宛先のない手紙

小さな郵便局と王のひなた

その島の郵便局に赴任したのは、二十五歳の春だった。

船着き場から続く坂を上り、潮風に錆びた看板を見上げたとき、ここが私の新しい職場なのだと実感した。

東京の本局で三年間、毎日のように怒鳴られ、笑い方を忘れかけていた私にとって、逃げ場所が必要だったのだと思う。

島の郵便局は小さかった。

局員は私一人で、午後三時を過ぎると窓口に人が来ることはほとんどない。

島の人口は二百人ほどで、届く郵便も出る郵便も、東京にいた頃とは比べものにならないくらい少なかった。

けれど唯一、毎週金曜日の午前十時に必ず現れる人がいた。

佐伯正一さん、八十二歳。

元灯台守だと、島の診療所の看護師さんが教えてくれた。

白髪を短く刈り込み、日に焼けた顔に深い皺を刻んだ佐伯さんは、いつも左手に小さな木彫りの鳥を握っていた。

翡翠色に塗られたカワセミの木彫りを、窓口のカウンターにそっと置いてから、葉書を一枚差し出す。

それが佐伯さんの、毎週変わらない所作だった。

宛先はいつも同じだった。

鹿児島市内の住所に、「佐伯千鶴子様」と丁寧な楷書で書かれている。

裏面にはびっしりと、小さな文字が並んでいた。

私は葉書を受け取り、切手を確認し、「お預かりします」と言う。

佐伯さんは小さく頭を下げ、カワセミをポケットに戻して帰っていく。

その背中を見送りながら、私はいつも思った。

千鶴子さんというのは、奥様だろうか、と。

その繰り返しが半年ほど続いた頃、私はあることに気づいた。

佐伯さんの葉書が、毎回「あて所に尋ねあたりません」のスタンプを押されて戻ってきていたのだ。

最初の一枚を見たとき、単なる住所の誤記だろうと思った。

次の金曜日に確認しようと思いながら、けれどその日が来ると、佐伯さんはいつもと同じ穏やかな顔で葉書を差し出した。

宛先は前回と一字一句同じ住所、同じ名前。

言い出せなかった。

戻ってきた葉書は週を追うごとに増えていった。

私は処分できず、窓口の下の引き出しにそっとしまった。

気になって仕方がなくなり、月に一度の休みの日に鹿児島の本土へ渡った。

フェリーで二時間、バスを乗り継いで、佐伯さんの葉書に書かれた住所を訪ねた。

そこには、更地が広がっていた。

雑草の間にコンクリートの基礎だけが残り、かつて建物があった痕跡がわずかに見えた。

近くの商店の女性に聞くと、眉をひそめてから教えてくれた。

「ああ、あそこは五年前に取り壊されましたよ。古いアパートでね」

「佐伯千鶴子さんという方が住んでいらっしゃったんですが」

女性は少し声を落とした。

「七年前にお亡くなりになったんです。ずっとお一人で暮らしてらして」

私は言葉を失った。

佐伯さんは、もう届くはずのない場所に、七年もの間、毎週葉書を送り続けていたのだ。

島に戻る船の中で、私はずっと考えていた。

佐伯さんに伝えるべきだろうか。

届いていないことを、住所がもう存在しないことを。

けれど伝えたところで、佐伯さんはどうするのだろう。

七年も書き続けてきた人に、「届いていませんよ」と言うことが、果たして親切なのだろうか。

迷いながら一週間が過ぎ、金曜日が来た。

佐伯さんはいつもと同じ時刻に現れ、カワセミをカウンターに置き、葉書を差し出した。

受け取った瞬間、裏面の文字が目に入った。

「今週、島の椿が咲きました。千鶴が好きじゃった赤い椿です」

その一行を読んで、私は決心した。

「佐伯さん」

呼び止めると、佐伯さんは振り返った。

「あの……千鶴子さんへの葉書のことなんですが」

佐伯さんの手が、ポケットの中のカワセミを握ったまま止まった。

私の目をじっと見つめた。

数秒の沈黙の後、佐伯さんは静かに言った。

「届いとらんのは、知っとるよ」

波の音だけが、窓の外から聞こえていた。

「五年前に家が壊されたのも知っとる。千鶴が先に逝ったのは、もう七年も前のことじゃ」

佐伯さんはカウンターに戻り、カワセミを指先で静かに撫でた。

「灯台にな、四十二年おった」

「千鶴はずっと鹿児島で待っとった。月に一度しか会えんかった。子供もおらんかったから、千鶴はずっと一人じゃった」

佐伯さんの声が、わずかに震えた。

「退職して島に戻ったとき、千鶴を呼び寄せるつもりじゃった。一緒に暮らそうと、何度も電話で言うた」

「けど千鶴は来んかった。来れんかったんじゃ。体がもう、動かんくなっとった」

「迎えに行ったときには、遅かった」

佐伯さんは窓の外の海を見た。

「四十二年も待たせて、最後の最後まで隣におってやれんかった。それがわしの一生で一番の後悔じゃ」

「じゃからな、書いとるんよ」

佐伯さんは私に向き直った。

その目は、泣いてはいなかった。

ただ深い、深い静けさがあった。

「今週あったこと、海がきれいじゃったこと、漁師の松田が鰤を持ってきてくれたこと」

「届かんでもええ。書いとる間は、千鶴と話しとるような気がするんじゃ」

「四十二年、ろくに話もせんかったからな。いま取り戻しとるんよ、あの頃できんかった会話を」

私は何も言えなかった。

佐伯さんが差し出した葉書を、両手で受け取った。

「お預かりします」

それだけ言うのが精一杯だった。

佐伯さんは、少しだけ笑った。

「ありがとうな。あんたがいつも丁寧に受け取ってくれるから、わしは金曜日が楽しみなんじゃ」

それから二年が経った冬の金曜日、佐伯さんは来なかった。

翌週も、その次の週も、カウンターにカワセミが置かれることはなかった。

島の診療所で聞くと、佐伯さんは年末に肺炎で倒れ、本土の病院に運ばれた後、年を越すことなく息を引き取ったという。

葬儀は島の小さな寺で行われた。

参列者は十人に満たなかった。

焼香を終えたあと、佐伯さんの甥だという五十代の男性が私に声をかけてきた。

「郵便局の方ですよね。叔父から聞いていました」

「届かん葉書を毎週、嫌な顔ひとつせず受け取ってくれる人がおると」

男性は白い紙袋を差し出した。

中には、あの翡翠色のカワセミの木彫りと、一通の封筒が入っていた。

封筒の表に、私の名前が書いてあった。

局に戻り、カウンターの前に座って封を開けた。

佐伯さんの、あの丁寧な楷書が並んでいた。

『三年間、届かん葉書を預かってくれて、ありがとうございました。

あんたがおらんかったら、わしはとっくに書くのをやめとったと思います。

窓口であんたの「お預かりします」を聞くたびに、千鶴にちゃんと届くような気がしたんです。

このカワセミは、千鶴が好きじゃった鳥を、わしが彫ったものです。下手くそですが。

郵便局の窓辺に置いてやってくれませんか。千鶴に海が見えるように。

わしはもう届けてもらわんでもええところに行きます。

千鶴に直接、話せるようになりますから。

佐伯正一』

手紙を読み終えたあと、しばらく動けなかった。

涙が、頬を伝って手紙の上に落ちた。

引き出しを開け、三年分の葉書を一枚ずつ読んだ。

「今日は鰤が大漁じゃったそうです。千鶴の好きな鰤じゃ」

「島の紫陽花が咲きました。千鶴にも見せたかったです」

「今日は少し寒いです。風邪をひいとりませんか」

「窓からカワセミが見えました。千鶴の分も見ておきました」

百四十三枚。

そのどれもが、千鶴子さんへの静かな語りかけだった。

届かないと知りながら、佐伯さんは一度も書くのをやめなかった。

私はカワセミの木彫りを、窓辺に置いた。

海を向いたその小さな鳥は、午後の陽に照らされて、翡翠色にやわらかく光った。

この島に来たとき、私は逃げてきたのだと思っていた。

けれど佐伯さんが教えてくれた。

届かなくても書き続けること、届かなくても届けようとすることの中に、人が人を想う気持ちの一番深いところがあるのだと。

窓辺のカワセミが、海風にかすかに揺れた。

まるで千鶴子さんが、今週の葉書を読み終えたように見えた。

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