笑顔の理由

俺が小学生だった頃の話だ。
同じクラスに黒田平一(仮名)、通称「クロベー」というやつがいた。
クロベーの家は母子家庭で、母親と弟との三人暮らしだった。
親戚の家の離れに間借りし、風呂は母屋のを共同で使っていた。
母ちゃんは、その親戚の仕事を手伝いながら、一家を女手ひとつで支えていた。
貧しい暮らしぶりは、誰の目にも明らかだった。
制服のズボンは何年も同じものを履き続けていたから、丈が短くなっていたし、体操着も破れが目立った。
クロベーには少し知的な遅れがあって、体も小さく、勉強も運動も苦手だった。
だけど、誰よりも優しくて、いつも笑顔を絶やさない、そんなやつだった。
クロベーは不思議とクラスの人気者だった。
いじめられることもなく、無事に小学校を卒業し、俺と同じ中学に進学した。
※
中学でもクロベーとは同じクラスだった。
彼はスケッチが好きで、よく休み時間になるとテラスで風景を描いていた。
ただ、風景といっても、クロベーが描くのはいつも「太陽」だった。
目を細めて太陽を直視しながら、独特の色使いで太陽だけをスケッチするんだ。
それを見た他の小学校出身の連中が、クロベーをからかい始めた。
暴力をふるうわけではないが、突飛な言動を面白がって馬鹿にする、そんな陰湿な「いじり」だった。
俺は最初、あまり気にしていなかった。
※
ある日、授業参観の案内が配られた。
クロベーの母ちゃんは、仕事が忙しくて、小学校の頃からほとんど学校行事に参加していなかった。
運動会のときも、クロベーと弟は教室で二人きりで弁当を食べていた。
でも今回は違った。親戚の粋な計らいで、母ちゃんが参観に来るらしい。
クロベーは満面の笑みで、俺たちに報告していた。
※
参観日当日、保護者たちは皆、一張羅でめかし込んでいた。
もちろん、俺の母親もスーツで来ていた。
授業開始直前になって、クロベーの母ちゃんが教室に現れた。
ピンクのジャージに紺色のヤッケ、首に手ぬぐいを巻いて額の汗を拭きながら、遠慮がちに教室へ入ってきた。
確かに、周囲と比べて場違いな雰囲気だった。
だけど、クロベーはそんな母ちゃんを見て、嬉しそうにニコニコしていた。
※
その日の授業は地理で、先生がこんな質問をした。
「北海道の旭川市は稚内より南なのに、なぜ冬は旭川の方が寒いのでしょう?」
クラス中が沈黙する中、クロベーが手を挙げた。
「はいっ!」
担任の先生は一瞬「しまった」といった顔をしたが、クロベーを指した。
クロベーの答えはこうだった。
「稚内には牧場がいっぱいあって、牛がたくさんおるけん、その牛の息で空気があったかくなっとるんです」
教室は保護者も含めて大爆笑だった。
その中で、クロベーの母ちゃんが一言。
「いいぞ、平一!」
そして、無言でクロベーの席まで歩いて行くと、手ぬぐいで彼の鼻をチーンと拭ってやった。
笑い声は止まり、教室が静まり返った。
クロベーの母ちゃんは何事もなかったように、また教室の後ろへと戻っていった。
なぜか、胸が熱くなった。涙が出そうになった。
でもその出来事が、クロベーへのいじめを激化させるきっかけになってしまった。
※
「貧乏人」「不潔」――
心ない言葉がクロベーに浴びせられるようになった。
俺と連れのHは、クロベーを守り続けた。
けれど、見えないところでは、靴を隠されたり、筆箱に残飯を入れられたり、陰湿ないじめが続いた。
クロベーはそれでも笑っていた。
※
ある日、クラスで盗難事件が起きた。
女子生徒のカバンから現金入りの封筒が消えた。
クロベーをいじめていた連中の一人が言った。
「貧乏な黒田がやったに決まってる」
証拠は何もない。けれど、生活指導の教師はクロベーを疑った。
必死に否定するクロベー。
「知らん、知らん」と言い続けるしかなかった。
結局、その日は取り調べが終わらず、クロベーは「仮釈放」となった。
※
次の日、クロベーの母ちゃんが学校にやってきた。
職員室で泣き崩れながら、
「あの子はそんな子じゃありません…!」
と何度も叫んでいた。
その姿を見て、学校中に「共犯じゃないか」という噂が広まった。
クロベーへのいじめはさらに激しくなった。
俺とHは、クロベーの潔白を信じて、真犯人を探し始めた。
※
ある日、担任が告げた。
「盗まれたと思われていた封筒が見つかりました」
それは、鞄の奥にしまってあっただけだった。
女子生徒は泣きながら、担任に謝罪したという。
俺とHは、クロベーを最初に疑ったやつに怒りが爆発し、ドロップキックとラリアットでぶちのめした。
当然、生活指導にしこたま怒られ、親を呼び出され、加害者の家を一軒ずつ頭を下げて回った。
正義感のつもりが、親にまで迷惑をかけて、俺は悔しさで泣いた。
※
しばらくして、クロベーが言った。
「うちの母ちゃんが、ご飯作るって。遊びに来て」
放課後、Hと一緒にクロベーの家を訪れた。
母ちゃんは遅れて帰ってきて、俺たちにカレーと餃子をふるまってくれた。
魚肉ソーセージと野菜と、シイタケ入りのカレー。
豪華とは言えないけど、温かくて、すごく美味しかった。
※
食事のあと、クロベーの母ちゃんは言った。
「平一を助けてくれてありがとう。これからも、友達でいてね…」
そして、泣いた。
俺もHもつられて泣いた。
みんなでしゃくりあげながら、泣きながら、カレーを食べた。
クロベーだけが、笑っていた。
※
中学を卒業して、俺とHは地元の高校へ進んだ。
クロベーは県外に就職した。
別れ際、俺は言った。
「これからは、お前が母ちゃんを守れよ」
「うん、わかった」
とクロベーは力強く返した。
※
数年後、クロベーは母ちゃんと弟を呼び寄せ、三人で暮らし始めた。
あのクロベーが、立派に家族を支えていた。
それから四半世紀が経った今でも、俺は子育てに悩むたび、クロベーの母ちゃんを思い出す。
どんなに不格好でも、親は子を守り、支える存在なんだと。
クロベーの笑顔と、母ちゃんの涙を、俺は一生忘れない。