彼は二十一回空身で登った
泣ける話。昭和の山頂測候所で三時間ごとの観測を続けた私と、雪の道を荷を担いで上がってきた歩荷の保坂さん。ひとりで冬を回したあの年、彼は三日に一度登ってきた。四十…
胸が締め付けられるような、あの感覚。泣けるほど悲しいわけではないのに、なぜか心のどこかに引っかかって残る話があります。後悔、別れ、言えなかった言葉。切なさの中にこそ、人が生きる美しさがある——そんな短編をまとめました。
泣ける話。昭和の山頂測候所で三時間ごとの観測を続けた私と、雪の道を荷を担いで上がってきた歩荷の保坂さん。ひとりで冬を回したあの年、彼は三日に一度登ってきた。四十…
夜の峠で車の救援をする私は、十一年前、恋人だった彼にひとつだけ頼まれた。峠の霧が晴れる瞬間を見てきてほしい、と。報告するたび彼が聞いたのは「何時何分?」だけだっ…
二十年前「あんたは向いとらん」と私を切り捨てた元上司が、山の集落で毎週わたしの魚を買い続けた。泣ける話の長編。捌かなくていいと言い続けた理由と、集落に人が並んで…
昭和四十九年、瀬戸内の離島に渡った二十歳の郵便配達員は、船着場に毎日立つ老女から宛名のない一通を託されました。五十年後、閉局の日に封を開けて分かった、あの人が待…
十九で紺屋に弟子入りした私は、二十三年連れ添った兄弟子の帳面を盗み見た。九つの甕の図と、川下へ下る朝の便の時刻。黙って戻した帳面は、その日から一寸だけ左に寄って…
四十年前に私を無視した同級生が、二十年ものあいだ匿名で私の漉いた和紙を頼み続けていた。備考欄にはいつも同じ一行だけ。切り落とされる紙の耳こそが破れた本を継ぐ材料…
十九で畳屋に嫁いだ私は、十年ものあいだ仕事場に入れてもらえなかった。義母は褒めず、教えず、座敷の上座の一枚だけを誰にも踏ませなかった。二十六年ぶりに畳を上げ替え…
猫と家族の泣ける話。昭和四十七年、雪深い町の活版印刷所で、文選工の伯母は私が拾った子猫の名を十年間ただの一度も呼ばなかった。情のない人だと思っていた。前掛けに入…
利根川べりの河岸の町で左官を続けた姉と、七つで黙ることを選んだ弟。父が最後に残した蔵の鏝絵の人影は、三つではなく四つだった——兄弟姉妹の泣ける話。六十四年後に白…
女人禁制の霊山を担ぐ強力の俺と、頂を焦がれた許婚のスズ。彼女が遺した黄楊の櫛に託された『片割れが待っている』という言葉の本当の意味を、俺は雲海の頂で知る。昭和の…
教室で一年間声が出せなかった十四歳のわたしに、担任は給食の献立だけを読ませた。〈壁に読め〉と鉛筆で書かれた藁半紙。十四年後、声を失った恩師が病室で綴った一枚の筆…
昭和四十四年、雪深い湯の町の写真館。療養に来た娘・佐紀さんに頼まれ、僕は毎日一枚だけ町を撮った。裏を見ないでとわたした写真の、その裏に綴られていた言葉――万華鏡…
昭和の造船の町で、船大工見習いの俺は幼馴染の千代に想いを伝えたばかりだった。突然倒れた彼女の枕元で、俺は「いつか乗せて」と約束した小さな木の舟を彫り続けた。最後…
海辺の町の小さなプラネタリウムで星を映す私と、心臓の弱い幼い少女ほのか。名もない星に名前をつけたあの子が、落とした星座ノートの最後の頁にそっと描き残していたもの…
紙芝居師の私が、祖母の形見の木箱から見つけたのは、端の焦げた朝顔の絵。その裏には、空襲で戻らなかった幼い弟の名前が、震える字で記されていた。祖母の紙芝居が六十年…