母の肉じゃが

母は若い頃の事故で、右手の指が思うように動かない人でした。

五本の指のうち、自分の意志で曲げられるのは親指と人差し指くらいで、握る力も、ほとんど残っていませんでした。

茶碗を持つときも、母はいつも、両手で包み込むようにして持ち上げていました。

だから我が家の台所に立って包丁を握るのは、たいてい、無口な父の役目でした。

それでも、遠足や運動会で弁当が要る日だけは、母が前の晩から、何時間もかけて作ってくれました。

よく利く左手を中心にして、不自由な右手をそっと添えるようにしながら、母は時間をかけて、ゆっくりと包丁を動かしました。

卵を割るのにも、人の何倍もの時間がかかりました。

その手つきを、僕は子どもの頃、ただ当たり前の風景としてしか、見ていませんでした。

母は、自分の手のことで人に気を遣われるのを、何より嫌う人でした。

買い物に行けば、店員が同情のまなざしを向けてくる前に、さっと品物を選んで会計を済ませました。

近所の人に「大変ね」と言われると、母はいつも明るく笑って、「慣れっこですから」と返していました。

そんな母を、僕は内心、少しだけ誇りに思っていたはずなのに、外では知らんぷりをしていたのです。

母がどれほどの時間と気力を、たった一個の弁当に注ぎ込んでいたのか、想像することすら、ありませんでした。

小学六年生の遠足の日のことを、僕は今でも、夜中にふと目が覚めるたびに思い出しては、悔やみ続けています。

その朝、母が差し出してくれた弁当は、卵焼きの形がいびつにひしゃげ、おにぎりの大きさも、ひとつひとつばらばらでした。

海苔は端がめくれ、おかずの彩りも、よその子のものと比べると、どこか寂しげに見えました。

前の晩、母が夜遅くまで台所に立っていたのを、僕は知っていました。

それでも、その不格好な弁当を友達に見られるのが、当時のませた僕には、どうしても耐えられなかったのです。

玄関で運動靴を履きながら、僕は母の顔も見ずに、こう言い放ちました。

「こんな弁当、いらない。コンビニで買っていくから、もう作らなくていい」

自分でも、ひどいことを言っているという自覚は、はっきりとありました。

けれど、一度口から出てしまった言葉は、もう、引っ込めることができませんでした。

母は、怒りませんでした。

ただ台所のほうを向いたまま、消え入りそうな小さな声で、「うまく作れなくて、ごめんね」と、それだけ言ったのです。

その丸まった背中を、僕は振り切るようにして、逃げるように家を飛び出しました。

遠足のあいだじゅう、僕はコンビニで買ったおにぎりを、味も分からないまま、ただ口へ運んでいました。

友達の弁当がうらやましかったわけでは、ありません。

母を傷つけてしまったという事実が、楽しいはずの一日を、ずっと重く塗りつぶしていたのです。

あの朝、母がどんな表情をしていたのか、僕は今でも、知りません。

知らないからこそ、それはずっと、僕の胸の奥で、消えない棘になっています。

思えば母は、自分の手のことで、肩身の狭い思いをずっと続けていたのだと思います。

授業参観に来てくれたとき、僕は友達に母の手を見られるのが嫌で、わざと素っ気ない態度をとりました。

運動会の日も、お弁当を広げる場所を、人目につかない木陰へと選びたがりました。

そんな僕の幼い見栄に、母はきっと、気づいていたはずです。

それでも母は、一度も僕を責めることなく、いつもただ、申し訳なさそうに微笑んでいました。

その微笑みの意味を、僕がようやく理解したのは、母がいなくなった、ずっとあとのことでした。

時は流れ、僕は地元の高校に進みました。

その高校に給食はなく、昼食はいつも、購買で買うひとつのコッペパンで済ませていました。

友達が色とりどりの弁当を広げる横で、僕は誰にも弁当を頼もうとは、しませんでした。

あの遠足の朝の記憶が、心のどこかで、ずっとつかえていたのかもしれません。

ところが高校二年の春のある晩、母が夕食の席で、唐突に「明日から、お弁当を作ろうか」と、言い出したのです。

僕は内心ひどく驚きましたが、なんとなく断ることもできず、「……うん」とだけ、小さく答えました。

翌日から始まった母の弁当は、あの遠足の頃のものとは、まるで別人が作ったように、見違えるものでした。

卵焼きはきれいな黄金色にふっくらと巻かれ、肉じゃがの里芋は煮崩れひとつなく、味も、すっきりと品よく整っていました。

きんぴらごぼうの細さも、ほうれん草のおひたしの彩りも、よその子の弁当に、少しも見劣りしませんでした。

蓋を開けるたびに、ふわりと立ちのぼる湯気の匂いが、教室で少しだけ、僕を誇らしい気持ちにさせました。

友達のひとりが「お前の弁当、いつもうまそうだな」と言ったとき、僕はなぜか、胸がいっぱいになりました。

あの遠足の朝、隠したいと思った弁当を、今は誰かに褒められている。

その不思議な巡り合わせに、僕は気づいていながら、母に感謝を伝えそびれていました。

毎朝、母が僕より早く起きて台所に立っていたことを、僕はただ、当たり前のように受け取っていたのです。

不自由な右手で、母がそれをどれほどの時間と手間をかけて作っていたのか、そのときの僕は、やはり想像もしませんでした。

「おいしい」という、たった一言さえ、僕は照れくささに負けて、とうとう素直に言えなかったのです。

あのとき、ただ一度でいいから、その三文字を母に伝えていれば。

今となっては、それが、悔やんでも悔やみきれません。

母の弁当を食べられたのは、けれど、たった三ヶ月だけのことでした。

梅雨の頃に風邪をこじらせた母は、それをこじらせて肺炎になり、入院したかと思うと、わずか一週間ほどで、あっけなく逝ってしまったのです。

あまりにも急な別れに、僕は涙を流すことさえ、しばらくのあいだ、できませんでした。

病室で冷たくなった母の手を握ったとき、その指が、もう二度と動かないのだと気づいて、初めて、声をあげて泣きました。

あれほど不自由だった右手が、僕にはこの世で一番、温かい手でした。

その手で握ってくれたおにぎりの、少しいびつな形を、僕は一生忘れないと思います。

もっとたくさん、その手で作ったものを食べておけばよかったと、今でも悔やまれてなりません。

葬儀がすべて終わって、家が急に静まりかえったある夜、父が、ぽつりぽつりと打ち明けてくれました。

母はこの一年あまり、駅裏にある古い喫茶店へ、僕に内緒で、料理を習いに通っていたのだそうです。

右手が利かないことを店主に何度も詫びながら、それでも、息子にまともな弁当を持たせたい一心で。

「なぜ、今になって急に習いに行ったの」と、僕は父に尋ねました。

父は少しのあいだ黙ってから、「母さんは、自分の身体のこと、薄々わかってたのかもしれんな」と、目をそらしました。

母は、自分に残された時間が、もう長くないことを、どこかで静かに察していたのかもしれません。

だからこそ、最後に、息子の記憶の中に、温かい味をひとつでも遺したかったのではないか。

そう考えると、僕は胸が締めつけられて、しばらく息ができなくなりました。

父はその夜、母が遺した一冊の古い大学ノートを、僕にそっと手渡してくれました。

そこには、習った料理の手順が、おぼつかない左手の字で、びっしりと書き留められていました。

「だしは煮立てすぎない」「里芋は面取りをすると煮崩れしない」。

ところどころに、僕の好物の横に小さな丸印がつけられていて、僕はそのページを、何度も指でなぞりました。

母は、自分がいなくなったあとのことまで、考えていたのかもしれません。

四十九日が過ぎた、よく晴れた秋の日のことでした。

僕は思いきって、父に場所を聞き、その駅裏の喫茶店を、ひとりで訪ねてみました。

店主は白髪を上品にまとめた、穏やかな目をした年配の女性で、僕とは、もちろん直接の面識などありませんでした。

それでも僕が母の名前を口にすると、彼女は一瞬、はっと息をのんで、静かにうなずき、奥の落ち着いた席へと通してくれました。

僕は、母がよく弁当に入れてくれた、肉じゃがの定食を頼みました。

しばらくして運ばれてきた、湯気の立つ皿に、僕はそっと箸をつけました。

その一口を口に含んだ、まさにその瞬間でした。

涙が、自分でも止められないほど、ぼろぼろと、とめどなくあふれてきたのです。

だしの優しい香り、里芋のほろりと崩れる口あたり、ほんの少しだけ甘い、あの懐かしい味つけ。

それは確かに、確かに、僕が三ヶ月だけ味わった、母のあの弁当の味だったのです。

たった三ヶ月しか味わえなかった、母の肉じゃが。

形は少し不格好だったけれど、世界中のどんなごちそうよりも、おいしかった、あの味。

店主は、人目もはばからず泣きじゃくる僕の前に、そっと温かいほうじ茶を置きながら、言いました。

「お母さんね、ここに来るたびに、あなたの話ばっかりしてたのよ」

右手が震えて、何度も鍋の柄を取り落としそうになりながら、それでも母は、決して途中で諦めなかったそうです。

「うちの息子に、一度でいいから、おいしいって言ってもらいたいんです」

母はいつも、そう言って、はにかむように笑っていたのだと、店主は目を潤ませながら教えてくれました。

店主は、奥の棚から、一枚の古びた前掛けを取り出して、僕に見せてくれました。

それは、母が稽古のときに使っていた前掛けで、右の裾だけが、不器用に縫い直されていました。

「これ、お母さんが置いていったの。あなたに渡せる日が来るような気がして、ずっととっておいたのよ」。

僕はその前掛けを受け取り、胸に強く抱きしめました。

僕が「こんな弁当いらない」と言い放った、あの遠足の朝につけた傷を、母はずっと、たったひとりで、抱え続けていたのだと思います。

そしてその傷を、恨みやあきらめにではなく、もっとおいしい弁当を作るための、静かな力に変えていたのです。

恥ずかしいと感じた、あの不格好な卵焼きは、母の精一杯の愛情そのものでした。

そのことにようやく気づいたとき、母はもう、この世のどこにも、いませんでした。

あれから何年もの月日が経った今でも、僕は肉じゃがを口にするたびに、台所に立つ母の、あの小さな背中を思い出します。

不自由な右手をそっと添えて、ゆっくりと、けれど確かに、息子のために包丁を握り続けていた、あの背中を。

今では僕も、自分の子どもに弁当を作る歳になりました。

あの母のノートは、今も僕の台所の引き出しに、大切にしまってあります。

献立に迷った朝には、僕はそのページをめくり、母の左手の字を、指先でそっとたどります。

里芋の面取りをするたびに、母がどんな気持ちでこの一手間を覚えたのかを、想像します。

不自由な手で、何度も何度も練習を重ねて、母はこの一冊を書き上げたのだと思うと、背筋が伸びる思いがします。

そして、自分の子が「おいしい」と笑ってくれるたびに、僕は心の中で、母にそっと礼を言うのです。

卵焼きが少しいびつに焦げてしまった朝には、僕はきまって、母のことを思い出して、ひとり台所で微笑むのです。

そして心の中で、あの遠足の朝にどうしても言えなかった言葉を、もう一度、母に向かって、そっと伝えます。

「ごめんね。そして、いつも、本当においしかったよ」と。

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