
俺は港町で写真家として生きている。十年前、その港町で君に会った。朝日が水面を金色に染める浜辺で、キャンペーン撮影の仕事中だった。
君は漁師の娘で、朝四時に目を覚ます生活をしていた。毎朝、父親の船を見送る時に、俺の三脚を踏み潰しそうになったのが出会いだった。謝るでもなく、俺を一瞥すると、君は防波堤を駆け下りていった。その後ろ姿が、やけに瞳に焼き付いた。
それから二年間、俺たちは一緒にいた。君は唯一、俺のカメラに「もっと撮ってよ」と文句を言わない人だった。光と影、コントラストと色彩のバランスに、俺はずっと夢中になることができた。君の横顔、君が乗る自転車の後ろ姿、君が父親の帰宅を待つ夜明け前の静けさ。全てが被写体だった。被写体であって、同時に、すべてだった。
※
朝四時の浜辺での日常は、何物にも代え難かった。
君の手は塩辛く冷たかった。浜風で赤くなった頬に、俺の指を当てると、君は「冷たい」と呟いた。そういう時、君は決まって俺の腋に顔を埋めた。朝四時の浜辺なんて、普通の人間なら近づかない。でも俺たちにとっては、その場所だけが世界だった。
君の父親が漁に出る準備をしている間、俺たちは防波堤の端に腰掛けた。新聞紙に包まれたおにぎりを食べた。海苔が口の端に残ると、君は笑いながらそれを取ってくれた。その手指が触れる瞬間、俺の心臓は毎回加速した。
港町の朝は、潮の匂いで満ちていた。生の海の、少しえぐい香り。初めは嫌だったが、何日も過ごすうちに、それが君の存在そのものに思えてきた。君と過ごした時間は、その匂いに染められていった。
午後になると、俺たちは散歩に出た。港町の路地を歩いた。古い木造家屋、錆びた看板、猫が昼寝をしていた物置の前。君はいつも同じ道を選んだ。その道の先にある小さな神社、朱塗りが剥げた鳥居。君はそこで立ち止まり、目を瞑った。「ここが好き」と君は言った。理由を聞いても、君は笑うだけだった。
時折、君の父親の船を手伝うこともあった。俺は素人だったが、君の指示に従った。縄を結ぶ、網を整える、水を汲む。単純な作業だったが、君と並んでやると、それは儀式のように感じられた。君の父親も俺を見守るように、黙って仕事をさせてくれた。その沈黙の中に、何かしらの承認があるのだと、俺は感じていた。
夜間は君の実家に上がることもあった。古い食卓で、君の母親が作った粗末な夕食を食べた。味噌汁、焼いた魚、漬物。何の変哲もない食卓だったが、君が隣にいると、世界で一番美しい食卓に見えた。君の家の障子越しに、海が見えた。波音が絶えず、どこからか聞こえていた。
※
別れたのは、俺の不器用さが原因だ。
東京の写真展示会で受賞が決まったとき、俺は君に「一緒に来ないか」と誘った。その時点では、提案ではなく、本当は願いだった。でも、俺の口から出たのは「来たけりゃ来てもいいぞ」という言い方だった。
君の手が、止まった。夜間の防波堤で、俺たちは立っていた。波が足元に達するほどの低い位置に。君は長い沈黙を保った。その沈黙は、言葉より重かった。
「そういうことなら、別にいい」と君は最後に言った。
「俺はお前に来てほしい」と俺は言った。その時、初めて本当の気持ちを言葉にした。でも、君はもう振り返らなかった。
「遅い」と君は呟いた。
その後、俺が上京する日が来た。朝四時、俺は一人で浜辺に立った。金色に染まる水面。君がいるはずの防波堤には、誰もいなかった。その景色を撮影することができなかった。レンズを向けることすら、耐えられなかった。
駅へ向かう道すがら、君の家の前を通った。カーテンの隙間から、君が佇んでいるのが見えた。でも俺は立ち止まらなかった。足が止まらなかった。それは、君への罪悪感とも、逃げ出したい気持ちとも、判然としなかった。
その後、俺が上京し、写真の仕事が忙しくなっても、俺は君に「帰ってくる」と言うことができなかった。帰りたい気持ちはあった。港町の海風、防波堤の石の冷たさ、君の家の前の電信柱、全てが恋しかった。でも、成功を手にした途端、帰ることが負けのような気がしてしまった。そして三年が過ぎた。
君からの連絡は、二年目で途絶えた。
昨年、俺は港町に帰ってくることにした。理由は仕事だった。地方の過疎化を撮るドキュメンタリーシリーズの撮影地として、この港町が選ばれたのだ。偶然か必然か、俺はその仕事を受けた。
帰ってきた港町は、変わっていた。防波堤の白ペンキは剥がれ、漁船の数は減っていた。でも、朝四時の浜辺は相変わらず静かで、同じ金色の光に染まっていた。誰もいない浜辺。君がいない浜辺。その事実が、胸に突き刺さった。
※
君に会ったのは、港町の古い雑貨屋だった。
三週間の撮影期間中、俺は毎日その界隈を歩き回っていた。人口統計、産業衰退、高齢化。レンズを通して、数字では見えない何かを切り取ろうとしていた。
雑貨屋の窓に、古い鍵が並べられていた。漁師たちの家から集めたものだという。生錆びた鋼、磨かれ続けた銅製の取っ手、複雑な凹凸を持つ鉄の塊。どれも何十年も使い込まれたものばかりだ。一つひとつが、ある人生の断片であった。ある家の、ある時間を守ってきた鍵たち。俺はカメラを構えようとした。
しかし、その瞬間、空気が変わった。意味はわからない。ただ、背筋が走った。その時、ドアの奥から足音がした。
君だった。
三年の歳月は、君の顔に刻まれていた。髪は短くなり、手には職人のような茶色い斑紋がついていた。目の周りには、細い皺が増えていた。全部が、あの朝四時の浜辺の君とは違う別人のようで、同時に、疑いようもなく君だった。
俺の心臓が、鼓動を失った。それから急速に、激しく動き始めた。視界がぼやけた。耳がうなった。君は同じように動きを止めていた。
「……俺だ」と俺は言った。何度も考えた台詞ではなく、口から出たのはその一言だけだった。
君は動かなかった。目も合わせず、その場から逃げ出しそうな気配があった。俺は必死に何かを言おうとしたが、また不器用な言葉しか出てこなかった。
「あのな、俺は……」
「あるよ」と君が切った。声は低く、沈んでいた。
君は棚の奥に手を伸ばした。その動きは、すべてを終わらせるような、決定的な動きだった。一つの鍵を取った。それは、他のどの鍵よりも小さく、装飾的で、家を開けるためのものではなく、何かを守るための鍵に見えた。
「これ、覚えてる?」
覚えていた。俺たちが付き合い始めて三ヶ月目の誕生日。君は港町の骨董市で見つけたその鍵をくれた。「何に使う鍵だと思う?」と君は笑った。「日記帳か、それとも心か」。俺はそれを笑い飛ばして、ポケットに入れた。その鍵のことは、東京に行ってからすぐに、忘れていた。
「あの時」と君は続けた。「お前がくれた返事の意味、ずっと考えてた。『来たけりゃ来てもいいぞ』って」。君の声は揺れていた。「それって、つまり、俺は要らないってことだと思った」。
違う。違う。違う。
俺は叫びたかったが、声にならなかった。
「だからこそ」と君は言葉を重ねた。「父さんが倒れた時も、お前に連絡しなかった。お前は成功の階段を上ってるんだからって」。
俺の脳が停止した。
「父さんは三年前に亡くなったんだ。その直後、お店の仕事を引き継ぐことになった。この雑貨屋は、もともと親父が集めてた鍵を並べてたんだけど、それをそのまま続けてる。毎日毎日、色々な人の家から引き取った鍵を並べて、この町の物語を売ってる」。君の目には、涙が溜まっていた。「そういう人生になった」。
俺は何も言えなかった。君の父親のこと。父親の死のこと。君がその後、一人でどうやって生きてきたのか。全てが、俺の知らない間に起こっていた。
「あ、でも安心しろ」と君は無理やり笑った。「こんな話をするために、お前に会いたかったわけじゃない。もう十年も経ってるし。ただ、この鍵が戻ってきたから、返したかっただけ。」
※
君が差し出した鍵は、俺のポケットから落ちたのだという。五年前、何人かの客が届け出た。そして君の父親が買い取った。その時点では「俺」の物だと気付かなかったらしい。でも去年、整理していた親父の荷物の中から出てきて、君はそれが俺のものだと気付いた。
「ずっと返そうと思ってた。でも連絡先もなくなってたから」と君は言った。
その鍵を握った時、初めて俺は理解した。不器用さとは、何も言わないことではなく、言わなくてもいいと思い込むことだったのだ。君は俺からの連絡を待っていた。待ち続けていた。そして父親が亡くなっても、その後も、何か形で繋がっていたいと思っていたのだ。この雑貨屋で、毎日毎日、色々な人の物語を並べながら。
「ごめん」と俺は言った。声は枯れていた。「本当にごめん」。
君は何も返さなかった。顔を背けたまま、奥の棚へ戻っていった。
その夜、俺は防波堤に座って、その古い鍵を眺めていた。塩風が肌を刺して、耳の奥が冷たくなっていった。朝四時になると、浜辺は金色に染まるはずだ。でもそこに君の後ろ姿はもういない。代わりに、俺がいるだけだ。一人で。
潮の香りが、あの日のままだった。君と一緒に過ごした、あの匂い。それなのに、君はもう帰ってこない。防波堤の石の冷たさも、海風の刺す感覚も、全てが君を思い出させた。十年も前のことなのに、その朝四時の時間は、今も俺の身体に残っていた。
翌日、俺は君の家を訪ねた。新しくなった家の玄関で、長い時間ノックができなかった。最終的に、ノックしたのは君だった。内側から、ドアを開けるために。
「撮影、頑張ってね」と君は言った。その声は、やさしかった。同時に、決定的に遠かった。
俺は何も言わず、その古い鍵を君に返そうとした。でも君は受け取らなかった。
「それはお前のもの」と君は静かに言った。「俺から与えたものに、返却はない」。
ドアが閉まった。防波堤の下では、波が音もなく押し寄せていた。
俺は港町で三週間の撮影を続けた。毎日毎日、衰退する町の表情を切り取った。でも一番撮りたかった写真は、決して撮ることができなかった。それは、君が朝四時に浜辺を歩く姿。その後ろ姿の中に、すべてが詰まっていたからだ。
帰りの新幹線で、俺はその古い鍵をずっと握っていた。窓の外を流れる景色が、徐々に都会に変わっていく。港町は遠ざかっていく。君も遠ざかっていく。でも、この鍵だけは、俺の手の中に残っている。
あの古い鍵は、今も俺のポケットにある。何度も捨てようと思った。でも捨てることができなかった。それは、君が与えてくれた唯一のもので、同時に、俺が失ったすべてを象徴していた。
不器用な俺は、結局、無言のままだった。でも君は理解してくれたのだと思う。その沈黙の中に、全てが詰まっていることを。朝四時になると、俺は目を覚ます。その習慣は、もう十年変わらない。そして、そのたびに、君のことを思う。防波堤の景色を思う。潮の匂いを思う。
もう帰ることはないのだろう。港町へ帰ることも、君のもとへ帰ることも。でも、朝四時の浜辺の光だけは、今も俺の中で金色に輝いている。