父が最後にかけた電話

日の出と静かな桟橋

父が死んだと聞いたのは、離島行きのフェリーの中だった。

東京で暮らす私のもとに、島の診療所から連絡が来たのは三月の終わりのことだった。「お父様が倒れまして」という看護師の声は、波の音に混じって途切れ途切れだった。私はその日のうちに羽田へ向かい、飛行機とフェリーを乗り継いで、十五年ぶりに生まれた島に向かっていた。

フェリーが港に着く十分前、もう一度電話が鳴った。同じ看護師の声だった。「先ほど、息を引き取られました」。私は受話器を握ったまま、甲板に出て、灰色の海を見つめた。何も感じなかった。涙も出なかった。それが正直な気持ちだった。

私はピアノの調律師をしている。東京の小さな工房に所属し、依頼を受けて個人宅やピアノ教室、時には小さなホールを回る日々だった。繊細な音のずれを聴き分け、一本一本の弦を正しい響きに整えていく。ハンマーの角度をわずかに変えるだけで、ピアノの声は驚くほど変わる。そうやって、人の暮らしのなかにある音楽を静かに整えることが、私の生き方だった。

けれど、私自身の家庭の音は、ずっとずれたままだった。

父は漁師だった。朝の三時に起きて海に出て、昼過ぎに戻って、焼酎を飲んで寝る。それが父の一日だった。日焼けした太い腕と、潮で荒れた手のひら。言葉の少ない人だった。私が子供の頃、島の小学校にあった古いアップライトピアノに夢中になっても、父は何も言わなかった。発表会の日も、教室の後ろで腕を組んだまま、拍手すらしなかった。褒めもしなければ、叱りもしない。ただ黙って、家に帰ると焼酎のグラスを傾けていた。

中学を卒業するとき、私は島を出たいと言った。本土の高校に進学して、いずれはピアノに関わる仕事をしたいと伝えた。父は食卓の向こうで、焼酎のグラスをゆっくりと置いた。そして一言だけ言った。「漁師にならんのか」。

私は答えた。「ならない」。

父はそれ以上何も言わなかった。翌朝もいつも通り三時に起きて、海に出て行った。見送りの日、港には母だけが立っていた。父の姿はなかった。

それから十五年、私は一度も島に帰らなかった。

母とは時々電話で話した。父の話題が出ることもあったが、私はいつも聞き流した。母は「お父さんも元気だよ」と言うだけで、それ以上は何も言わなかった。父から電話がかかってくることは、一度もなかった。

正確に言えば、一度だけあった。三年前の正月、見慣れない番号から着信があった。出ると、数秒の沈黙のあとに通話が切れた。折り返すと母が出て、「お父さんが間違えてかけたみたい、ごめんね」と笑った。私は「そう」とだけ答えて電話を切った。

東京での生活は充実していた。仕事は順調で、指名をくれるお客さんも増えた。コンサートホールのグランドピアノを任されたこともあった。けれど、夜中にふと目が覚めると、潮の匂いを思い出すことがあった。父が漁から帰ってきたときの、磯と汗が混じったあの匂い。そのたびに私は布団を頭から被って、無理やり眠りについた。

島に着いたのは夕方だった。港に降り立つと、潮風が頬を叩いた。何も変わっていなかった。錆びた防波堤も、色あせた漁協の看板も、坂の上に並ぶ古い家々も。変わったのは私だけだった。

実家に着くと、母は玄関で待っていた。十五年分の歳月が母の背中を小さくしていた。白髪が増えて、腰も少し曲がっていた。母は私の顔を見ると、「遅かったね」とだけ言って、中へ招き入れた。責めるような口調ではなかった。ただ、事実を述べただけだった。

居間に父の遺体が横たわっていた。白い布がかけられ、枕元に線香が一本、細い煙を上げていた。父の顔は思っていたより穏やかだった。皺が深くなり、髪はすっかり白くなっていたが、口元にはかすかな笑みのようなものが浮かんでいた。

「苦しまなかったよ」と母が言った。「朝、起きてこないから見に行ったら、もう」。

私は父の顔をしばらく見つめてから、畳に正座した。何か言おうとしたが、言葉が見つからなかった。十五年間、一度も会わなかった父に、今さら何を言えばいいのか分からなかった。

葬儀は島の小さな寺で行われた。漁師仲間や近所の人たちが集まり、父の棺を囲んだ。皆が口々に「良い漁師だった」「真面目な人だった」「困った時はいつも助けてくれた」と言った。ある老漁師は「あんたのお父さんは、若い衆の船が故障した時、自分の漁を中断してでも助けに行く人だった」と教えてくれた。私はその言葉を聞きながら、自分の知らない父の姿を思い描いていた。

葬儀の翌日、母が父の部屋の片付けを始めた。私も手伝った。古い漁具、色あせた航海日誌、焼酎の空き瓶。父の人生を物語るものばかりだった。押し入れの奥から、古い段ボール箱が出てきた。

開けると、中には一台の古い携帯電話が入っていた。十年以上前の折りたたみ式のガラケーだった。画面には無数の小さな傷がついていて、ボタンの文字はところどころ消えかけていた。

「ああ、それ」と母が言った。「お父さん、ずっとそれ持ってたよ。新しいのに変えてからも、捨てないでって言って」。

私は何気なく携帯を開いた。電池はとっくに切れていた。母が充電器を探してきてくれた。しばらくすると、画面に薄い光が灯った。

発信履歴を開いた。そこには、私の名前がずらりと並んでいた。

日付を見ると、月に一度、必ず私の番号に発信した記録が残っていた。深夜二時や三時の時刻。漁に出る前の時間だった。そしてそのすべてが、数秒で通話終了になっていた。一度もつながっていなかった。いや、正確には、つなげていなかったのだ。

父は毎月、私に電話をかけようとして、呼び出し音が鳴る前に切っていた。

「お父さんね」と母が静かに言った。「毎月かけてたよ。漁に出る前にね。でも、いつも切ってた。何て言えばいいか分からないって。お前に嫌われとるのに、何を話せばいいんかって」。

私は携帯を握りしめた。画面がぼやけた。涙が落ちて、古い液晶の上に小さな水たまりを作った。

「一回だけ、つながったことがあったんよ」と母が続けた。「三年前の正月。お父さん、すごく嬉しそうだった。でも、声を聞いたら何も言えなくなって、切ってしまったって。そのあと一晩中、後悔してたよ」。

あの正月の着信。間違い電話だと思っていた。母が「間違えてかけた」と言ったのは、父のプライドを守るための嘘だったのだ。

私は携帯の録音フォルダを開いた。一件だけ、ファイルが保存されていた。日付は先月のものだった。再生ボタンを押すと、波の音が聞こえてきた。早朝の港だろう。カモメの声が遠くで鳴いていた。

そして、父の声が聞こえた。

「……元気でやっとるか」

それだけだった。たった一言。かすれた、低い声。波の音に混じって、ほとんど消えそうなほど小さな声。だが、その声には十五年分のすべてが詰まっていた。

母が言った。「お父さん、病院で自分がもう長くないって聞いてから、何度も練習してたよ。電話で何を言うか。でも結局、録音しただけで、かけられなかったんだけどね」。

私はその夜、父の部屋で一人になった。畳には父の匂いがまだ残っていた。潮と、焼酎と、日に焼けた肌の匂い。私は古い携帯を胸に抱いて、電気を消した。暗闇のなかで、父が毎朝この部屋で目を覚まし、海に出る支度をし、そのわずかな合間に私の番号を呼び出していたことを思った。眠れなかった。

翌朝、目が覚めると、窓の外に海が広がっていた。朝日が水面に反射して、部屋の中に淡い金色の光が揺れていた。父が毎朝見ていた景色だった。この光の中で、父は毎月、私に電話をかけようとしていたのだ。

私は港に降りて行った。父がいつも船を出していた場所に立ち、携帯を開いた。もう一度、あの録音を再生した。波の音。カモメの声。そして、父の声。

「……元気でやっとるか」

私はようやく、答えた。

「元気だよ、父さん」

声は波に溶けて、どこまでも遠い海の向こうへ流れていった。

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