いつかの日曜日

いつかの日曜日

物干し竿の右の端に、ひとつだけ黄色い洗濯ばさみが挟まっている。

ほかの十七個は、全部白だ。

今朝も私は何も考えないまま、そこへ娘の靴下を留めていた。

三十七年生きてきて、そのうちの三十三年、ずっとそうしてきたことになる。

その洗濯ばさみだけが、三十年経っても、少しも褪せていなかった。

理由を知ったのは、つい先月のことだ。

※

私が四歳のとき、父と母は別れた。

父方の祖父母と同居していたから、私は父に引き取られた。

筑豊の、炭鉱が閉まってから十年以上経った町だった。

坑口はとうに埋められ、ボタ山だけが赤茶けたまま、家々の屋根の向こうに残っていた。

雨の日は路地の水たまりが黒く光って、そこを踏むと靴の縁がうっすら灰色になった。

六軒がひと棟につながった炭住で、壁が薄く、隣のテレビの音が全部聞こえた。

父は、そのボタ山を崩して宅地に均す土木の会社で働いていた。

帰ってくると作業ズボンの膝から赤茶けた粉が落ちて、玄関のたたきがいつも少しざらついていた。

祖父は元坑夫で、肺を悪くしていた。

夜中に、遠くで戸を叩くような咳をした。

その咳の数で、私は今が何時ごろかを何となく憶えるようになった。

祖母のハルヱは、商店街の惣菜屋でコロッケを揚げていた。

帰ってくると、髪にも三角巾にも、油と出汁の匂いが染みついていた。

抱き上げられると、その匂いが顔じゅうに来た。

私はその匂いのことを、長いあいだ「ばあちゃんの匂い」だと思っていた。

祖父は縁側で、湯呑みの茶を冷ましながら、坑内の話をよくした。

「下はな、まっ暗やのうて、灯りの届く先だけが、ぼうっと赤かとよ」

「ボタ山と同じ色ね」

「そうたい。おんなじもんば、外に出しただけやけんな」

祖父は言葉が少なく、そのぶん一つひとつを、噛んでから出す人だった。

その祖父も、私が中学に上がる前の冬に逝った。

母のことは、匂いも声も、ほとんど憶えていない。

憶えているのは、出て行く日のことだけだ。

※

その日、母は私を自分の実家へ連れて行った。

六畳に、簞笥と段ボールと、布団袋が積み上げてあった。

前の年に叔母が嫁いだときと、同じ景色だった。

「わあ、嫁入り道具みたいやね」

私は本気でそう言って、笑った。

母は、そうやねえ、と言った。

それから、私の頭のてっぺんを、二回だけ撫でた。

撫でるというより、押さえるような手つきだった。

帰りのバスで、母はずっと窓の外を見ていた。

ボタ山の裾を回るとき、赤い土がガラスに映って、母の頬まで赤く見えた。

「かよちゃんは、ばあちゃんのコロッケと、お母さんの卵焼き、どっちが好きね」

「コロッケ」

母はふふ、と笑って、そうやろうね、と言った。

今思えば、あれは負けたがっていた人の笑い方だった。

※

家に戻って、母は玄関のたたきに立ったままだった。

靴は履いたままで、上がろうとしなかった。

「かよちゃん、お母さん、またおばあちゃんちに行かないかんとよ」

「いつ帰ってくると?」

母は困った顔をして、少し黙った。

それから、天井のあたりを見て言った。

「……日曜日かな」

私は疑いもしなかった。

日曜日がいつなのかも知らないまま、笑って手を振った。

母はサンダルの音をさせて、路地を出て行った。

角を曲がるとき、一度だけ振り返ったような気もするが、そこは記憶が薄い。

その日の朝、母は最後にひと回し、洗濯機を回していた。

私の靴下を、物干し竿の右の端に留めていた。

黄色い洗濯ばさみだった。

うちの物干しで、黄色はそれ一つだけだった。

祖母はその靴下を取り込んだあとも、洗濯ばさみだけは外さなかった。

※

それから私は、毎日のように祖母に聞いた。

「ばあちゃん、日曜日は?」

祖母は日めくりの前まで私を連れて行き、太い指で紙の隅を叩いた。

指の腹が、揚げ油でいつも少し光っていた。

「あとみっつ寝たら日曜たい」

みっつ寝ると、私は朝から玄関に座った。

サンダルを揃えて、膝を抱えて、路地の入口だけを見ていた。

路地には、同じ炭住の子どもが四、五人いた。

三軒先のミツオくんは、たぶん事情を全部わかった上で、私の横に座った。

「かよちゃんのおかん、日曜に帰ってくるっちゃろ」

「うん」

「ほんなら、待っとってやる」

ミツオくんは半日、私の横で、拾ってきたネジをずっと回していた。

締めきると緩め、緩めきるとまた締める。

それを飽きもせず続ける音が、いまでも耳に残っている。

日が傾くと、祖母が二人分のコロッケを持ってきた。

塩を振りすぎた、少し焦げたコロッケだった。

「今日は、道が混んどるとやろ」

祖母はそう言って、私の隣に腰を下ろした。

次の日曜も、その次の日曜も、祖母はまったく同じことを言った。

「今日は、道が混んどるとやろ」

言い方も、間の取り方も、毎回ぴったり同じだった。

子どもは、そういうところだけを妙に正確に憶えている。

※

それを何度繰り返した頃だったか、夕食のときに私は聞いてしまった。

父も、祖父も、祖母も揃っていた。

味噌汁の湯気が、蛍光灯のほうへまっすぐ上がっていた。

「あのね、ママが帰ってくる日曜日って、いつだか知っとう?」

箸の音が止まった。

父は何も言わずに立ち上がって、台所のラジオの音を大きくした。

競馬の実況だった。

父が競馬を聞いていたところなど、後にも先にもあの一度きりだ。

祖父が、遠くで戸を叩くような咳をした。

誰も、私のほうを見なかった。

私は、場を明るくしようとして言った。

「うち、聞くの忘れとったっちゃん」

笑ってみせたのに、誰も笑わなかった。

祖母だけが、私の茶碗に煮物を足した。

里芋がひとつ、汁ごと転がって、白い飯を茶色く染めた。

「……もうちょっと、先やねえ」

その夜から、私は日曜日を数えるのをやめた。

翌週の日曜、ミツオくんが玄関に来たが、私はもう座っていなかった。

「今日は待たんと?」

「うん。今日は道が混んどるけん」

ミツオくんは何も言わずに、ネジを一本、うちの下駄箱の上に置いて帰った。

そのネジを、私は筆箱に入れて、高校を出るまで持っていた。

何の役にも立たないネジだった。

それでも、待っていた時間がなかったことにはならない、という証拠のように思っていた。

※

それきり、私は家の中で母の話をしなかった。

三十年、一度もしなかった。

中学の家庭科で家族の絵を描かされたときは、四人しか描かなかった。

先生に「お母さんは?」と聞かれて、私は「うちは四人です」と答えた。

高校の進路面談では、母親の欄を空けたまま出した。

担任は何も言わずに、そこへ横線を一本引いた。

あの横線を、私はずいぶん長いあいだ、自分で引いたもののように思っていた。

高校二年の秋に、一度だけ、坂の下のバス停に祖母が座っているのを見た。

日曜の夕方で、惣菜屋は休みのはずだった。

買い物袋も持たず、背中を丸めて、ただベンチにいた。

バスが来て、扉が開いて、誰も降りず、扉が閉まった。

祖母は立たなかった。

私は声をかけずに、遠回りして家に帰った。

聞いてはいけない気がしたし、聞いたら何かが終わる気もした。

あの日の後ろ姿を、私は三十年、しまい込んだままにしていた。

高校三年の春に、私は一度だけ父と正面からぶつかった。

進路の話から、なぜか声が大きくなった。

「お父さんは、なんも言わんやん」

「言うことがなかろうもん」

「うちのこと、どうでもよかったっちゃろ」

父は湯呑みを持ったまま、しばらく黙っていた。

それから、ぼそりと言った。

「よかったことしか、覚えとらんとよ」

意味がわからず、私は玄関を蹴って外に出た。

あの言葉の意味がわかるまでに、二十年近くかかった。

父は母のことを、悪く言える人ではなかったのだ。

※

結婚が決まったときも、母を呼ぼうとは思わなかった。

招待状の家族欄を書きながら、指が勝手に四人分で止まった。

式の前の晩、父が廊下で立ち止まって、何か言いかけた。

「……佳代」

「なん?」

「いや。明日は、雨降らんとよかね」

父は、それだけ言って自分の部屋に入った。

父にできる精一杯だったのだと、今なら思う。

式当日、祖母は式場の玄関で三十分ほど、外を見ていたそうだ。

それを教えてくれたのは、あとになってからの、向かいのトミ子さんだった。

育てられんのやったら産まんでよかったのに、と考えた夜も、正直あった。

その考えごと蓋をして、三十年、私は暮らしてきた。

蓋をした場所は、意外と静かで、私はそこそこ幸せだった。

だから余計に、開ける理由がなかった。

※

息子が生まれた夜のことを、よく思い出す。

産後の病室は暗く、廊下の非常灯だけが、緑色にちらついていた。

腕の中の子は驚くほど熱くて、そのくせ軽かった。

私はその重さをはかりながら、ひとつだけ、考えてはいけないことを考えた。

この子を置いて出て行く朝が、自分に来るだろうか。

来ない、と即答できなかった。

母を許せない気持ちと、母を責めきれない気持ちが、そこで初めて同じ場所に並んだ。

看護師さんが検温に来て、私は慌てて笑った顔を作った。

「泣いとらんですよ」

「泣いてよかとですよ、みんな泣かすけん」

その晩、私は誰にも言えない涙を、シーツの端で拭いた。

※

祖母が逝ったのは、去年の秋だった。

八十九だった。

最後の一週間は、もう言葉にならない声で、何かを数えるように口を動かしていた。

ひとつ、ふたつ、と聞こえた気がしたが、看護師さんは呼吸の音だと言った。

亡くなる三日前、祖母が急にはっきりした声を出した日がある。

手を握ると、握り返す力が思いのほか強かった。

「かよちゃん」

「うん」

「日曜はな……」

そこで言葉が途切れて、祖母はまた眠ってしまった。

私はその続きを、聞かないままにした。

聞かなくてよかったのだと、今は思う。

続きは、押し入れの奥にちゃんと置いてあった。

四十九日が済んで、父と二人で押し入れを片づけた。

上の段の奥から、古い菓子箱が出てきた。

缶ではなく、紙の箱だった。

角がやわらかく擦り切れて、何度も開け閉めされたのがわかった。

開けると、袋に入ったままの洗濯ばさみが詰まっていた。

押し入れの菓子箱には、同じ黄色の洗濯ばさみが、袋のまま十いくつも入っていた。

どれも、うちの物干しに三十年挟まっていたのと、同じ黄色だった。

私は箱を抱えたまま、しばらく動けなかった。

プラスチックは、日に当たれば白く濁って、力を入れれば欠ける。

三十年も外にあって、褪せないはずがなかった。

褪せるたびに、祖母はそれを、こっそり新しいものに替えていたのだ。

父は箱の中を覗いて、ああ、と短く言った。

「母さん、駅前の荒物屋に、同じとば取り寄せさせよったばい」

「知っとったと?」

「言うたら、お前が気にすると思うたんやろ」

父は箱の蓋を閉めて、それを私の膝の上に置いた。

「持っとき」

※

箱の底には、祖母の手帳が入っていた。

惣菜屋の名前が入った、細長い手帳だった。

何冊もあった。

表紙の年号だけが違って、あとは全部同じ体裁だった。

どの年の手帳も、平日の欄は真っ白だった。

日曜の欄にだけ、鉛筆で小さな丸が打ってある。

それが、三十年分あった。

丸の濃さは年によって違い、後になるほど薄く、線が震えていた。

通夜に来てくれた向かいのトミ子さんに、私はその手帳を見せた。

トミ子さんは老眼鏡をずらして、丸を指でなぞった。

「あんた、知らんかったと」

「なんばですか」

「日曜のたんび、ハルヱさんはバス停のベンチに座っとらしたよ」

バス停は、路地を出て坂を下りたところにある。

惣菜屋の休みは日曜だった。

祖母はその休みを、ずっとベンチで使っていた。

「誰か待っとるとですか、て一度だけ聞いたことがあるとよ」

「なんて」

「来んほうがよか人ば待っとうと、て笑いよらしたばい」

高校二年の秋の後ろ姿が、そこでようやく、輪郭を持った。

※

最後の一冊の、いちばん後ろのページに、住所が書いてあった。

鉛筆で書いては消し、また書いた跡が、紙をうっすら毛羽立たせていた。

町名が二度変わっているのが、消し跡でわかった。

母の名前だった。

その下に、几帳面な字で日付が並んでいた。

どれも、二月と八月。

私の誕生日の月と、盆の月だった。

父が、湯呑みを置いてから言った。

「母さんな、お前の写真ば、年に二回送りよった」

「……なんで、うちに黙って」

「返ってきたことは、いっぺんもなかったげな」

届いていた、ということだ。

三十年、届き続けていた、ということだ。

祖母は一度も、母を家に上げなかった。

呼び戻しもしなかった。

ただ、路地の外のベンチで、休みのたびに座っていた。

「なんで、ばあちゃんは行かんかったんやろ」

「上げたら、お前がまた玄関に座るけんやろ」

父はそう言って、湯呑みの底を、指でこすった。

それから、思い出したように付け足した。

「あの人な、うちの母さんにだけは、年に一遍、電話しよったらしか」

「なんば話しよったと」

「知らん。ばあちゃんは、いっぺんも中身ば言わんかった」

祖母は、聞いたことを全部、自分の中に置いたまま逝った。

守るというのは、たぶんそういうことなのだと思う。

※

先週の日曜、五歳の息子が居間に来て、私の膝に顎を乗せた。

洗濯物を畳んでいる途中だった。

「ねえ、ぼくと妹を産んだのは、ママやろ?」

「そうよ」

「パパを産んだのは、ばあばやろ?」

「そうやね」

「ママを産んだ人は?」

手が止まった。

「……おばあちゃんよ。でも、遠かところにおるけん、会えんのよ」

「ぼく、会いたい」

「どうして」

そこまでは、平気な顔で答えられていた。

息子は、当たり前のことを言うみたいに言った。

「ママを産んでくれてありがとうって、言わなね」

畳みかけていたタオルが、手からずり落ちた。

三十年、蓋をしていた言葉だった。

私はうん、と言うつもりだった。

うん、会いたいねえ、と言うつもりだった。

声にならなかった。

息子はびっくりして、私の顔を両手で挟んだ。

「ママ、目から水が出とうよ」

娘が真似をして、私のもう片方の頬をぺたぺた叩いた。

それでますます、止まらなくなった。

※

あの日、母が「日曜日」と言ったのは、嘘をつくためではなかったのだと思う。

四歳の私に、それより先の日を言う言葉を、母は持っていなかったのだと思う。

そして祖母は、その嘘を三十年、路地の外で引き受けていた。

来んほうがよか人を、休みのたびに待っていた。

私に日曜日を数えさせないために、自分が代わりに数えていた。

手帳の丸は、そのぶんの数だった。

昨日、私は手紙を書いた。

便箋を三枚無駄にして、四枚目にようやく、はじめましてに近い挨拶を書いた。

子どもの写真を二枚入れた。

一枚は息子、一枚は娘、どちらも洗濯物の前で撮った写真だ。

背景には、黄色い洗濯ばさみが小さく写り込んでいる。

気づいてもらえるかどうかは、わからない。

それでも、その一点だけは切らずに残した。

最後の一行は、息子の言葉をそのまま借りた。

産んでくれて、ありがとうございます。

封をして、日付を見た。

投函したのは水曜だった。

郵便局の窓口で、速達にするか少し迷って、やめた。

普通の切手を、指の腹でしっかり押さえて貼った。

着くのはたぶん、金曜か土曜になる。

日曜に読んでもらえばいい。

三十年ぶりに、私は自分で日曜日を決めた。

物干しの右の端には、今日も黄色い洗濯ばさみが挟まっている。

今度は、私が替える番だ。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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