
あの日の授業も、つまらんものだったと思う。
二年前、定年退職を控えた俺は、山間の村にある県立高校で、相変わらず同じ授業をしていた。国語の教材は古典から現代文まで。だが俺の評価は厳しい。生徒の作品を見ては「これではつまらん。なぜならお前の心が入っていないからだ」と言い放つ。
教師になって三十年。俺は何千人もの生徒に向き合ってきた。だが、評価の鬼と呼ばれたのは二年目から変わらない。同僚たちは「もう少し優しい言葉を」と促したが、俺は聞かなかった。なぜなら、文章とは心の鏡だと考えていたからだ。つまらない心から生まれた文章は、どうあがいても、つまらないのだ。
特に樋口由美は、そのターゲットだった。
彼女は高一の時から俺の担当クラスにいて、作品を提出するたびに同じ指摘を受けた。「描写が浅い」「読み手の心に届く言葉を選べ」「つまり、つまらんのだ」。彼女は毎回、頭を下げ、修正稿を持ってくる。だが俺の目は満足しない。修正を重ねても、修正を重ねても、俺の言葉は変わらない。
「つまり、つまらんのだ」
高二の秋。樋口は創作の授業で「秋の夜」というタイトルの短編を提出した。文字数にして三千字。まあまあな長さだ。だが俺が読み進むと、やはり同じ問題に突き当たった。「秋の寒さ」が言葉だけで、感覚として伝わってこないのだ。彼女は、紅葉を「美しい」と書き、夜風を「清々しい」と書く。だが、お前は本当に感じたのか。その問いが、俺の赤ペンを握らせた。
※
「『秋の夜』とは何か。お前が握った感覚を、他人の五感に届ける作業だ。これでは、教科書の模写に過ぎん。つまり、つまらんのだ。」
採点が終わったその日の放課後。樋口は俺の研究室に現れた。
「先生。」彼女の声は、震えていた。
俺は目を上げた。彼女の目には、涙が溜まっていた。
「もう何度も何度も書き直しています。でも先生の『つまらん』は変わりません。」
「そうだ。なぜなら、お前の心がまだ、その文字に込められていないからだ。」俺は、冷たく言った。
「でしたら、どうすればいいのですか。」
「秋の夜を、もう一度、自分の五感で感じるんだ。紅葉を『美しい』と思うのではなく、その紅葉がお前に何をもたらすのか、感じるんだ。冷たい空気が肌に触れた時、何を思うのか。風に揺れる葉が音を立てた時、何を感じるのか。そういった『個人の感覚』を、文字に変えるんだ。」
「それは……難しいです。」
「そうだ。難しいのだ。だから、つまり、つまらんのだ。」
その涙を見ても、俺は容赦しなかった。いや、容赦したくなかった。なぜなら、甘い言葉は、生徒を腐らせると信じていたからだ。
彼女は静かに頭を下げて、研究室を去った。
※
それから数ヶ月が過ぎた。高三の終わり。進路希望書の提出日。樋口は再び俺の研究室に現れた。だが今回は、涙ではなく、一種の諦念に似た表情を浮かべていた。
「先生、進路を変えようと思います。」
その声は、小さかった。
「何を選んだ」と俺は聞いた。
「出版社志望から、情報技術科に進みます。文章は、もう必要ないと思いました。」
その一言で、俺は何かを失った。だが、その時は気づかなかった。気づきたくなかったのだ。もし彼女の才能を潰したのだとしたら、俺は何者なのか。教育者ではなく、単なる独裁者だ。そのかもしれないという恐怖から、俺は目を背けた。
彼女の卒業式の日、俺は別室にいた。
※
定年退職を迎えた春。職員室の机の片隅に、一枚の白い大きな封筒が置かれていた。名前は「樋口由美」。消印は東京。手書きだ。
開くと、手紙と、一冊の本が入っていた。本は、大手出版社が刊行した短編集だ。タイトルは「つまらんと言われた日々から」。奥付を見ると、樋口由美の名前が編集者として堂々と記載されていた。十五冊の短編が掲載されている。その中の一篇に、見覚えのあるタイトルがあった。「秋の夜、再び」という短編。
手紙を開いた。
「先生へ。十三年前、私は先生の『つまらん』という言葉を、呪いだと思っていました。毎回の授業で涙しました。友人には『もう作文なんか書きたくない』と愚痴をこぼしました。その言葉だけが、私の心に深く刻まれていました。
高三の冬。進路を情報技術科に変えた翌日、私は突然、後悔に襲われました。『本当は文章が好きだった。あの先生の『つまらん』という言葉の中に、何か大切なものがあったのではないか』と。その時、私は決めました。もう一度だけ、『秋の夜』を書き直そうと。今度は、先生の言葉に応えるために。」
手紙は続いていた。
「その冬の夜。私は一人で山に登りました。紅葉は終わっていたけれど、冬の夜の寒さは確かに存在していました。手が凍えるほどの寒さ。息が白くなる寒さ。その中で、私は初めて気づいたのです。『秋の夜』とは何か。それは、単なる情景ではなく、私の心が感じたすべてを文字に変えることなんだと。
大学は通信制を選びました。昼は出版社でアルバイト、夜は執筆。その両立の中で、先生の『つまらん』という言葉の意味が、少しずつ、わかるようになりました。著者の原稿を読む度に、『この著者は、心を込めているか。さもなくば、つまらん』と、先生の言葉が頭をよぎるようになったのです。」
涙が、ぽたりと、本に落ちた。
「私は今、編集者として、著者の『心の声』を聞き分ける仕事をしています。毎日、原稿を読みながら思うのです。『この著者は、心を込めているか。さもなくば、つまらん。』先生のあの言葉が、そのまま私の仕事の軸になっていました。この短編集の著者たちも、もしかしたら、誰かの『つまらん』という厳しい言葉の中に、自分の道を見つけたのかもしれません。」
※
退職式の翌日。俺は彼女の短編集を、再び開いた。「秋の夜、再び」という短編を。
その短編は、教室での日々を、そのまま綴っていた。秋の夜に立つ少女。紅葉が散る風。肌で感じる寒さ。「冷たい風が頬に触れた時、私は思った。これだ。これが『つまり、つまらん』という先生の言葉だ。この冷たさを感じずに文字にしようとしていた私は、本当は、何も感じていなかったんだ。」
そして、その寒さの中で彼女が思ったことが、今度は、活字として息づいていた。描写は繊細で、一つ一つの感覚が、読み手の心に届いてくる。秋の夜の中で、少女が何度も涙し、何度も立ち上がり、最後に自分の心を見つめ直す過程が、くっきりと浮かび上がっていた。俺が求めていた『つまらんではない文章』が、そこにあった。
最後の一行が、違っていた。
「『つまらん』と言い続けた先生の眼差しの向こう側に、初めて見えた。私の可能性が、立ち上がってくるのが。そして、その可能性が、いつか誰かの人生を動かすんだろうなと、その時、私は信じることができた。先生ありがとう。」
俺の手は、その一行を何度も何度も撫でた。
研究室の窓から外を見た。山間の村は、新緑の季節を迎えていた。三十年教えてきたこの町で、多くの生徒が巣立っていった。だが、彼女のように、俺の『つまらん』という言葉の意味を理解してくれた生徒が、どれほどいたのか。
人生の最後の宿題は、あの日の教室に戻ることではなく、彼女の人生の中で、自分の言葉がどう響いていたのかを、静かに聞き直すことなのだろう。そして、その響きが、さらに先へと、つながっていくことを、信じることなのだろう。
機械的に評価を下す者ではなく、心を育てる者だったのかを、初めて、問い直す時間が、ここにあった。