
父とまともに話したのは、十三年ぶりだった。
それも、「これ、持っていけ」という一言だけだった。
かんなを受け取ったとき、正直なところ、どうしていいかわからなかった。
※
六月の終わり、僕は郵便局の集配車で坂の多い路地をのぼっていた。
灘の古い町は、酒蔵の白壁と住宅が入り混じって、妙に静かな昼過ぎだった。
その夏から、僕は担当エリアが変わり、父の暮らす地区を回るようになっていた。
最初はただの偶然だと思っていた。
でも、三日も続けて父の家の前の路地を通るうちに、これは避けることができないのかもしれないと感じ始めていた。
父の家はいつも静かだった。
玄関先には古い下駄と、使い込まれた作業靴が並んでいた。
植木鉢が二つ、几帳面な間隔で置かれていた。
母が亡くなってから、父が手入れするようになったものだと、姉から聞いていた。
配達を終えて車に戻ろうとしたとき、前田さんに声をかけられた。
七十過ぎのその人は、父の家から二軒先に住む人で、僕が子供の頃から顔を知っていた。
「あんた、清次さんの息子さんやろ」
振り返ると、前田さんがエプロン姿で立っていた。
「先月ね、お父さん、腰の手術したんよ。もう大工は無理やって」
僕は思わず「そうですか」とだけ答えた。
それ以上の言葉が出てこなかった。
「でもね」と前田さんが続けた。「毎朝縁側でかんなだけは磨いてはるわよ。もう使えへんのに、毎日毎日」
前田さんは少しだけ目を細めて、遠くを見るような顔をした。
「清次さんね、あなたのこと、よう話してはったんよ。手紙も書いたって言うてたけど、送ったかどうかは知らんけど」
車に戻ってから、しばらく動けなかった。
エンジンをかけるまでの間、ハンドルの上で手が止まったままだった。
手紙。
そんなものが来た記憶はなかった。
でも、受け取っていたとしても、僕は読まずに捨てていたかもしれない。
そう思ったとき、胸の奥がぎりっと痛んだ。
※
父と僕の間がおかしくなったのは、僕が高校を卒業するときのことだった。
父は一言だけ言った。
「大工を継いでくれ」
僕は「嫌だ」と言った。
それだけだった。それきり、二人の間の何かが壊れた。
父が怒鳴ったわけじゃない。泣いたわけでもなかった。
ただ、その日から父は僕に何かを頼まなくなった。
期待を向けることをやめたのだ、と子供心にもわかった。
それが却って辛かったが、僕には父の職人仕事の世界が眩しすぎた。
父は毎朝五時に起き、日が暮れるまで働いた。
腕のいい大工で、近所では名前が知られていた。
手で触れるものはすべて丁寧に扱った。
道具も、木も、仕事も。
そして、言葉というものを、ほとんど使わなかった。
僕が何かを相談しようとすると、「そうか」か「わかった」か、それだけだった。
褒めてもらった記憶がない。叱られた記憶もあまりない。
ただ、いつも黙って働いていた。
そういう父が、僕は怖かった。
近づき方がわからなかった。
うまく言葉にできないが、そこに踏み込む自信がなかった。
「古臭い」という言葉で自分の怖気を包んでいただけだと、ずっと後になって気がついた。
※
その日の夕方、僕は父の家の前に立っていた。
チャイムを押そうとして、三回も手を引っ込めた。
四回目に、ようやく押した。
しばらく待つと、父が玄関を開けた。
思ったより小さかった。
白髪が増えていて、腰をかばうように少し前傾みになっていた。
あの頃の、背筋をすっと伸ばして現場に立っていた父の姿と、重ならなかった。
「何しに来た」
それが父の第一声だった。
「配達の帰りです」と僕は答えた。
嘘ではなかったが、本当でもなかった。
父は黙って中へ通してくれた。
居間には、かんなが一丁、白い布の上に置いてあった。
木の台座に薄い刃が嵌まった、古いかんなだった。
台座の木は飴色に焼けていて、何十年も油と汗を吸ってきたのが伝わってきた。
その周りに、細かい木屑が一粒も落ちていなかった。
磨き上げられた道具を、丁寧に扱っている人の居間だった。
「見ていい?」と聞いた。
父は何も言わなかったが、止めなかった。
手に取ると、思ったより重かった。
表面はなめらかで、僕の手のひらにしっくりとなじんだ。
父はこれを毎日使ってきたのだな、と思った。
四十年近く、この道具と生きてきたのだと。
「腰、大丈夫ですか」
「まあ」
「仕事は」
「もうせん」
二人の間に、また沈黙が降りた。
窓の外で、風が酒蔵の白壁を渡っていく音がした。
どこかで風鈴が鳴り、遠くで子供の声がして、また静かになった。
「お前、飯は食ってるか」
突然、父が言った。
「食ってます」
「そうか」
それだけだった。
でも、そのたった一言に、僕は十三年分の何かを感じた。
ぶっきらぼうで、照れ隠しで、でも確かに心配していた。
父はずっとそうだった。
子供のころからずっと、言葉の代わりに行動で示してきた人だった。
雨の日に迎えに来てくれた帰り道も。運動会の前夜に弁当箱を磨いていた背中も。
全部、言葉ではなかった。
※
帰り際、父が「ちょっと待て」と言って奥へ消えた。
しばらくして、あのかんなを持って戻ってきた。
「これ、持っていけ」
「え、でも」
「どうせ俺はもう使えん。ゴミにするくらいなら、お前が持っとけ」
僕は受け取った。
断れなかった。断ってはいけない気がした。
玄関を出るとき、父は何も言わなかった。
ただ、扉が閉まるまで立っていた。
後ろ姿を見せずに立っていた。
それが父なりの、見送り方だった。
※
家に帰り、テーブルの上にかんなを置いた。
電気を点けて、もう一度じっくり眺めた。
台座の木目、刃の薄さ、台の裏面のなめらかさ。
なんの変哲もない道具に見えた。
でも、何度も手に取るほど、これを握ってきた人の時間が滲み出てくる気がした。
裏返したとき、気づいた。
持ち手の付け根のあたり、目立たない場所に、小さな文字が彫られていた。
「龍一 三歳の春」
息が止まった。
見間違いかと思って、もう一度見た。
確かに、僕の名前だった。
三歳の春、という言葉が、頭の中でゆっくりと広がっていった。
思い出した。
あの日のことを。
父が工具箱から小さなかんなを取り出して、「持ってみい」と差し出した日のことを。
僕は泣いた。重くて怖くて、嫌だと言って泣いた。
父は何も言わなかった。ただ、静かにかんなをしまった。
あの日から父はずっと、この文字を隠し持っていたのだ。
誰にも見せず、ただ毎日使いながら、この文字と一緒に仕事をしていた。
現場に持って行くたびに。
木を削るたびに。
息子に渡すために、ずっと持っていてくれた。
涙が出た。
こんなにあっさり出るとは思わなかった。
テーブルに置いたかんなを前に、僕はしばらく動けなかった。
父が四十年かけて削ってきたものを、僕はこれまで一度も見ようとしなかった。
「古臭い」と言った。「嫌だ」と言った。
父は何も言わなかった。ただ、この小さな文字だけを残していた。
※
その夜、父に電話した。
三回のコールで出た。
「おやじ、ありがとう」
電話の向こうで、父は一瞬黙った。
それから、低い声で言った。
「そうか」
それだけだった。
でもその二文字が、ずっと僕が欲しかった言葉よりも、ずっと温かかった。
「また来ます」と僕は言った。
「ああ」と父は言った。
それだけの会話だった。
でも、電話を切ったあと、部屋がほんの少しだけ明るくなった気がした。
※
かんなは今も、僕の机の上に置いてある。
使い方は知らない。削れる木もない。
でも毎朝、あの文字を確かめてから、仕事に出るようになった。
龍一、三歳の春。
父が三歳の僕に持たせようとした道具を、三十二歳の僕がようやく受け取った。
おやじが四十年かけて削ってきたものを、僕はまだ全部わかってはいない。
でも、受け取った。
それだけは確かだ。