継母が土佐の言葉で笑った日
顔合わせの席で、継母が婚約者の祖母と土佐の言葉で笑い合った。少し高くて語尾の跳ねる、私の知らない声だった。12歳の春に「この家で、そのしゃべり方しないで」と言っ…
胸が締め付けられるような、あの感覚。泣けるほど悲しいわけではないのに、なぜか心のどこかに引っかかって残る話があります。後悔、別れ、言えなかった言葉。切なさの中にこそ、人が生きる美しさがある——そんな短編をまとめました。
顔合わせの席で、継母が婚約者の祖母と土佐の言葉で笑い合った。少し高くて語尾の跳ねる、私の知らない声だった。12歳の春に「この家で、そのしゃべり方しないで」と言っ…
室井の補修跡は、いつも指二本ぶん左へ伸びていた。材料の無駄だと10年言い続けて、俺は一度も謝らないまま同期を見送った。一人で直した去年の穴は、春にぜんぶ左から割…
ついたちの朝にだけ、私は疎開してきた四十二人の背を測り、庫裏の柱に小刀で線を入れた。食べるものは減る一方なのに、柱の傷あとはどの子も毎月きっかり三分ずつ上がって…
断水した町の体育館で、給水の列のいちばん後ろに、その人は青いポリタンクを二つ提げて立っていた。一世帯20リットルまでのはずだ。私は勝手に腹を立てていた。やがて列…
トメはいつも階段の四段目にいた。三段目でも五段目でもなく、その段だけが家でいちばんくたびれている。12年ぶりに実家へ戻った俺は、母が直すなと言い張るその板を、入…
夜になると、フクは玄関で一度だけ短く鳴いて出かけていった。前脚の内側を灰色に汚して、朝には帰っている。夜だけ出かける犬の行き先を、私は薄々知っていて、確かめには…
返信が途絶えた一時間後に届いた、最後の一言。病室で綴られた日記、渡しそこねた指輪、ごみ箱から見つかった手紙。恋愛の泣ける話を十八本、言えなかった言葉・遺された文…
夜勤明けの水曜の朝だけ、私の冷蔵庫から卵がふたつ減る。三年のあいだ、朝ごはんを作りに来る後輩を私は鬱陶しく思っていた。どうせ憐れまれているのだと。彼女が島へ発つ…
泣ける話・長編。半島の集落で俺を育てた隣家のトキさんは、渡船に乗らず峠を歩き、いつも俺を右側に立たせた。十五の夏の約束を果たせないまま別れて三十年、廃止される渡…
十七で硝子工場に入った俺の瓶を、七つ上の検品係すずさんは毎日そっと合格の箱へ入れていた。泣ける話としてお届けする長編の感動短編。五十八年後に口の右へ寄った一本が…
毎月おなじ一行だけを刷りに来た井戸掘り職人に、活版所の文選工だったわたしは勝手な一言を足した。いらんと言われたその紙を、五十年後に見知らぬ老女が財布の奥から出す…
踵のゴムを替えて――彼はそう言って明日と笑い、明日は来なかった。義肢装具士の私が二十八年抱えた泣ける話。告別式でひとことも言葉をくれなかった彼の母と、二十八年後…
昭和のオホーツク沿岸。漁業無線局の見習い通信士だった俺は、顔も知らないまま声だけで知り合った娘に、見栄の嘘ばかりついていた。流氷が好きだと言い合った三年半の終わ…
泣ける話。昭和の山頂測候所で三時間ごとの観測を続けた私と、雪の道を荷を担いで上がってきた歩荷の保坂さん。ひとりで冬を回したあの年、彼は三日に一度登ってきた。四十…
夜の峠で車の救援をする私は、十一年前、恋人だった彼にひとつだけ頼まれた。峠の霧が晴れる瞬間を見てきてほしい、と。報告するたび彼が聞いたのは「何時何分?」だけだっ…