お弁当の蓋を開けるとき、わたしはいつも机の下でこっそりと手元を隠していました。
周りの友達の弁当箱には、彩りよく詰められたおかずが並んでいます。それに比べてわたしの弁当は、茶色いおかずばかりで、卵焼きの形も崩れ、いつも隅のほうがどこか歪んでいました。見られるのが恥ずかしくて、わたしはよく、蓋を立てて中身を隠すようにして食べていたのです。
母は昔から体の弱い人でした。詳しい病名を、当時のわたしは知りませんでした。ただ、朝になると台所で長い時間をかけて、何度も何度もフライパンを持ち直しているのを、わたしは知っていました。知っていて、けれど、そのことをちゃんと考えようとはしませんでした。
思春期のわたしにとって、みすぼらしい弁当は、母への不満のかたちそのものでした。どうしてうちの母は、みんなのお母さんみたいにできないのだろう。そんな身勝手な思いばかりが、胸の中で膨らんでいったのです。
※
幼い頃のわたしは、母の作るごはんが世界でいちばんおいしいと信じていました。
小学校の運動会の日、母のお弁当を広げると、いつも大きな海老フライが並んでいました。まだ体を悪くする前の母は、手際よく衣をつけ、からりと揚げてくれたものです。青いシートの上で、わたしはそれを頬張りながら、得意げに友達に見せていました。
「うちのお母さん、海老フライ作るの上手なんだよ」
母は少し照れたように笑って、「たくさん食べて、午後もがんばってね」と言いました。あの秋晴れの空も、母の割烹着の匂いも、海老のあたたかさも、わたしの中には確かに刻まれていたはずでした。それなのに、成長するにつれて、わたしはいちばん大切な記憶から、目をそらすようになっていったのです。
高校に上がってから、その思いはいっそう強くなりました。
同じクラスの子たちの弁当は、まるで雑誌に載っているようでした。ハート形に抜かれたにんじん、きれいに巻かれた卵焼き、彩り豊かなミニトマト。誰かが「わあ、おいしそう」と声を上げるたびに、わたしは自分の弁当箱を鞄の奥にしまい込みたくなりました。
「あかりのお弁当も見せてよ」
仲のいい友達にそう言われたとき、わたしはとっさに嘘をつきました。
「今日はお弁当忘れちゃって。食堂で食べるから」
そしてわたしは、母が朝早く起きて作ってくれた弁当を、そのまま学校のゴミ箱に捨てました。まだ温かい弁当箱の重みが手のひらに残っていたのを、今でも覚えています。あのときの自分を、わたしは何度、殴ってやりたいと思ったか分かりません。
それが一度きりではありませんでした。わたしは来る日も来る日も、食堂で昼食を買い、母の弁当を人目につかないゴミ箱に捨て続けたのです。
※
高校では、お弁当の時間が近づくたびに、わたしの胃はきりきりと痛みました。
華やかな弁当を囲んで笑い合う友達の輪に、わたしは自分の弁当箱を持って加わることができませんでした。
「あかりって、いつも一人で食べてるよね。一緒に食べようよ」
親切でそう誘ってくれる子がいるほど、わたしは惨めな気持ちになりました。あの茶色い弁当を、彩りのいい弁当の隣に並べることが、どうしてもできなかったのです。今思えば、恥ずかしかったのは弁当ではなく、母の思いを恥じていた、自分自身の心のほうでした。
家に帰ると、母はいつも決まって同じことを尋ねました。
「今日のお弁当、どうだった?おいしかった?」
わたしは目も合わせずに、「うん、まあ」と生返事をするだけでした。母はそれでも嬉しそうに、「そう、よかった」と微笑むのです。その笑顔を見るたび、わたしは後ろめたさから逃げるように、自分の部屋の扉を閉めました。
母の手が、少しずつ思うように動かなくなっていることに、わたしは気づいていました。箸を落とす回数が増え、湯呑みを持つ手が、時折小刻みに震えていました。それでも母は、毎朝わたしのために台所に立ちました。わたしはその背中を、見て見ぬふりをしていました。
※
母の手が震えはじめたのは、わたしが中学生になった頃でした。
ある日、母が味噌汁のお椀を運ぶとき、手元が揺れて、少しこぼしてしまったことがありました。母はとっさに笑ってごまかしました。
「あら、いやだ。お母さん、ちょっと疲れてるのかしらね」
その笑顔の奥にあったものを、わたしは見ようとしませんでした。台所で母が、震える右手を左手でそっと押さえているのを、廊下からちらりと見たこともありました。それでもわたしは、声をかけませんでした。心のどこかで、見なかったことにしたかったのだと思います。
ある秋の朝のことでした。
食卓に弁当箱を置きながら、母がいつになく明るい声で言いました。
「今日はね、あかりの大好きな海老、入れといたよ」
海老は、幼い頃のわたしがいちばん好きだったおかずでした。運動会のお弁当に海老フライが入っていると、それだけで一日がうれしくなった、そんな記憶があります。けれど、そのときのわたしは、もうそんな昔のことなど忘れたふりをしていました。
「ふうん」
わたしはそっけなく答えて、弁当を鞄に押し込み、家を出ました。学校に着いてから、わたしはトイレの個室で、こっそり蓋を開けてみました。確かに海老は入っていました。けれど殻の剥き方はいびつで、身はちぎれかけ、周りのおかずも色あせて見えました。
その不格好な海老を見た瞬間、わたしの胸に湧いたのは、感謝ではなく、苛立ちでした。どうして、もっとちゃんとできないの。そんな理不尽な怒りに、わたしは支配されていました。そしてその日も、わたしはその弁当を、食べずにゴミ箱へ捨てました。
※
その日の夕方、家に帰ると、母はまた尋ねました。
「今日のお弁当、海老、おいしかった?」
いつもより少し弾んだ、期待のこもった声でした。けれどその日のわたしは、部活のことで気が立っていて、いつもの弁当への不満も、胸の奥で限界まで膨らんでいました。
そして、言ってはいけない言葉が、口をついて出てしまったのです。
「うるさいな。あんな汚いお弁当、捨てたよ。もう作らなくていいから」
言った瞬間、母の顔から、すっと色が消えていくのが分かりました。台所に立ったまま、母はしばらく何も言いませんでした。それから、絞り出すように、小さな声で言いました。
「そう……。気づいてあげられなくて、ごめんね」
その謝罪の意味を、そのときのわたしは、まるで分かっていませんでした。ただ、気まずさから逃げるように、わたしは自分の部屋に駆け込みました。
そしてその日を境に、母は二度と、弁当を作らなくなりました。
※
わたしは内心、少しほっとしていました。
これでもう、恥ずかしい弁当を隠さなくてすむ。そんなふうにさえ思っていたのです。母がなぜ弁当をやめたのか、その本当の理由を考えようともせずに。
朝の台所から、フライパンの音が消えました。母が食卓に座っている時間が、少しずつ長くなっていきました。顔色が悪くなり、痩せていく母を見ても、わたしは「疲れているのだろう」くらいにしか思いませんでした。
わたしは、いちばん大切なことから、ずっと目をそらし続けていたのです。
※
母が弁当を作らなくなってから、朝の台所は、ひどく静かになりました。
それまで当たり前に聞こえていた、フライパンの音も、まな板を叩く包丁の音も、ふっと消えてしまいました。わたしはその静けさを、せいせいした気持ちで受け止めていました。
母は食卓の椅子に座って、ぼんやりと窓の外を眺めていることが増えました。ときどき、何か言いかけて、けれど飲み込むように口をつぐむのです。あのとき母は、わたしに何を伝えようとしていたのでしょう。今となっては、確かめるすべもありません。
わたしは毎朝、コンビニのパンを片手に、母に「行ってきます」も言わずに家を出ていました。その背中を、母がどんな目で見送っていたのか、想像するだけで胸が締めつけられます。
それから半年後の、寒い朝でした。
母は、わたしの知らない病気で、静かに旅立ちました。手の震えも、動かなくなっていく体も、すべてその病のせいだったのだと、わたしはそのとき初めて知りました。母はずっと、痛みや不安を一人で抱えたまま、それでも毎朝、震える手で、わたしのために台所に立ってくれていたのです。
葬儀が終わり、母の遺品を整理していたときのことでした。
箪笥の引き出しの奥から、一冊の古い日記帳が出てきました。表紙の擦り切れたその日記には、母の丸い文字で、毎日の出来事が綴られていました。そしてそのほとんどが、わたしの弁当のことばかりだったのです。
『手の震えが止まらず、上手に卵が焼けない。あかりに笑われないといいけれど』
『今日はミニトマトを飾ってみた。少しは可愛くなったかな』
『あかりが、おいしいと言ってくれた。それだけで、明日も頑張れる』
わたしの指が震えました。母は、わたしのそっけない生返事を、本気で信じてくれていたのです。捨てられていたことなど、想像もせずに。
※
日記のページを、わたしは震える手でめくり続けました。
『あかりは反抗期なのね。話しかけても、うるさそうにするけれど、それも成長の証。元気でいてくれるだけで、お母さんは幸せ』
『最近、体がつらい。でも、あの子が学校を出るまでは、なんとか元気でいたい。お弁当だけは、続けたい』
そこには、恨み言など、ただの一行もありませんでした。あるのは、わたしを案じる言葉と、母であり続けようとする、静かな決意だけでした。わたしがどれほど冷たく当たっても、母のノートの中のわたしは、いつまでもかわいい娘のままだったのです。
そして、日記の最後のページに、わたしは、あの日の日付を見つけました。
『今日は、あかりの大好きな海老を入れた。相変わらず体が思うように動かなくて、ぐちゃぐちゃになってしまったけれど……喜んでくれると良いな』
日記は、その一行で、ぷつりと終わっていました。
喜んでくれると良いな。
その言葉を読んだ瞬間、わたしは日記帳を抱えたまま、その場に崩れ落ちました。あの不格好な海老は、震える手で、母が最後の力を振り絞って剥いてくれたものだったのです。わたしのいちばん好きだったおかずを、少しでも喜ばせたい一心で。
それを、わたしは「汚い」と言って、食べもせずに捨てたのです。
※
母が亡くなってから、わたしは料理を覚えるようになりました。
いつか自分に子どもができたら、その子のために、あたたかいお弁当を作ってあげたい。そう思うようになったのです。海老の殻を剥くたびに、わたしはあの日の母の、震える指を思います。こんなにも細かく、こんなにも面倒な作業を、母は動かない手で、わたしのためにしてくれていたのだと。
「お母さん、今日はね、上手に剥けたよ」
台所に一人で立ちながら、わたしはときどき、そう声に出してみます。返事は、もちろんありません。それでも、窓から差し込む朝の光が、あの頃の台所の光と重なって、母がすぐそばにいるような気がするのです。
母の葬儀の日、親戚のおばが、そっとわたしに耳打ちしました。
「お母さんね、あなたのお弁当を作るのが、毎朝の生きがいだったのよ。手が動かなくなっても、あなたのためならって、必死だったの」
その言葉は、鋭い刃のように、わたしの胸を貫きました。母は、自分の残された時間の多くを、わたしの弁当という、たった一つのことに注いでいたのです。そしてわたしは、その一つひとつを、人目につかないゴミ箱に投げ捨てていました。
おばの前で、わたしは声を上げて泣くこともできませんでした。ただ、遺影の中で優しく微笑む母を見つめながら、体の芯が冷えていくのを感じていました。
どうして、あの日、一口でも食べてあげなかったのだろう。
どうして、おいしかったよ、と、ただ一言、伝えてあげなかったのだろう。
母が本当にほしかったのは、彩りをほめる言葉でも、上手な卵焼きでもありませんでした。ただ、あなたのために作ったよ、という思いを、受け取ってほしかっただけなのです。それに気づくのが、わたしはあまりにも遅すぎました。
今でも、海老の入った料理を見るたびに、わたしの目からは涙が溢れます。後悔と、情けなさと、そして、伝えそびれてしまった感謝が、胸の奥からこみ上げてくるのです。
お母さん。あのお弁当は、この世でいちばん、あたたかいお弁当でした。ちゃんと食べればよかった。ちゃんと、ありがとうって言えばよかった。
母の使っていた古い弁当箱は、今もわたしの手元にあります。角の塗りが剥げ、蓋のとめ具も少し緩んだ、なんの変哲もない弁当箱です。けれどわたしにとっては、母の愛情がそのまま形になったような、宝物です。ときどき取り出して、そっと蓋を開けてみます。もう何も入っていない空っぽの箱から、それでもわたしには、あの日の海老の匂いが、確かに立ちのぼってくるのです。
届かないと分かっていても、わたしは今日も、心の中で手を合わせます。あの日の海老の味を、わたしは一生かけて、想像し続けるのだと思います。
あの海老の味を、わたしは結局、一度も知らないままです。けれど、その味を想像しようとするたびに、母がわたしに注いでくれた愛情の深さを、あらためて思い知らされます。知らないからこそ、わたしは一生、母を想い続けるのでしょう。
あれから長い年月が経ちましたが、後悔は少しも薄れることがありません。
むしろ、自分が親と呼ばれる年齢に近づくほど、母のあの弁当に込められた思いの深さが、痛いほど分かるようになりました。誰かのために、毎朝欠かさず食事を作るということが、どれほどの愛情なのかを。
もし、たった一度でいいから、あの日に戻れるなら。わたしは母の作った不格好な海老を、一つ残らず食べて、こう言うでしょう。
「お母さん、すごくおいしかったよ。ありがとう」
その一言を、母はどれほど聞きたかったことでしょう。伝えられなかった言葉は、伝えられなかったぶんだけ、いつまでも胸の奥で重さを増していきます。だからこそ、わたしはこの話を、あなたに聞いてほしいのです。大切な人の作ってくれたものを、思いごと受け取れるのは、当たり前のようでいて、限りある時間の中の、かけがえのない幸せなのですから。
今になって思えば、母の朝は、想像を絶するほど早かったはずです。
健康な人でも億劫な弁当作りを、思うように動かない体で仕上げるには、人の何倍もの時間がかかったことでしょう。まだ夜も明けきらない台所で、母は一つの卵焼きを焼くために、何度もフライパンを持ち直していたに違いありません。
焦げてしまえば、また初めから。形が崩れれば、ため息をつきながらやり直す。それでも母は、既製品で済ませることをしませんでした。手作りのぬくもりだけは、娘に渡したかったのだと思います。
わたしはそのぬくもりを、味わうことすらせずに、冷たいゴミ箱の底へ捨てていました。母の朝の時間の重みを、わたしはあまりにも軽く見ていたのです。