
ふと気がつけば、もう随分と昔の話だ。
学校帰り、東武のデパ地下を抜けようとした時だった。
パン屋の前で、メロンパンが焼き上がったばかりの香りが、ふわっと広がった。
店員さんに勧められて試食すると、思った以上にうまかった。
だから俺は、オヤジへの土産と自分の分で、二つ買った。
甘いものが好きで、どこか子どもみたいな舌をしてるオヤジなら、きっと喜ぶと思ったんだ。
当時のオヤジは、ガンの手術を終えたばかりだった。
退院はしたけど、家のベッドから起き上がるのもしんどそうで、手足も思うように動かなかった。
俺は買ってきたメロンパンを、少しずつ千切って、オヤジの口元に運んだ。
オヤジはゆっくり噛んで、目を細めた。
「うん、美味いな」と、掠れた声で言った。
その一言が嬉しくて、俺は子どもみたいに笑った。
「だろ」と俺は言った。
「もっと喰う?」と、調子に乗って聞いた。
オヤジは少しだけ黙った。
それから、首を小さく振った。
「……いや、いい」と言った。
食べたのは、二欠片だけだった。
俺はちょっと拍子抜けして、残りをほとんど全部、自分で平らげた。
あの時の俺は、オヤジの「いい」が、ただの遠慮だと思っていた。
それから数ヶ月後、転移したガンにやられて、オヤジは五十一歳で天国へ長期出張した。
通夜と葬式が怒涛みたいに過ぎて、ようやく家の空気が静かになった頃だった。
俺は初めて、お袋に、あのメロンパンの話をした。
そこで、俺は二つのことを知った。
オヤジは、実はそこまでメロンパンが好きじゃなかったらしい。
そして、あの頃のオヤジは、もう口から食べ物を摂るのが限界に近かったらしい。
たった一欠片でも、喉を通すだけで苦しかったはずだと、お袋は言った。
俺の頭が、真っ白になった。
オヤジは、無理して食べてくれたんだ。
断ったら俺が傷つくと思って、あの笑顔を作ったんだ。
メロンパンを見せた瞬間の、「おぉ」という声が蘇った。
「喰う?」と聞いた時、躊躇いもなく「喰う」と答えた声も蘇った。
なのに、二欠片で終わらせた理由だけは、俺だけが知らなかった。
思い出した途端、涙が止まらなかった。
先日、職場のおばちゃんが「これおいしいよ」とメロンパンをひとつくれた。
俺は礼を言って受け取ったのに、なぜか喉の奥が熱くなった。
袋を開ける前から、もう目が潤んでいた。
おばちゃんは、俺が泣きそうになった理由なんて、もちろん知らない。
それでいいと思った。
ただ俺は、その甘い匂いの向こうに、あの日のオヤジの笑顔を、今もはっきり見てしまうんだ。