夫の茶碗

静かな朝の茶のひととき

毎朝五時半に、私は餡を炊き始める。

和菓子屋の朝は早い。鍋に火をかけると、甘い湯気がゆっくり台所を満たして、まだ暗い七尾の商店街がようやく動き出す。

夫が死んで、三年になる。

松浦良和は、口数の少ない男だった。

私と結婚する前、彼は金沢の料亭で板前をしていた。魚を見る目は確かだったが、客を楽しませる言葉が苦手で、それが理由で長続きしなかったと本人から聞いたのは、結婚してずいぶん経ってからのことだった。

我が家の和菓子屋は、私の義父が創業した店だ。良和は板前の仕事を辞めた後、配達を手伝うようになり、そのうち数字が得意なことが分かって帳簿を任されるようになり、いつのまにか店の柱になっていた。

「あんた、なんでも器用やな」と私が言うと、「そんなことない」とだけ返ってきた。

良和はいつもそういう人だった。誉めても、感謝を伝えても、短い言葉でかわしてしまう。二十年の結婚生活の中で、愛しているとか、大切にしていると口にしたことは、おそらく一度もなかったと思う。

だから私はずっと、自分が夫にとってどういう存在なのか、よく分からないまま年を重ねていた。

七尾の商店街は、私が嫁いできた頃から少しずつ変わった。

鮮魚店が閉まり、荒物屋が閉まり、隣の書店がコインランドリーになった。でもうちの和菓子屋は残った。年始の紅白饅頭と、盆の上用饅頭と、彼岸のおはぎ。町の暦に沿って菓子を作り続けると、不思議なことに客足は途切れなかった。

良和は帳簿が得意なだけでなく、仕入れの交渉も巧みだった。寡黙な割に、仕事の場では確実な仕事をする人だった。あの人が倒れてから、私は初めてそのことのありがたさを知った。取引先への連絡も、材料の注文も、一から覚え直した。

知らないことばかりだった。二十年間、良和がどれだけのことをしてくれていたか。

良和が死んだのは、五十歳の春だった。

前の晩まで普通に夕食を食べ、次の朝、台所で倒れていた。急性心筋梗塞だった。救急が来たとき、すでに意識はなかった。

病院で「手の施しようがありません」と告げられたとき、私には泣く間もなかった。娘に電話して、義父の施設に連絡して、葬儀社に問い合わせて、気がつけば夜になっていた。

翌日も、その翌日も、することがたくさんあった。良和が生前に作ってくれていた帳簿のおかげで、手続きは思ったよりもスムーズに進んだ。後になって気がついた。あの人は几帳面な帳簿を残していくことで、私が一人でも困らないよう準備していたのかもしれないと。

でも、そのときは考える余裕もなかった。

良和の使っていた萩焼の茶碗だけ、食器棚の奥にしまい込んだ。

捨てることも、使うことも、できなかった。

それでも毎朝、私はその茶碗を洗った。

使いもしないのに、洗った。なぜそんなことをするのか、自分でもよく分からなかった。布巾で水気を拭って、食器棚に戻す。それだけのことを、三年間続けた。

娘が心配して「お母さん、そろそろ整理したら」と言ったのは、一周忌が過ぎた頃だった。

「もう少ししたら」と私は答えた。

もう少し、もう少し、と言っているうちに、三年が過ぎた。

茶碗棚の中で、良和の萩焼だけがいつも清潔に乾いていた。白っぽい陶器の肌は、傷一つなかった。

その朝、何かが違った。

十月の終わりで、七尾は朝から底冷えしていた。餡を炊き終えて、ひと息つこうと湯を沸かした。いつもの私の茶碗を取ろうとして、手が止まった。

良和の茶碗が、目に入った。

食器棚の奥で、白っぽい萩焼が静かにそこにあった。

なぜそうしたのか、今でもうまく説明できない。ただ、その朝の台所の静けさが、何かを押した気がした。手を伸ばすと、ひんやりとした陶器の感触が掌に広がった。長年洗い続けていたから、傷一つない。思ったより軽かった。

お茶を注いだ。

湯気が立ち上る中、茶碗を口に近づけようとして、ふと内側が目に入った。

底の白い陶器に、細い字が刻まれていた。

最初、何かの傷かと思った。だが違った。釉薬の下に、鋭いもので引っかいたような細い線が、文字の形をしていた。

「ヨシエ」

三文字。カタカナで、不格好に、しかし一画一画を丁寧に刻んだと分かる字だった。

私はしばらく、その文字を見つめた。茶碗の中のお茶が冷めていくのが分かったが、置くことができなかった。

窓の外で、魚屋の開店準備が始まる音がした。台所の壁時計が六時を回った。店を開けるまで、あと一時間半あった。

結婚した翌年の春のことを、思い出した。

良和が、妙に帰りの遅い夜が続いた時期があった。帳面の数字が合わないのかと思って聞いたら、「ちょっとな」とだけ言う。

一ヶ月ほど経ったある日、義父が笑いながら教えてくれた。「良和くん、陶芸教室に通っとるらしいぞ。こっそり」と。

「なんで?」と聞きに行くと、良和は少し困った顔をして「内緒や」とだけ言った。

その後、特に何も渡されなかった。何を作ったのか、どうなったのかも、話題に上がらなかった。私はそのうち忘れていた。

二十年以上、忘れていた。

良和は毎朝、この茶碗でお茶を飲んでいた。

私の名前が刻まれた底を、毎日見ながら。

一度も、そんなことを言わなかった。

茶碗に名前を刻んだことも、なぜ刻んだのかも、何も教えてくれなかった。朝ごはんの後、この茶碗を両手で包んで、ゆっくりお茶を飲む。それが良和の習慣だった。私はそれを何百回と見ていたはずなのに、底に何が書いてあるかなど、考えたこともなかった。

上手とは言えない字だった。線の深さも揃っていない。陶芸の素人が、慣れない道具で一文字一文字ゆっくり刻んだ、そういう字だった。

「知らんかったわ」と、私は誰もいない台所に向かって言った。

声は反響もせず、ただ消えた。

それでよかった。返事がないのは、ずっと前から知っていた。

私はその朝、冷めたお茶をゆっくり飲んだ。

良和の茶碗は、手のひらにすっと収まった。長年使い込まれた陶器は、掌と話し合うように、ちょうどいい重さがあった。義父から引き継いだ和菓子屋の台所で、何百回と繰り返してきたはずの朝なのに、その日だけが違った。

目の前の食器棚に、良和が二十年間使い続けた箸置きがある。使い古した割烹着が、壁のフックに掛かっている。気がつけば私は、良和の痕跡をどこにも片付けていなかった。捨てられなかったのではなく、捨てたいと思ったことがなかったのだと、そのとき初めて分かった。

その日から、私は毎朝良和の茶碗でお茶を飲むようになった。

店を開ける前の五分間、餡の匂いが漂う台所で、一人でお茶を飲む。

底の「ヨシエ」は、毎日そこにある。

良和は結局、あの陶芸教室で何を作ったのか、最後まで教えてくれなかった。でも、たぶん教えるつもりもなかったのだと思う。言葉にしない人だった。感謝も、愛情も、そういうものを口にするのが生涯苦手だった。

だから茶碗の底に刻んで、毎朝一人で見ていたのだと思う。

私には届かなかったけれど、三年遅れで届いた。

先日、義父の施設を訪ねた帰り道、ふと陶芸教室のことが気になって、昔の電話帳を引っ張り出してみた。

七尾に陶芸教室は少なく、良和が通っていた頃に存在した教室が一つだけ見つかった。もうとっくに廃業していた。

それでいい、と思った。

答えはもう手の中にある。

教室がどこにあったか、誰が教えていたか、良和がそこで何を作ろうとして何度失敗したか、そんなことを知らなくていい。あの不格好な三文字が、二十年以上かけて私に届いた。それで十分だった。

今朝も、五時半に火をかけた。

湯が沸いたら、良和の茶碗にお茶を注ぐ。

冬が近くなってきた七尾の朝は、吐く息が白い。

商店街の向こうで、魚屋が板を出す音がする。隣の豆腐屋からお湯の音が聞こえる。七尾の朝がゆっくり始まっていく。

でも茶碗を包む両手は、温かい。

この温かさを、良和は毎朝感じていたのだろうかと思う。

今はもう、そう思うしかない。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

ラクリマを応援する

いつもお読みいただき、ありがとうございます。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

月額 220円(初月無料)または 880円 の買い切りで、
広告のない、静かな読書体験をお届けします。

プランを見る
メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。

読んでいただけるだけで、十分に励みになります。
それでも応援したいと思ってくださる方へ、心より感謝いたします。