
あの日から、私の暗証番号は、一度も変わっていない。
銀行のカードも、携帯電話の画面ロックも、ずっと同じ四桁の数字を使っている。
三十年以上が過ぎたいまも、指は迷わずにその数字を押す。
元号が昭和から平成に変わろうとしていた頃の話だ。
当時、私は二十代の半ばで、彼女も同じ年だった。
同じ印刷会社の、私は営業で、彼女は経理だった。
私が彼女の存在を意識したのは、社員食堂の味噌汁の件だった。
その日の私は、取引先に叱られ、肩を落として盆を持っていた。
空いた席を探していると、窓際の席から手が上がった。
「ここ、空いてますよ」
彼女は、経理の机の端でいつも電卓を叩いている、物静かな人だった。
向かいに座ると、彼女は黙って、自分の盆から小鉢を一つ、私の盆に移した。
「ひじきです。余っちゃったので」
それだけだった。
けれど、その小鉢の温度が、午後の訪問先まで、私の胸に残っていた。
彼女は、字が小さくて、几帳面な人だった。
伝票の隅に、いつも薄く鉛筆で、小さな数字を書き足していた。
昼休みが終わる十分前になると、彼女は決まって腕時計を見て、「じゃあ」と立ち上がった。
残りの時間が気になる人なのだと、そのときは思った。
あとになって、それが、限られた時間を数える癖だったと知った。
私は、聞かれてもいないのに、自分の失敗談ばかり話した。
彼女は、いつも最後まで黙って聞いていた。
聞き終わると、「大丈夫」と、一言だけ言った。
その「大丈夫」には、不思議な重みがあった。
初めて二人で出かけたのは、秋の植物園だった。
銀杏並木の下で、彼女は落ち葉を一枚拾って、手帳に挟んだ。
「栞にするの」
黄色い葉脈が、午後の光に透けていた。
私は、その横顔を、もっと見ていたいと思った。
帰り道、彼女は急に立ち止まった。
「今日は、ありがとう。……もう少しだけ、歩いてもいい?」
「もちろん」
二人で、日が暮れるまで、並木道を何度も往復した。
あの頃の私は、一日を終えるたびに、財布の小銭を数える癖があった。
「数字が好きなんだね」と彼女が笑った。
「君ほどじゃない」
私がそう返すと、彼女は、「わたしは、数えておきたいだけ」と呟いた。
昼休みに社員食堂で向かい合うようになり、気がつけば、毎日の習慣になっていた。
ここに載っている届かなかったごめんや再生の誓いを読んで、私も、あの数字の話を残しておきたくなった。
片胸のないひと
付き合おうかという時期だった。
夜中の十二時を過ぎて、アパートの電話が鳴った。
受話器の向こうで、彼女は泣いていた。
「結婚は、できない体だから。付き合えない」
その一言だけを繰り返して、あとは言葉にならなかった。
「いま、どこにいる」
「家」
「行くよ」
自転車を漕いで、彼女の部屋へ向かった。
夜の空気が冷たくて、ハンドルを握る指がかじかんだ。
玄関のドアを開けた彼女は、目の縁が赤く腫れていた。
座布団に正座して、膝の上で両手を握りしめていた。
壁には、季節外れのカレンダーが掛かっていた。
三月のままのページに、小さな丸印がいくつもついていた。
通院の日の印だったのだと、後で知った。
「一度ね、乳癌の手術をしているの」
「うん」
「片方の胸が、ないの。ごめんなさい。黙ってて」
石油ストーブの上で、やかんが小さく鳴っていた。
湯気が、彼女の眼鏡を曇らせた。
彼女は、それを拭こうともせず、まっすぐ私を見ていた。
私は、言葉を探した。
気の利いた台詞は、何ひとつ出てこなかった。
「……それは、僕にとっては、結婚できないっていう条件じゃないよ」
やっと、それだけを絞り出した。
彼女は顔を上げて、私の目を見た。
「本当に?」
「本当に。片腕がなくても、片足がなくても、好きな人は好きだと思う。例えが悪くて、ごめん」
彼女は、泣きながら少し笑った。
その笑い顔を、私はいまでも、いちばん鮮明に思い出せる。
その夜は、始発の電車が動き出すまで、彼女の部屋で話をした。
子どもの頃の話。好きな食べ物の話。実家の庭にあった柿の木の話。
彼女は、病気の話を、一度もしなかった。
私も、聞かなかった。
聞かないことが、あの夜の私にできた、たった一つの優しさだった。
それから半年もしないうちに、私たちは一緒に暮らし始めた。
六畳一間の、日当たりの悪い部屋だった。
窓の外は、隣のビルの壁だった。
それでも彼女は、朝になると窓を全開にして、わずかに差す光に両手をかざした。
「ほら、今日も朝が来た」
そう言って笑う声を、私は毎朝、布団のなかで聞いていた。
引っ越しの夜、卓袱台の上に、二枚のカードを並べた。
銀行の口座も、鍵付きの引き出しも、暗証番号をばらばらにしておくと、私も彼女もすぐ忘れてしまうのだった。
「番号、そろえない?」
彼女が言った。
「どうやって」
「お互いの誕生日を足すの。そしたら、忘れても二人で思い出せるでしょ」
私の誕生日は、三月七日。
彼女の誕生日は、二月五日。
電卓を叩いた。
三百七に、二百五を足して、五百十二。
「〇五一二。……あれ、時計みたいだ」
私は何気なく言った。
「五時十二分、か。明け方みたいな数字だな」
「朝のね」
彼女が、小さな声で言った。
「朝の時間みたいで、いい。わたし、朝が好き」
その夜、私たちは、二枚のカードに同じ数字を登録した。
銀行の窓口の人は、どちらの番号も同じだと知って、「仲がいいですね」と笑った。
私たちは、顔を見合わせて、少しだけ照れた。
卓袱台の電気スタンドが、二人の手元を丸く照らしていた。
足の引きずりと頭の検査
幸せな時間は、長くは続かなかった。
同居を始めて数か月、彼女の肺に転移があるかもしれないという検査の連絡が、病院から入った。
急に入院が決まり、それからは、検査の連続だった。
肺への内視鏡検査は、ひどく辛かったそうだ。
面会時間の終わりに、私は毎日、病室のドアの前で彼女に手を振った。
病室の窓から、小さな公園が見えた。
彼女は、ベッドの上でその公園を眺めながら、ブランコに乗る子どもの数を数えていた。
「今日は三人」
「昨日は五人だったね」
私たちは、そんな他愛もない数字のやりとりで、不安をやり過ごした。
入院から二週間が過ぎた頃だった。
帰り際に、彼女が言った。
「ねえ、左の足が、少し引きずって歩いてるみたい」
「え?」
「自分でも、気づかなかったの。看護師さんに言われて」
「先生に、話してみる」
私は、なるべく普通の声でそう答えて、病室を出た。
翌日、先生に症状を伝えた。
先生は、カルテから顔を上げずに、短く言った。
「……明日、頭の検査をします」
足の異常が、どうして頭の検査につながるのか。
私にはその理由が、すぐには分からなかった。
分からなかったことが、後から怖くなった。
検査をした夜、私は結果を聞きに、病院の応接室へ呼ばれた。
彼女には「大丈夫だよ。大したことないって」と言い残して、廊下を歩いた。
自分の足が、床に沈むようだった。
廊下の蛍光灯が、一本だけ切れかけて、ちらちらと明滅していた。
私は、その点滅を数えながら歩いた。
数えているあいだだけ、頭のなかが空っぽでいられた。
応接室のソファは、座るとぎしりと鳴った。
担当の先生は、まだ若い人だった。
患者さんにも、私にも、いつも真剣に励ましの言葉をかけてくれる先生だった。
その先生が、机の上の写真を見つめたまま、最初に言った。
「どうしようも……」
先生の目に、涙が滲んでいた。
窓の外では、夕方の雲が、ゆっくりと形を変えていた。
私は、その雲の動きから目を離せなかった。
「脳にも、転移がありました。癌細胞の成長が早くて、周りの脳を押しながら進んでいます」
「取れないんですか」
「摘出したいのですが、周囲が柔らかくなっていて、いまの医学では、不可能です」
私は、言葉が出なかった。
膝の上で握りしめた拳が、白くなっていた。
先生は、それを見て、何も言わずに、私が顔を上げるまで待ってくれた。
その待ち時間の長さが、結果の重さを、何より正直に語っていた。
ただ、涙だけが、膝の上に落ちていった。
勇気を出して、聞いた。
「どれくらい、持ちますか」
先生は、長い沈黙のあと、答えた。
「何もしなければ、二か月。延命の治療をすれば、半年でしょう」
「治療しても、半年ですか」
「治療とは、もう言えません。延命です」
その方法は放射線の治療で、激しい吐き気や脱毛、めまいを伴うという。
入院はしているものの、彼女はとても元気で、傍目には病人に見えなかった。
その元気な彼女に、髪を失わせて半年。
何もせずに二か月。
せめて余命が二年であれば、抜けた髪も生えそろうだろう。
彼女の髪は、背中までまっすぐに伸びた、細くて黒い髪だった。
朝、洗面所で、彼女がそれを櫛で梳かす後ろ姿が好きだった。
その髪が、一本ずつ抜けていく光景を、私は想像してしまった。
想像した自分が、許せなかった。
けれど、半年なんて。
私は応接室のソファで、膝に爪を立てて、答えの出ない問いを繰り返した。
先生は、そんな私に、湯気の立つお茶を一杯、黙って置いてくれた。
一口飲むと、熱さが喉を下りて、ようやく息ができた。
「今夜は、彼女のそばにいてあげてください」
先生はそう言って、先に部屋を出ていった。
結婚しましたの葉書
翌日、先生から外泊の許可をもらい、二人で自宅に帰った。
いつもの六畳一間が、見知らぬ他人の部屋のように静かだった。
その夜、彼女のほうから切り出した。
「検査の結果、聞かせて。嘘は、なしで」
喉の奥が、引きつるように痛んだ。
けれど、私は彼女を信じて、正直にすべてを伝えた。
人生で最も辛かった瞬間は、あの夜だと、いまでも思う。
言葉は、ここでは省かせてほしい。
二人とも、ぼろぼろに泣いた。
卓袱台の上には、あの夜、電卓がそのまま置いてあった。
長い時間が過ぎて、彼女が顔を上げた。
目は腫れていたが、声は驚くほど静かだった。
「退院して、少しでも楽しもう」
「いいの?」
「治療で髪が抜けて、ベッドで半年過ごすより、あなたと動きたい」
彼女は、卓袱台の端を、指でなぞった。
「それにね」
「うん」
「あなたの顔を見ながら、朝を迎えたい」
その言葉を、私は断れなかった。
「だって、わたし、まだ新婚旅行も行ってないよ」
翌々日に病院へ戻り、先生に二人の考えを伝えた。
先生は、少し黙ってから、深くうなずいた。
先生は、診察室を出る私たちを、廊下の端まで見送ってくれた。
白衣の袖口が、少し濡れていた。
泣いたあとの目を、先生は隠そうともしなかった。
「頑張ってください。負けないで」
二日後に、彼女は退院した。
その足で、私たちは旅行会社へ向かった。
窓口で、一番近い日付の新婚旅行を頼んだ。
行き先は、彼女がずっと見たがっていた、海辺の温泉町だった。
パンフレットの写真を、彼女は指でなぞった。
「ここの朝焼けが、すごいんだって」
「朝焼け、好きだもんな」
「うん。ずっと見たかった」
店員さんは、私たちの顔を交互に見て、「おめでとうございます」と笑った。
私は、喉の奥で何かを飲み込んで、「ありがとうございます」と頭を下げた。
家に帰ると、二人で「結婚しました」と書いた葉書を、何十枚も作った。
彼女が宛名を書き、私が切手を貼った。
友人たちは、誰一人、彼女が病気だとは知らなかった。
返信の電話が次々とかかってきて、みんなで祝ってくれた。
その賑やかさが、救いでもあり、痛みでもあった。
旅行の朝、私たちは、宿の窓から日の出を見た。
水平線の上が、薄い桃色から橙色へ、ゆっくりと染まっていった。
彼女は、毛布を肩にかけたまま、身じろぎもせずに見ていた。
「ありがとう」
「何が」
「連れてきてくれて」
私は答えられず、彼女の肩にかけた毛布を、ただ引き上げた。
波の音と、早起きの鳥の声が、窓の外から聞こえていた。
余命二か月と言われながら、彼女は本当に頑張った。
退院から四か月後の花の博覧会にも、車椅子で行くことができた。
色とりどりの花の前で、彼女は子どものように目を輝かせた。
車椅子の背もたれ越しに、彼女の肩の細さが、はっきり分かった。
去年の秋より、一回り小さくなっていた。
「ねえ、来年も来ようね」
彼女がそう言ったとき、私は「うん」と答えた。
嘘になると分かっていても、頷くしかなかった。
けれど、病気は確実に進行していった。
やがて、自宅での療養が難しくなり、彼女は再び入院した。
最後の夜は、雨の降りしきる夜だった。
窓ガラスを叩く雨の音が、病室の白い壁に吸い込まれていた。
彼女は、夜のうちに意識を失った。
私は、ベッドの端に潜り込んで、彼女の頭を腕に乗せた。
腕枕は、二人のあいだで、いつもの寝方だった。
翌朝、雨が上がったころ、彼女は私の腕のなかで、静かに旅立った。
暗証番号と診断書の時刻
彼女が逝って、半年ほどが過ぎた頃だった。
役所への書類提出のために、病院で診断書を二通取った。
窓口で受け取った封筒の一通は、なぜか封が開いたまま、私の手元に来た。
帰りのバスのなかで、私はそれを、つい開いてしまった。
窓の外では、桜の蕾が、まだ固いまま風に揺れていた。
彼女が最後に見られなかった春が、そこまで来ていた。
病名、経過、担当医の署名と印。
どれも、事実だけが、四角い罫線の中に収まっていた。
事務的な字を見ていると、彼女の名前だけが、他人のもののように見えた。
文字の羅列を、順に目で追っていた。
ある一行で、目が止まった。
臨終の時刻の欄だった。
「平成*年*月*日 午前五時十二分」
手が震えて、紙の端がかさかさと鳴った。
〇五一二。
二人で決めた暗証番号が、そのまま並んでいた。
三月七日と、二月五日を足した数字。
卓袱台の電卓。
「朝のね」と彼女が言った、あの声。
診断書の時刻の欄には、二人で決めた暗証番号が、そのまま並んでいた。
彼女の好きな朝の時間が、そこに印字されていた。
バスの窓の外で、春の雨が降り出していた。
帰宅して、卓袱台の前に座った。
電卓が、引き出しの奥から出てきた。
私は、三百七に、二百五を足してみた。
五百十二。
何度打っても、同じ数字が、小さな画面に灯った。
私は、封筒を胸に抱えたまま、顔を上げられなかった。
きっと、本当の偶然なのだと思う。
医師が書いた時刻は、時計の針が指した、ただの数字だ。
けれど私は、あの日から、こう思うことにしている。
「忘れないでね」
彼女が、そう言っているのだと。
それからの三十年余り、私はカードを替えなかった。
銀行の窓口で、行員さんに番号の変更を勧められても、首を横に振った。
ATMの前で、暗証番号を押すたびに、画面の向こうの暗がりに、明け方の窓が見える。
指が、〇、五、一、二と、ゆっくり動く。
一度だけ、指を止めたことがある。
彼女の誕生日が来る朝だった。
画面には、「暗証番号を入力してください」という文字が出ていた。
私は、「朝のね」と、小さく声に出した。
後ろに並んでいた人が、怪訝そうにこちらを見たが、構わなかった。
忘れる日は、きっと、来ないだろう。
彼女の誕生日が来る朝は、必ず、窓を全開にする。
わずかな光に、両手をかざしてみる。
「ほら、今日も朝が来た」
誰にともなく、そう呟いて、一日を始める。