
修司さんは、どこを歩くときも、決まって私の右側にいました。
海沿いの道でも、商店街のアーケードでも、そうでした。
私はそれを、癖のようなものだと思っていました。
福井の敦賀。海から風の吹き上がってくる坂の上に、私の育った施設がありました。
私には、本当の親がいません。
物心ついたときには、もうそこにいました。
親が達者でいるのかどうかも、知らないままです。
それを不幸だと思ったことは、あまりありませんでした。
比べる暮らしを、知らなかったからだと思います。
朝は六時に起きて、廊下に並んで点呼を受けました。
冬になると、海霧が窓のところまで上がってきて、校庭の白線が見えなくなりました。
その霧の匂いを、私はいまも、海の匂いだと思っています。
園長先生は、白髪をひっつめにした小柄な人でした。
叱るときも声を上げず、私たちの名前を最後まで言い切る人でした。
修司さんは、三つ年上でした。
私が四つで入った年に、彼はもう七つで、廊下の雑巾がけの順番を教えてくれました。
食堂の、いちばん端の椅子が私の席でした。
その椅子だけ、脚にゴムが巻いてありました。
黒いゴムを、太い糸で二重に縫い留めてありました。
指でなぞると、縫い目のところだけ盛り上がっていました。
床が滑って、私が二度ひっくり返ったからです。
修司さんが、自転車の古いチューブを切って、巻いてくれたのでした。
「これでもう転ばん」
彼は、それだけ言って、すぐに配膳へ戻りました。
修司さんは、配膳のとき、汁椀を必ず両手で置く子でした。
こぼすからではありません。
熱いものを、相手の前でいちばん熱いうちに置きたいのだと、あとで聞きました。
私はそのころ、左の耳の聞こえが少し悪く、人の左側に立つ癖がありました。
そうすると、右の耳で声が拾えるからです。
修司さんは、何も言わずに、私の右側に立つようになりました。
高校を出ると、私たちは別々の職場に入りました。
彼は港の運送会社、私は駅前のクリーニング屋でした。
それでも休みの日には、必ず会いました。
海を見に行くわけでも、買い物をするわけでもありません。
ただ、町を歩くのです。
気比神宮の裏の道から、金ヶ崎の坂を上って、港へ下ります。
途中の踏切で、必ず一本、貨物を見送りました。
彼は、貨物の車両の数を数えるのが好きでした。
私は、数えている横顔を見ているのが好きでした。
彼は、数え終わると必ず、何両やったと私に言いました。
私はいつも、忘れてしまいました。
覚えておけばよかったと、いまになって思います。
歩きながら、彼はよく将来の話をしました。
「二階建てじゃなくていい。段差のない、平屋がええ」
「子どもは二人。名前はもう決めてある」
私が笑うと、彼は本気だと怒りました。
そのくせ、名前は最後まで教えてくれませんでした。
「決まってからでええ」
そう言って、彼はいつも話をそらしました。
食堂の端の椅子
指輪を買う約束をしたのは、私が二十三の秋でした。
給料日の翌日、敦賀の商店街の宝飾店に、二人で下見に行きました。
店の人が出してくれた箱を、彼はなかなか開けませんでした。
「値札、先に見ていいですか」
店の人は、笑って箱を裏返してくれました。
彼は値札を見て、しばらく黙ってから、来月また来ますと言いました。
外に出ると、彼は耳まで赤くしていました。
「三か月ぶん、貯めたら買える」
私は、指輪なんてなくてもいいと言いました。
彼は、俺がほしいんや、と言いました。
そう言って、恥ずかしそうに笑ったのを覚えています。
帰り道、彼は私の右側を歩きながら、来年の春に式を挙げようと言いました。
施設の職員さんと、食堂の端の椅子を、式場に持っていこうとも言いました。
「あの椅子に、ゴム巻いたままで置くんや」
私は、そんなの誰が喜ぶの、と言いました。
彼は、俺が喜ぶ、と言いました。
その夜、私は施設に電話をして、園長先生に報告しました。
先生は、電話の向こうで長いこと黙ってから、よかったねえ、と言いました。
その黙った時間の意味が、私にはわかりませんでした。
いま思えば、先生はきっと、泣いていたのだと思います。
翌週、先生は私たちを呼んで、古い通帳を二冊出しました。
施設が、子ども名義で少しずつ積んでいたものでした。
「これは、あんたたちのお金やからね」
修司さんは、通帳を押し戴くようにして受け取りました。
その晩、彼は紙に平屋の間取りを描きました。
玄関の上がり框を低くして、廊下を広くとった図でした。
「風呂の段差だけは、どうにもならんな」
彼は、そう言って消しゴムを何度もかけていました。
紙は、何度も消したせいで、真ん中が薄く毛羽立っていました。
その毛羽立ちの上に、彼は台所の窓を描き足しました。
「ここから、港の灯りが見えるようにする」
なぜそこまで段差にこだわるのか、私は訊きませんでした。
訊かなくても、そのうちわかると思っていたのです。
私たちには、呼べる親がいませんでした。
だから、招待状の数を数えるのが、少しだけ心細い作業でした。
それでも、彼は毎晩、紙に席順を書いては書き直していました。
「端の椅子だけは、動かさんからな」
その紙は、いまも私の手元にあります。渡せないまま残る紙というものが、この世にはあるのだと思います(弟の行李と出せなかった手紙)。
義足と杖の歩幅
年が明けて、二月の夕方でした。
私たちは、いつものように町を歩いていました。
歩道を、彼が右、私が左で並んでいました。
交差点の手前で、彼がふいに私の腕を引きました。
覚えているのは、そこまでです。
音も、痛みも、覚えていません。
腕を引かれた感触だけが、手首に残っていました。
気がついたとき、私は病院の天井を見ていました。
右の腿から下が、なくなっていました。
右の半身は、触られても何も感じませんでした。
修司さんは、その場から戻りませんでした。
車を運転していた人も、同じでした。
病室でそれを聞いたとき、私は「そうですか」とだけ言いました。
悲しいという言葉が、どこからも出てきませんでした。
身体の右半分と一緒に、その部分も、抜け落ちていたのだと思います。
それからのことを、私はうまく話せません。
食べたものの味がしませんでした。
看護師さんの声が、水の中から聞こえるようでした。
夜になると、点滴の落ちる音だけが、はっきり聞こえました。
隣のベッドの人が寝返りを打つ音まで、数えられました。
眠れないまま朝になると、窓の外で鴎が鳴いていました。
敦賀の空は、病室から見ると、ずいぶん狭く見えました。
リハビリの先生が、動けるようにならなければ何も選べない、と言いました。
選ぶという言葉が、そのときの私には引っかかりました。
選べるようになりたいと思ったのではありません。
ただ、このままでは何も終われない、と思ったのです。
私は、歯を食いしばってリハビリをしました。
平行棒の間を、一日に何度も往復しました。
義足の縁が当たって、切り株のような断端に血が滲みました。
義肢装具士さんが、石膏で型を取ってくれました。
固まるまでの十五分、私はずっと天井を見ていました。
「合わなかったら、何度でも削ります」
その人は、そう言って、実際に七回削りました。
七回目に、初めて痛みなしで三歩、歩けました。
その三歩を、私は誰にも見せられませんでした。
装具士さんは、いいですね、とだけ言って、道具を片付けました。
褒められなかったことが、そのときは、ありがたかったのです。
見せたい人が、いなかったからです。
それでも、痛みだけは、はっきり感じられました。
感じられるものが痛みしかないのなら、痛みにすがるしかありませんでした。
一年半かけて、私は一人で暮らせるようになりました。
義足と杖の歩幅が、少しずつ揃ってきました。
右腕も、缶を握れるくらいには動くようになりました。
修司さんの携帯電話は、遺品として私の手元にありました。
留守番電話に、彼の声が一件だけ残っていました。
「いま出た。駅の階段のとこにおる」
それだけの、十秒足らずの録音です。
解約すれば消えるとわかっていたので、私は毎月、料金を払い続けました。
その頃から、私はよく、彼が右側を歩いていたことを思い出すようになりました。
広い道でも、狭い道でも、必ず右でした。
一度だけ、なぜ右なのかと訊いたことがあります。
彼は、こっちのほうが落ち着くんや、とだけ答えました。
敦賀駅の小銭
退院して二年目の、五月の朝でした。
私は、事故のあと一度も袖を通さなかったワンピースを出しました。
薄い水色の、彼が好きだと言っていた一着です。
台所の窓を閉め、ガスの元栓を締め、鍵を郵便受けに入れました。
どこか遠くへ行って、もう帰らないつもりでした。
行き先は、決めていませんでした。
決めないことだけを、決めていました。
鏡の前で髪を梳かしたとき、自分の顔が思ったより穏やかで、少し驚きました。
敦賀の駅は、その日、休みの人でずいぶん混んでいました。
改札の上で、発車案内の札がぱたぱたと回っていました。
売店の前に、鳩が二羽降りて、すぐに飛び立ちました。
アナウンスが、特急の到着を告げていました。
私は、その声を最後まで聞かずに、券売機へ向かいました。
並んでいる人の背中が、みんな同じ色に見えました。
券売機の前で、私は財布から小銭を出そうとしました。
右手が思うように開かず、五十円玉と十円玉が、床に散らばりました。
杖を握ったまま、私はそれを見ていました。
拾うためには、義足の膝を、うまく折らなければなりません。
人の足が、その硬貨をよけて流れていきます。
誰も、私を見ませんでした。
見られないことに、私はもう慣れていました。
見られるより、よけられるほうが楽だとさえ思っていました。
そのとき、目の前に、しわの寄った手が伸びてきました。
年配の男の人が、膝をついて硬貨を拾い集めてくれていました。
その後ろに、車椅子の女の人がいました。
薄い藤色のカーディガンを羽織って、膝に格子の掛け物をしていました。
髪をきちんと結い上げた、小柄な人でした。
奥さんのようでした。
「はい、ぜんぶ」
男の人は、私の手のひらに硬貨を乗せ、指を軽く握らせました。
私の右手は、力の入れ方を忘れていました。
落とさないように、その人が下から支えてくれました。
車椅子の奥さんが、身を乗り出して私の顔をのぞきました。
「しんどいねえ」
私は、うつむいたままでした。
「でもね、あんたにはまだ、明日があるのよ」
静かな声でした。
励ます声ではなく、事実を教える声でした。
その言葉に、私は立っていられなくなりました。
杖が滑って、私はベンチに倒れるように座りました。
奥さんは、何も訊きませんでした。
ただ、自分の膝掛けを外して、私の脚に掛けました。
義足の上からでも、膝掛けは温かく感じました。
感じるはずのない温かさでした。
布の重さが、かかっている。
それだけのことが、なぜか胸にきました。
私は、人前で声を出して泣きました。
事故のあと、初めてのことでした。
そのあいだ、ご主人はずっと、私の右側に立っていました。
私の右側にいた人
その日、私は電車に乗りませんでした。
夫婦は私を駅前の喫茶店に連れていき、昼ごはんを頼んでくれました。
私が食べ終わるまで、二人は自分たちの話をしていました。
娘さんがいたこと。
二十年前に、病でその子を見送ったこと。
奥さんの脚が悪くなったのは、そのあとだということ。
「気が抜けたんやろな」
ご主人は、そう言って笑いました。
奥さんは、笑いませんでした。
「毎週火曜に、あのホームに来るんです」
ご主人が、砂糖を入れずに珈琲をかき混ぜながら言いました。
娘さんが東京へ出ていった日、二人はそのホームで見送ったそうです。
「あの日、私は何も言えんかった」
「行ってこいとも、帰ってこいとも、言えんかった」
奥さんが、そこで小さく笑いました。
「だから、あなたには言えたのよ」
私は、膝の上の手を見ていました。
その手に、奥さんの手が重なりました。
指の節が太く、爪の先がきれいに切りそろえられた手でした。
それから、私たちは何度も会いました。
夫婦は、私を家に呼んでくれるようになりました。
一年後、二人は私を養子に迎えたいと言いました。
「これからは、飛び込んだりせんようにね」
奥さんは、そう言って、私の右手を両手で包みました。
「もうしません」
私は、はっきりそう答えました。
新しい家には、姉がいました。
夫婦の親戚の子で、先に養女になっていた人です。
姉は、私の名前を、初めから呼び捨てにしてくれました。
「ここでは、さん付けは他人やから」
そう言って、私の杖を勝手に短く調整しました。
実際、そのほうが歩きやすくなりました。
名前で呼ばれることに慣れるのに、私は少し時間がかかりました。名前で呼ばれないまま暮らした人の話を、のちに知りました(継母は私を名前で呼ばなかった)。
養母は、家の敷居を全部、削って平らにしてくれました。
段差のない、平屋のような家になりました。
私はそれを見て、修司さんの言葉を思い出しました。
養母は、私が来る前から、業者に見積もりを取っていたそうです。
「あんたが来るって決まる前に頼んだから、断れんかったのよ」
そういう言い方をする人でした。
段差のない、平屋がええ。
彼は、なぜあんなことを言っていたのでしょう。
その答えを知ったのは、養父と警察へ行った日のことでした。
事故の記録を、私はそれまで一度も見ていませんでした。
見れば、何か決定的なことがわかってしまう気がしていたのです。
養父は、何も言わずに、私の隣に座っていました。
書類には、二人の立っていた位置が、図で示されていました。
歩道の、車道寄りに彼。
その内側に、私。
私は、その図をしばらく見ていました。
指で、二つの印の間をなぞりました。
車道は、いつも私の右にありました。
だから彼は、いつも右にいたのです。
落ち着くからではありませんでした。
彼は、車の来るほうに、自分を置いていたのです。
段差のない平屋にこだわった理由も、たぶん、同じところから来ていました。
彼は、起こりうることを、いつも先に考える人でした。
あの日も、修司さんは、私の右側を歩いていました。
火曜日のホーム
いま、私は義足で、週に四日、事務の仕事に出ています。
家に帰ると、養母が台所から声をかけてきます。
姉は、私の歩き方の癖を、遠慮なく笑います。
その笑い方が、私は好きです。
火曜日には、三人で敦賀の駅へ行きます。
養父が車椅子を押し、私が杖をついて、その右側を歩きます。
ホームの端で、しばらく風に当たって、それだけで帰ります。
養母は必ず、白い線の内側に車椅子を止めさせます。
「危ないからね」
その一言を、私は毎週聞いています。
聞くたびに、少しだけ、胸のあたりが温かくなります。
誰を見送るわけでもありません。
先日、養母がぽつりと言いました。
「あんたが右に立つの、あの人に似てるわ」
私は、何も答えませんでした。
答えるかわりに、少しだけ、車椅子のほうへ寄りました。
海からの風が、ホームの屋根を鳴らしていきました。