母が一年かけた肉じゃが

右手の利かない母

母は若い頃の事故で、右手の指が思うように動かない人でした。

五本の指のうち、自分の意志で曲げられるのは親指と人差し指くらいで、握る力も、ほとんど残っていませんでした。

茶碗を持つときも、母はいつも、両手で包み込むようにして持ち上げていました。

だから我が家の台所に立って包丁を握るのは、たいてい、無口な父の役目でした。

父は倉敷の帆布の工場で、分厚い生地に太い針を通す仕事をしていました。

指の先が硬くて、包丁を持たせても、まるで工具を扱うような手つきでした。

それでも、遠足や運動会で弁当が要る日だけは、母が前の晩から、何時間もかけて作ってくれました。

よく利く左手を中心にして、不自由な右手をそっと添えるようにしながら、母は時間をかけて、ゆっくりと包丁を動かしました。

卵を割るのにも、人の何倍もの時間がかかりました。

その手つきを、僕は子どもの頃、ただ当たり前の風景としてしか、見ていませんでした。

母は、自分の手のことで人に気を遣われるのを、何より嫌う人でした。

買い物に行けば、店員が同情のまなざしを向けてくる前に、さっと品物を選んで会計を済ませました。

近所の人に「大変ね」と言われると、母はいつも明るく笑って、「慣れっこですから」と返していました。

そんな母を、僕は内心、少しだけ誇りに思っていたはずなのに、外では知らんぷりをしていたのです。

引き出しに結ばれた紐の輪

我が家には、よその家にはないものが、いくつかありました。

母は、家じゅうの引き出しの取っ手に、細い紐の輪を結んでいました。

台所の抽斗も、簞笥も、玄関の下駄箱も、みんなそうでした。

木綿の細紐を二重に通して、小指ほどの輪をつくり、固く結んである。

色は褪せて、いつも少し毛羽立っていました。

友達が家に来て、「これ何」と訊いたことがあります。

僕は「うちの飾り」と答えました。

本当は、飾りでも何でもないことくらい、わかっていました。

それでも、そう言うほかに、言葉を持っていなかったのです。

母は、その輪に人差し指を引っ掛けて、身体ごと引くようにして、引き出しを開けていました。

握れない手でも、それなら開けられるからです。

あまりに毎日のことなので、僕はその動作を、風景としか思っていませんでした。

遠足の朝に言い放った言葉

小学六年生の遠足の日のことを、僕は今でも、夜中にふと目が覚めるたびに思い出しては、悔やみ続けています。

その朝、母が差し出してくれた弁当は、卵焼きの形がいびつにひしゃげ、おにぎりの大きさも、ひとつひとつばらばらでした。

海苔は端がめくれ、おかずの彩りも、よその子のものと比べると、どこか寂しげに見えました。

前の晩、母が夜遅くまで台所に立っていたのを、僕は知っていました。

それでも、その不格好な弁当を友達に見られるのが、当時のませた僕には、どうしても耐えられなかったのです。

玄関で運動靴を履きながら、僕は母の顔も見ずに、こう言い放ちました。

「こんな弁当、いらない。パンを買っていくから、もう作らなくていい」

自分でも、ひどいことを言っているという自覚は、はっきりとありました。

けれど、一度口から出てしまった言葉は、もう、引っ込めることができませんでした。

母は、怒りませんでした。

ただ台所のほうを向いたまま、消え入りそうな小さな声で、「うまく作れなくて、ごめんね」と、それだけ言ったのです。

その丸まった背中を、僕は振り切るようにして、逃げるように家を飛び出しました。

遠足のあいだじゅう、僕は買ったパンを、味も分からないまま、ただ口へ運んでいました。

友達の弁当がうらやましかったわけでは、ありません。

母を傷つけてしまったという事実が、楽しいはずの一日を、ずっと重く塗りつぶしていたのです。

あの朝、母がどんな表情をしていたのか、僕は今でも、知りません。

知らないからこそ、それはずっと、僕の胸の奥で、消えない棘になっています。

肩身の狭い思い

思えば母は、自分の手のことで、肩身の狭い思いをずっと続けていたのだと思います。

授業参観に来てくれたとき、僕は友達に母の手を見られるのが嫌で、わざと素っ気ない態度をとりました。

運動会の日も、お弁当を広げる場所を、人目につかない木陰へと選びたがりました。

そんな僕の幼い見栄に、母はきっと、気づいていたはずです。

それでも母は、一度も僕を責めることなく、いつもただ、申し訳なさそうに微笑んでいました。

その微笑みの意味を、僕がようやく理解したのは、母がいなくなった、ずっとあとのことでした。

明日から、お弁当を作ろうか

時は流れ、僕は倉敷の高校に進みました。

その高校に給食はなく、昼食はいつも、購買で買うひとつのコッペパンで済ませていました。

友達が色とりどりの弁当を広げる横で、僕は誰にも弁当を頼もうとは、しませんでした。

あの遠足の朝の記憶が、心のどこかで、ずっとつかえていたのかもしれません。

ところが高校二年の春のある晩、母が夕食の席で、唐突に「明日から、お弁当を作ろうか」と、言い出したのです。

僕は内心ひどく驚きましたが、なんとなく断ることもできず、「……うん」とだけ、小さく答えました。

翌日から始まった母の弁当は、あの遠足の頃のものとは、まるで別人が作ったように、見違えるものでした。

卵焼きはきれいな黄金色にふっくらと巻かれ、肉じゃがの里芋は煮崩れひとつなく、味も、すっきりと品よく整っていました。

きんぴらごぼうの細さも、ほうれん草のおひたしの彩りも、よその子の弁当に、少しも見劣りしませんでした。

蓋を開けるたびに、ふわりと立ちのぼる湯気の匂いが、教室で少しだけ、僕を誇らしい気持ちにさせました。

母の弁当が始まってから、僕は昼休みが少しだけ待ち遠しくなりました。

教室の窓際の席で蓋を開けると、まず湯気が上がります。

それから、だしの匂いが、鉛筆と埃の匂いのする教室に、ふわりと広がるのです。

雨の日の弁当は、なぜだかいつも、ほんの少しだけ味が濃く感じられました。

今思えば、母は前の晩の天気予報を見て、味を変えていたのかもしれません。

友達のひとりが「お前の弁当、いつもうまそうだな」と言ったとき、僕はなぜか、胸がいっぱいになりました。

あの遠足の朝、隠したいと思った弁当を、今は誰かに褒められている。

その不思議な巡り合わせに、僕は気づいていながら、母に感謝を伝えそびれていました。

毎朝、母が僕より早く起きて台所に立っていたことを、僕はただ、当たり前のように受け取っていたのです。

「おいしい」という、たった一言さえ、僕は照れくささに負けて、とうとう素直に言えなかったのです。

あのとき、ただ一度でいいから、その三文字を母に伝えていれば。

今となっては、それが、悔やんでも悔やみきれません。

三ヶ月で終わった弁当

母の弁当を食べられたのは、けれど、たった三ヶ月だけのことでした。

梅雨の頃に風邪をこじらせた母は、それが肺炎になり、入院したかと思うと、わずか一週間ほどで、あっけなく逝ってしまったのです。

あまりにも急な別れに、僕は涙を流すことさえ、しばらくのあいだ、できませんでした。

病室で冷たくなった母の手を握ったとき、その指が、もう二度と動かないのだと気づいて、初めて、声をあげて泣きました。

あれほど不自由だった右手が、僕にはこの世で一番、温かい手でした。

その手で握ってくれたおにぎりの、少しいびつな形を、僕は忘れないと思います。

もっとたくさん、その手で作ったものを食べておけばよかったと、今でも悔やまれてなりません。

父が明かした一年

葬儀がすべて終わって、家が急に静まりかえったある夜、父が、ぽつりぽつりと打ち明けてくれました。

母はこの一年あまり、駅裏にある古い喫茶店へ、僕に内緒で、料理を習いに通っていたのだそうです。

右手が利かないことを店主に何度も詫びながら、それでも、息子にまともな弁当を持たせたい一心で。

僕には、腑に落ちないことがありました。

僕が高校に入ったのは、その一年よりも、さらに前です。

給食がないことは、入学の説明会で母も聞いていたはずでした。

「なぜ、一年も黙って通ってから、急に言い出したの」と、僕は父に尋ねました。

父はしばらく黙ってから、こう言いました。

「母さんはな、恥ずかしいもんは、もう持たせられんと言うとった」

「よその子と並べて、見劣りせんようになるまでは、言わんと決めとったんじゃ」

あの遠足の朝の一言が、母に一年を課したのです。

父は、母が通っていたことを、最初から知っていたそうです。

火曜と金曜の午後、母は決まって二時間ほど家を空けていました。

父は一度だけ、仕事の帰りに駅裏を通って、明かりのついた店の中を見たのだと言いました。

母が、鍋の柄を左手で押さえて、じっと立っていたそうです。

火はついていませんでした。

ただ、押さえる練習をしていたのだと、父は言いました。

「声はかけんかった。かけたら、あれはやめてしまうけえ」

父は、そう言って、湯呑みの縁を指でなぞっていました。

父はその夜、母が遺した一冊の古い大学ノートを、僕にそっと手渡してくれました。

そこには、習った料理の手順が、おぼつかない左手の字で、びっしりと書き留められていました。

「だしは煮立てすぎない」「里芋は面取りをすると煮崩れしない」。

ところどころに、僕の好物の横に小さな丸印がつけられていて、僕はそのページを、何度も指でなぞりました。

そして、いちばん最後の頁には、日付が三百六十四ぶん並んでいました。

その隣に、丸と、ばつ。

丸が七つ続いた日の翌日に、母は「明日から、お弁当を作ろうか」と言い出したのでした。

駅裏の喫茶店

四十九日が過ぎた、よく晴れた秋の日のことでした。

僕は思いきって、父に場所を聞き、その駅裏の喫茶店を、ひとりで訪ねてみました。

店主は白髪を上品にまとめた、穏やかな目をした年配の女性で、僕とは、もちろん直接の面識などありませんでした。

それでも僕が母の名前を口にすると、彼女は一瞬、はっと息をのんで、静かにうなずき、奥の落ち着いた席へと通してくれました。

僕は、母がよく弁当に入れてくれた、肉じゃがの定食を頼みました。

しばらくして運ばれてきた、湯気の立つ皿に、僕はそっと箸をつけました。

その一口を口に含んだ、まさにその瞬間でした。

涙が、自分でも止められないほど、ぼろぼろと、とめどなくあふれてきたのです。

だしの優しい香り、里芋のほろりと崩れる口あたり、ほんの少しだけ甘い、あの懐かしい味つけ。

それは確かに、確かに、僕が三ヶ月だけ味わった、母のあの弁当の味だったのです。

たった三ヶ月しか味わえなかった、母の肉じゃが。

形は少し不格好だったけれど、世界中のどんなごちそうよりも、おいしかった、あの味。

厨房の引き出し

店主は、人目もはばからず泣きじゃくる僕の前に、そっと温かいほうじ茶を置きながら、言いました。

「お母さんね、ここに来るたびに、あなたの話ばっかりしてたのよ」

右手が震えて、何度も鍋の柄を取り落としそうになりながら、それでも母は、決して途中で諦めなかったそうです。

「うちの息子に、一度でいいから、おいしいって言ってもらいたいんです」

母はいつも、そう言って、はにかむように笑っていたのだと、店主は目を潤ませながら教えてくれました。

帰りぎわ、僕は厨房を少しだけ見せてもらいました。

そして、足が止まりました。

喫茶店の厨房の引き出しにも、同じ細い紐の輪が結んでありました。

調理台の下も、コンロの脇の抽斗も、全部です。

色は褪せて、少し毛羽立っていて、我が家のものと、寸分違いませんでした。

「お母さんが来る前の日にね、私が結んだの」と、店主は言いました。

「電話で、右手のことを詫びられたから」

母は、翌日それを見て、何も言わなかったそうです。

ただ、一度だけ、輪に指を引っ掛けて、深く頭を下げたのだと。

店主は、自分の右の手のひらを、静かに開いて見せました。

薬指と小指が、内側へ曲がったままでした。

「私も、若い頃にね」

それ以上は、何も言いませんでした。

店主は、それから小さな声で、こう付け足しました。

「私は、教えたんじゃないの」

「一緒に、やり方を探しただけ」

その言い方に、母がこの店を選んだ理由が、全部あるように思えました。

母の前掛け

店主は、奥の棚から、一枚の古びた前掛けを取り出して、僕に見せてくれました。

それは、母が稽古のときに使っていた前掛けで、右の裾だけが、不器用に縫い直されていました。

「これ、お母さんが置いていったの。あなたに渡せる日が来るような気がして、ずっととっておいたのよ」。

僕はその前掛けを受け取り、胸に強く抱きしめました。

僕が「こんな弁当いらない」と言い放った、あの遠足の朝につけた傷を、母はずっと、たったひとりで、抱え続けていたのだと思います。

そしてその傷を、恨みやあきらめにではなく、もっとおいしい弁当を作るための、静かな力に変えていたのです。

恥ずかしいと感じた、あの不格好な卵焼きは、母の精一杯の愛情そのものでした。

そのことにようやく気づいたとき、母はもう、この世のどこにも、いませんでした。

親のまなざしが、あとになってからしか見えないことについては、おばあちゃんの愛を読んだときにも、同じ痛みを覚えました。

ノートに書かれていたもの

あれから何年もの月日が経った今でも、僕は肉じゃがを口にするたびに、台所に立つ母の、あの小さな背中を思い出します。

不自由な右手をそっと添えて、ゆっくりと、けれど確かに、息子のために包丁を握り続けていた、あの背中を。

今では僕も、自分の子どもに弁当を作る歳になりました。

あの母のノートは、今も僕の台所の引き出しに、大切にしまってあります。

献立に迷った朝には、僕はそのページをめくり、母の左手の字を、指先でそっとたどります。

そして、自分で台所に立つようになって、何年も経ってから、僕はようやく気づきました。

ノートの手順が、どれも妙な順番で書いてあることに。

鍋は火にかける前に濡れ布巾の上へ置くこと。

蓋は膝で押さえること。

里芋は面取りをして、鍋の中で転がしながら煮ること。

包丁を持ち替える回数が、いちばん少なくなる順に、全部が並んでいたのです。

母のノートに書いてあったのは、味ではなく、片手で作るための順番でした。

店主が教えたのは、料理ではありません。

母の手でも最後まで辿り着ける道筋を、一年かけて、一緒に引き直してくれたのです。

だから母は、あの三ヶ月を、一度も休まなかったのだと思います。

いびつな卵焼きの朝に

僕の台所の引き出しにも、今は細い紐の輪が結んであります。

僕の手は、どこも不自由ではありません。

それでも、朝いちばんにその輪へ指を引っ掛けると、母の一日の始まりに、ほんの少しだけ近づける気がするのです。

里芋の面取りをするたびに、母がどんな気持ちでこの一手間を覚えたのかを、想像します。

不自由な手で、何度も何度も練習を重ねて、母はこの一冊を書き上げたのだと思うと、背筋が伸びる思いがします。

母と呼べる人がふたりいる幸福については、二人の母という話にも、静かな救いがありました。

そして、自分の子が「おいしい」と笑ってくれるたびに、僕は心の中で、母にそっと礼を言うのです。

卵焼きが少しいびつに焦げてしまった朝には、僕はきまって、母のことを思い出して、ひとり台所で微笑むのです。

そして心の中で、あの遠足の朝にどうしても言えなかった言葉を、もう一度、母に向かって、そっと伝えます。

「ごめんね。そして、いつも、本当においしかったよ」と。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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