
私はかつて、妻と一人娘の三人で暮らしていた。
だが、娘が1歳と2ヶ月になった頃、離婚することになった。
原因は、酒に溺れた私だった。
酒癖が悪く、時には暴力的にもなった。
娘にまで手をかけてしまうのではないかと恐れた妻が、我が子を守るために選んだ道だった。
※
私は、自分がしてしまったことを、心の底から悔やんでいる。
そしてそれ以来、どんな付き合いの場でも酒は一滴も飲まないようにしている。
だからといって、「よりを戻してくれ」とは言うつもりもないし、言える立場でもないことも解っている。
ただ、元妻と娘には心から幸せになってほしい。
その気持ちにだけは、嘘はなかった。
※
離婚にあたって、妻と二つの約束を交わした。
ひとつは、年に一度、娘の誕生日だけは会いに来てもよいということ。
もうひとつは、そのときに自分が“父親”であることは決して明かさないこと。
それは私にとって、ひどく苦しい約束だった。
だが、娘にとってそれが最良だと理解していた。
会えるだけでも、感謝しなければならなかった。
※
娘の誕生日が近づくと、私はスーツに着替えてプレゼントを持ち、母子の暮らす家を訪ねた。
元妻は、私のことを「遠い親戚のおじさん」と紹介してくれた。
娘は、最初こそ警戒していたが、次第に打ち解けてくれた。
冗談まじりに「見知らぬおじさん」と呼ばれることもあったが、それすらも愛おしかった。
三人で近所の公園を散歩することもあった。
通りすがりの人には、仲睦まじい家族に見えただろう。
そのひとときが、私には何にも代えがたい幸せな時間だった。
※
それが、ずっと続いてほしかった。
年に一度のこの日のために、私は酒をやめ続けることができた。
だが、それもいつか終わるということを、私はどこかで予感していた。
※
娘が小学校に上がる年のことだった。
いつものようにスーツを着て、プレゼントを持って玄関に立つと、元妻の表情が曇っていた。
「ごめんなさい。もう、今年で最後にしてほしいの」
そう告げられた。
娘が物心ついて、色んなことを理解しはじめている。
それが、彼女の理由だった。
※
私には、その言葉の意味が痛いほど分かった。
娘は、これから誕生日を祝ってくれる友達もできる。
元妻にも、きっと新たな生活があるのだろう。
そんななかに、「見知らぬおじさん」が現れ続けるわけにはいかない。
ただ、私はひとりだけ――過去に取り残されていた。
年に一度のこの時間を繰り返すことで、いつか娘が「お父さん」と呼んでくれる日が来るかもしれないと、本気で思っていた自分が、今は情けなかった。
一度壊れたものは、どんなに願っても、もう元には戻らない。
※
「見知らぬおじさんだ!」
玄関に顔を出した娘が、満面の笑みで言った。
「きょうは遊びにいかないの?」
「……今日はね、おじさん行かなきゃいけないんだ」
「なんだ、ざんねん!」
私は、限界まで目を瞑った。
そして、手を振る娘の姿を、まぶたの裏に焼き付けた。
「ごめんね。元気でね」
「バイバイ!」
それが、娘と交わした最後の言葉だった。
※
それからも、どうしても娘の誕生日だけは忘れることができなかった。
私は、差出人のない小包にささやかなプレゼントを詰めて、毎年送り続けた。
筆箱や文庫本、手袋やポーチなど、娘の年齢を想像しながら選んだ。
受け取ってもらえたかは分からない。
元妻が渡してくれていたのかも分からない。
それでも、その日が近づくたびに胸が高鳴った。
それが、私にとって唯一の“楽しみ”だった。
※
ただ、そろそろ終わりにしようと決めていた。
娘が中学生になる年、最後に英語の辞書を贈った。
私のことなど知らないでいい。
これ以上、娘の人生に影を落とすようなことはしたくなかった。
これで、完全に“区切り”をつけるはずだった。
※
ところが――
最後の荷物を送ってから一ヶ月ほどが過ぎたある日。
私のアパートに、小さな小包が届いた。
差出人の欄は空白だった。
不思議に思いながら箱を開けると、中から出てきたのは、水色のネクタイピンと一枚のメッセージカードだった。
封を開け、カードを読む。
震えるような、けれど一生懸命な文字でこう綴られていた。
※
『いつも、素敵なプレゼントをありがとう。
私もお返しをしようと思ったのだけど、誕生日がわからなかったので(汗)
今日、送ることにしました。
気に入るかなあ…。
見知らぬ子供より』
※
その場で、時間が止まった。
頭の中がぐるぐると混乱し、心は言葉にならない感情で満たされた。
やがて、止めようもなく涙があふれてきた。
最後には、声を上げて泣いた。
※
ふと、壁にかけたカレンダーに目をやった。
その日は――6月の第3日曜日だった。
『父の日』だった。