
三年前の春。
桜がほころび始めた頃、僕は人生を終わらせようと考えていた。
大きな理由があったわけじゃない。
失恋、借金、そして勤めていた会社の倒産。
すべてが重なって、世界が灰色に見えた。
人付き合いも得意ではなく、友人もほとんどいない。
両親とも疎遠で、ひとり狭い部屋に閉じこもる毎日だった。
※
最後くらい、美味しいものを食べよう。
そう思って、手元に残っていた一万円と数千円を握りしめた。
人生最後の晩餐。
当時の僕は、本気でそう考えていた。
近くのすき家で、精一杯たくさん注文して食べた。
贅沢にはほど遠いけれど、空腹の胃が少し満たされただけで、涙が出そうになった。
店を出た後、どうやって死のうか、そればかりを考えていた。
※
そんな僕の胸に、ふと浮かんだのは祖母の顔だった。
もう何年も会っていなかった。
就職してから忙しさにかまけて、一度も帰省していなかった。
できることなら、最後に祖母に会いたい。
でも、残ったお金では地元に帰る交通費すら足りない。
※
悩んだ末、テレビや家具などをすべて質に入れた。
ぎりぎりの金額で、夜行バスのチケットを手にした。
その夜、僕は数年ぶりに地元へ向かった。
※
到着した朝、懐かしい町の空気に胸が詰まった。
ところどころ変わっていたけれど、風景は昔のままだった。
自分がどれだけ情けないかを痛感しながら、祖母の家の前に立った。
※
玄関の戸を開けると、祖母がいた。
僕の姿を見るなり、涙をこぼしてこう言った。
「よー帰ってきた。何も言わんでよかけん、ゆっくりしていきんしゃい」
その一言が胸に刺さって、涙が止まらなかった。
祖母は、前よりもずっと小さくなっていた。
※
「美味しかもんば作るけん、ちょっと買い物してきてくれんか?」
言われた通り、近くの小さなスーパーに向かった。
レジを済ませて出口に向かう途中、突然肩を叩かれた。
振り返ると、女性の店員が微笑んで立っていた。
「あの、すいません。レジ通してない商品ありますよね?」
一瞬、言葉を失った。
でもすぐに、彼女はいたずらっぽく笑って言った。
「冗談よ!もしかして○○(僕の旧姓)くんじゃない? 私のこと覚えてる?」
※
そう言われても、思い出せなかった。
彼女は笑いながら名乗った。
「山本ゆき。小さい頃、よく一緒に遊んでたでしょ?」
その名前に、記憶の片隅がざわめいた。
少しずつ、断片的な思い出が蘇る。
幼い頃の面影を、彼女の笑顔の中に見つけた。
「懐かしか〜!よく覚えとったね!」
そう言いながらも、正直に言った。
「ごめん、思い出すまで時間かかった」
「まあ、仕方ないよ。私、美人になったしね!」
そう笑った彼女は、とても明るくて、眩しかった。
「もうすぐバイト終わるけん、ちょっと待ってて!」
※
それから20分後、彼女と再会を果たした。
「よし、行こっか!」
そのまま車に乗せられた僕の前に、もう一人の女性が現れた。
「久しぶりー康孝ー!」
西田(仮名)。遠い親戚で、昔よく一緒に遊んだ子だった。
三人でご飯に行き、懐かしい話に花が咲いた。
あの頃の記憶が、少しずつ心の奥から浮かび上がってきた。
※
二人の明るさに、僕の心も少しずつほどけていった。
彼女たちは今を精一杯生きていた。
僕だけが立ち止まっていたのだと気づかされた。
山本は人妻だったけれど、それでも気にせず、再会を喜んでくれた。
※
後日、山本と再び会った。
車で昔遊んだ場所を巡った。
「ありがとう。実は、色々あってさ……」
僕がそう言いかけると、彼女は遮った。
「よかよ。私だって色々あるし。まだやり直せるやん」
その言葉に、心が震えた。
※
その後、何度か会った。
彼女は離婚調停中で、辛さを隠して笑っていた。
僕もまた、心の奥にある痛みを打ち明けた。
互いの孤独が、自然と溶け合っていた。
※
一週間後、僕は地元を離れた。
まだやり直せる。
そう思わせてくれたのは、彼女だった。
※
日雇いやバイトを重ねながら、正社員の職を得た。
夜学にも通い、夢に向かって進み始めた。
山本は、離婚が成立し、一人暮らしを楽しんでいた。
※
そして二年後。
僕は、再び地元を訪れた。
思いを伝えるために。
「山本、俺と一緒になってくれ」
指輪を差し出すと、彼女は驚いた表情で笑った。
「嬉しいけど……もっといい人がいるって!」
そう言って、指輪を返された。
「でも、ありがとうね。本当に」
※
それが、山本に会った最後になった。
※
その後も、連絡は取り合っていた。
でもある日から、返事が来なくなった。
※
去年の秋、久しぶりに山本からメッセージが届いた。
「次はいつ帰ってくると?」
「年末に帰るよ!」
「楽しみにしとるよ!」
でも、急な予定で帰省は叶わなかった。
※
そして先月、時間を作って地元へ帰った。
山本は、もうこの世にはいなかった。
悪性リンパ腫。
治療は順調だったが、肺炎を併発して帰らぬ人となったという。
※
その事実を教えてくれたのは、西田だった。
山本は、僕には知らせないよう口止めしていたそうだ。
※
3年前、死を選ぼうとしていた僕を救ってくれたのは、山本だった。
たった数日の再会。
でもその時間が、僕の人生を変えてくれた。
あのとき、ばあちゃんに会いに行っていなければ——
彼女に、ありがとうを伝えたくて、今、これを書いています。