

声はいつもの高さだった。

点滴の速度を合わせる指が、少しだけ長く針の根元に留まった。

それだけが、いつもと違った。

朝、申し送りの記録に、先生はこう書いた。

「患者は六十代女性。身元確認中。処置は継続。」

続柄の欄は、空白のままだった。

その空白を、私は今でも思い出す。

埋めなかったのではなく、埋められる言葉がなかったのだと思う。

先生の父親が病院に着いたのは、夜が明ける前だった。

背の低い、まっすぐな姿勢の人だった。

長椅子に座り、両膝の上に手を置いて、それから小さく折れた。

そして、私たちに話した。

先生の両親の結婚に、父方の親族は最後まで反対したのだという。

反対を押し切って一緒になったあと、母親は毎日のように言葉を浴びせられた。

眠れなくなり、薬が手放せなくなった。

医師からは、環境を変えるほかないと言われた。

少しのあいだ、実家で休むつもりだった。

けれど、その「少しのあいだ」は、家に戻る扉を閉じてしまった。

何度も息子に会いに来る母親を、祖母は病院に連れて行った。

知り合いの医師に頼み、心を病んでいるという書面を書かせた。

その紙は、家庭裁判所に持ち込まれた。

母親は、息子に近づくことを許されなくなった。

先生が三歳の年のことだった。

「私は」

先生の父親は、そこで一度、言葉を切った。

「私は、あの紙を止められなかった」

廊下の蛍光灯が、じいと鳴った。

その音だけが、しばらく続いた。

ただ一度だけ、母親が息子に会えた日がある。

先生が十七歳、骨髄の型が誰とも合わなかったときだ。

親族を片端から調べ、それでも見つからなかった。

最後に、名前を出してはいけないことになっていた人の名前が出た。

母親は、その日のうちに検査を受けたそうだ。

型は、合った。

母親は、何も求めなかった。

慰謝料も、面会の権利も、名前を戻すことも。

ただ一つだけ、頼んだ。

「眠っているところで、かまいません」

「あの子の顔を、見せてください」

手術の翌日、母親は二十分だけ、同じ病室にいることを許された。

先生は麻酔で眠っていた。

だから、覚えていない。

覚えていない二十分が、先生の体の中に流れている。

その血で、先生は今、他人の腕に針を刺している。

のちに、古いカルテを繰る機会があった。

十七年前の、あの手術の記録だ。

経過欄の隅に、当時の看護師の手書きが残っていた。

「面会二十分。付き添い一名。声かけ不可。」

その下に、もう一行あった。

「付き添い者、退室時に病室の床を拭く。」

理由は書かれていない。

泣いた跡を、消していったのだろうと、私は勝手に思っている。

母親は、床にしゃがみ、自分がこぼしたものを、自分で拭いて帰ったのだ。

面会が許されるのは、眠っている二十分だけ。

その二十分のあいだに、この人は息子の顔を見て、髪に触れることもせず、床を拭いた。

その日の日誌の最後に、当時の師長が短く書き足していた。

「本人希望により、記録に氏名を残さず。」

名前すら、置いていかなかった。

集中治療室の記録を、私は今も思い出せる。

二日間、佐伯先生はほとんど病棟を離れなかった。

輸液の速度を、何度も自分で確かめていた。

指示は正確だった。

正確すぎて、誰も声をかけられなかった。

二日目の夕方、院長が先生の肩に手を置いた。

「あとは、我々が診ます」

「先生は、お母さんの傍にいてあげなさい」

先生は、白衣のポケットに両手を入れたまま動かなかった。

それから、ゆっくりと頷いた。

その夜、先生はずっと母親の手を握っていた。

私は二度、検温に入った。

一度目、先生は母親の指の爪を見ていた。

爪の際に、乾いた土がわずかに残っていた。

畑をしていたのだろうか。

二度目に入ったとき、先生は初めて声を出していた。

「あたたかいです」

誰に言ったのでもない、小さな声だった。

握られたその手が、あたたかいのか。

握っている自分の手が、あたたかいのか。

私には、分からなかった。

たぶん、先生にも分からなかったのだと思う。

明け方、母親は静かに息を引き取った。

病室の窓が、少しずつ白くなっていった。

先生は、母親の手を布団の中に戻し、丁寧に襟元を直した。

そして、深く頭を下げた。

看護師も、当直の研修医も、誰も動けなかった。

先生は、そのあと三十分ほどして、いつもの回診に出た。

そのとき、先生はもう一つだけ、私に頼み事をした。

「あの手提げ袋を、開けてもいいでしょうか」

中身は、たいしたものではなかった。

畳んだハンカチ。

黒い折り畳み傘。

そして、病院の売店で売っている、小さな菓子の箱。

包み紙には、この病院の名前が印刷されていた。

先生は、その箱を長いこと見ていた。

雨の県道は、この病院の裏手へ続いている。

バス停は、正門から歩いて十分だ。

六十を過ぎた人が、傘を差して歩く道ではない。

「近くまで、来ていたんですね」

私が言うと、先生は答えなかった。

菓子の箱を、両手でそっと持ち直しただけだった。

回診中、患者さんの一人に「顔色が悪いね」と言われて、笑っていた。

その笑い方が、いつもと同じだったことを、私は忘れられない。

四十九日を過ぎた頃、私は先生と婚約者に頼まれて、母親のアパートに同行した。

古い木造の二階で、部屋は六畳と台所だけだった。

家財はほとんどなかった。

けれど、壁だけは違った。

壁一面に、幼い先生の写真が貼ってあった。

三歳までのものが、色褪せるほど日に焼けている。

そこから先の壁は、白いままだった。

写真のない空白が、そのまま三十年分の長さになっていた。

押入れを開けた婚約者が、動かなくなった。

段ボールが三つ。

中には、封の切られていない手紙と、包装のままの小さな箱が詰まっていた。

クリスマスの包み紙。

誕生日の、リボンの色。

宛名は全部、先生の名前だった。

そして全部に、赤い判が押してあった。

受取拒絶、と読めた。

送り返され、それでも捨てられなかった三十年が、そこに積んであった。

先生は、床に座り込んだまま、一つも開けなかった。

「開けたら」

先生は言った。

「開けたら、この人が、ずっと待っとったことになるでしょう」

婚約者が、先生の背中に手を当てた。

台所の蛇口から、水が一滴だけ落ちた。

台所の棚には、湯呑みが二つ並んでいた。

一つは使い込まれて、縁が薄くなっている。

もう一つは、新品のまま、値札のシールが底に貼られたままだった。

三十年、誰も座らなかった席の分だ。

冷蔵庫を開けた婚約者が、そっと閉めた。

中には、封を切っていない牛乳が一本と、みかんが四つ入っていた。

みかんの下には、新聞紙が丸めて詰めてあった。

私は、その場でしゃがみ込みそうになった。

自分の台所と、同じことをしている人がいた。

私は流しの縁をつかんで、それをやり過ごした。

やり過ごしたつもりだった。

帰りの電車で、私は母に電話をかけた。

四年ぶりだった。

「あんた、どうしたん」

母の声は、思ったより高かった。

私は、天気の話をした。

そちらは雨か、こちらは晴れている、それだけだ。

母は、みかんの出来がよくないと言った。

私は、じゃあ今年は送らなくていいと言った。

言ってから、しまったと思った。

母は少し黙って、それから笑った。

「送るよ。あんた、新聞紙のばして使うでしょう」

知られていた。

ずっと、知られていた。

通帳が一冊、茶封筒に入っていた。

表紙には、サインペンで先生の名前が書いてあった。

字は、少し右上がりだった。

先生の字と、よく似ていた。

中を開くと、毎月きまった額が入金されている。

金額は小さい。

けれど、途切れている月が一つもなかった。

三十年分だった。

その最後の行に、私は目を落とした。

入金の日付は、母親が県道を歩いていた、その前日だった。

雨の日の前日に、この人は郵便局へ行き、また少しだけ足していったのだ。

先生は、通帳を額に押し当てて、長いあいだ動かなかった。

通帳の最後のページに、鉛筆で書き込みがあった。

「けっこん、するそうです」

たった八文字だった。

新聞で知ったのか、人づてに聞いたのか、それは分からない。

分からないけれど、この人は知っていた。

知っていて、それでも訪ねてこなかった。

訪ねない代わりに、また少しだけ、通帳に足していった。

婚約者が、震える声で言った。

「先生、これ」

「額じゃないです」

「回数です」

入金の回数は、三百六十を超えていた。

一度も、途切れずに。

婚約者は、先生の肩を抱いたまま、天井を見ていた。

その天井の隅に、小さな鈴の飾りが吊るしてあった。

風もないのに、かすかに揺れていた。

いちばん残酷だったのは、そのあと見つかった一通だ。

段ボールのいちばん上、封を切られていない手紙。

差出人は、先生の父親だった。

消印は、二か月前。

祖母が亡くなった、その直後の日付だった。

私たちは、迷った末に、先生の許しを得て封を切った。

短い手紙だった。

息子が結婚すること。

母が亡くなり、もう誰も止める者がいないこと。

今さらだと承知の上で、式に来てもらえないだろうか、ということ。

最後の一行は、震えた字だった。

「三十年、あなたに謝る機会をください」

母親は、この手紙を読んでいない。

読まないまま、雨の県道を歩いていた。

先生は、手紙をたたみ、封筒に戻した。

そして、宛名の面を上にして、写真の壁に立てかけた。

結婚式は、予定どおり行われた。

新婦の隣、新郎の親族席の端に、席が一つ空けてあった。

椅子の上には、あのペンダントが置かれていた。

蓋は、開いたままだった。

写真の男の子は、少し困ったように笑っている。

その笑い方は、白衣を着た今も変わっていない。

披露宴の終わり、先生はマイクの前で長く黙った。

そして、こう言った。

「私の体の半分は、この席の人からもらいました」

「残りの半分で、これから誰かを助けます」

会場は静かだった。

拍手は、ずいぶんあとから起こった。

式のあと、先生は空いた椅子のペンダントを、そっと閉じた。

留め金は、もう錆びていなかった。

誰かが油を差したのだろう。

差したのが誰なのかは、誰も言わなかった。

帰り際、先生の父親が私に頭を下げた。

「あの子が、私を父と呼んだのは」

「三十年ぶりでした」

それだけ言って、雨の中へ出ていった。

傘は、差さなかった。

三か月後、先生は病院にドナー登録の窓口を作った。

掲示板に貼られた紙は、印刷ではなく手書きだった。

右上がりの字だった。

その字を見るたび、私は通帳の表紙を思い出す。

名前を書くという行為は、たぶん、いちばん静かな約束のかたちだ。

窓口の前を通るたび、私は登録用紙の枚数を数えてしまう。

初日は三枚だった。

半年後には、数える必要がなくなっていた。

先生は今も、母親のことを人前で話さない。

話さない代わりに、白衣の胸ポケットに、あの小さな写真を入れている。

角が丸くなるまで、指で触られた写真だ。

触っているのが誰の指なのか、私はもう、どちらでもいいのだと思っている。

三十年遅れて、写真はやっと、あたたかい場所に納まった。

私は今も、あの救急外来の廊下を歩く。

消毒液と、ワックスと、雨のコートの匂い。

その中に、ときどき土の匂いが混ざる気がする。

爪の際に残っていた、あの乾いた土だ。

言えなかった言葉は、たぶんどこにも行かない。

行かないまま、誰かの体の中を回り続けているのだと思う。

だから、電話をかけるなら今日がいい。

用件はなくていい。

天気の話でいい。

受話器の向こうで、息を吸う音が聞こえたら。

それだけで、もう届いているのだと思う。

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