父からのタスキ

小さい頃、よく父に連れられて街中を走ったものだった。
生まれ育った町は田舎で、交通量も少なく、自然が多く残る静かな場所だった。晴れた日には特に、空気が澄んでいて、とても気持ちがよかった。
※
父は若い頃、箱根駅伝を走った経験があったらしい。
そのせいか走ることが大好きで、きっと息子にもその楽しさを伝えたかったのだろう。
普段は無口で、どこか近寄りがたい雰囲気の父だったが、走っている時だけはずっと私に話しかけてくれた。
無口な父に少し怖さを感じていた私は、その時間だけは父のことが好きだった。
母が作ってくれた手作りのタスキを使って、二人で駅伝ごっこをした。あの時間が、父にとっての青春の延長だったのかもしれない。
※
中学に入った私は、自然と陸上部に入部した。
試合では好成績を収め、部内でもトップレベルの選手だった。
父は毎回応援に来てくれ、私が好記録を出すと、決まって酒を飲みながらこう言った。
「お前と一緒に、箱根走りたかったなぁ」
※
高校でも陸上を続けたが、次第に記録が伸び悩むようになり、さらに勉強の遅れも重なって、私は常にイライラしていた。
勉強には口を出さないのに、陸上ばかり気にする父の存在が、鬱陶しく感じられるようになっていた。
期待されているのは分かっていた。だからこそ、顔を見るのも辛くなっていたのかもしれない。
反抗期——今思えば、ただの子どもだった。
※
ある日、記録の出なかった試合の後、自室で天井を見つめながら寝転んでいた。
数日前の試験勉強で体調を崩していたせいだと分かってはいたが、それでも自分の不甲斐なさに悩んでいた。
そこへ父が部屋に入ってきた。
また何か言われるのかと思い、顔を見たくなかった。
父は無言のまま私の隣に腰を下ろし、しばらく沈黙したあと、ぽつりと語り出した。
「なあ、お前、何のために走ってるんだ? そんなに眉間に皺寄せてさ。父さんはな、お前が…」
その言葉に、抑えていた気持ちが爆発した。
「うるせえ! 出て行けよ! 父さんには俺の気持ちなんかわかんねぇだろ!
もう嫌なんだよ! 父さんの顔を気にしながら走るのは!
勉強だってあるんだよ! 父さんの期待なんて、俺には重いんだよ!!」
父は驚いた顔で私を見ていたが、次第にその表情は悲しげに変わり、そして思い切り私を殴った。
その後、お袋が止めに入るまで、私と父は大喧嘩をした。
それ以来、父とは話すこともなくなり、私は陸上部を辞め、走ることをやめた。
しかし、成績が上がることもなく、イライラも消えなかった。
※
部活を辞めて二ヶ月ほど経った頃、父が倒れ、病院に運ばれた。
検査の結果は末期の癌。余命は数ヶ月だった。
私はショックを受けながらも、まだ父へのわだかまりを抱えていた。
お袋に何度誘われても、病院に見舞いに行けなかった。
家と職場、病院を行き来するお袋を見て、むしろ父に対して怒りを覚えるほどだった。
※
そんなある朝、お袋がぽつりと話し始めた。
「お父さんね、高校でもお前が陸上を続けてくれたって、本当に喜んでたのよ」
記録が伸びずに苦しむ私に、父も同じように悩んでいたという。
そして、私が走ることを嫌いになってしまうのではないかと、心から心配していたのだと。
「あの人、頑固だからねぇ」
お袋はそう言って、朝食の片付けを始めた。
その話が、私の心にずっと引っかかった。
※
学校に行っても、勉強が手に付かなかった。
休み時間、友達が「先生のせいで数学が嫌いになった」と話していた時、私ははっと気づいた。
——そうだ。俺は、あの時、言ってしまったんだ。
「父さんのせいで、走るのが嫌いになった」と。
誰よりも走るのが好きだった父に。
誰よりも、私と一緒に走ることを喜んでくれていた父に。
私は授業を抜け出し、病院へと走った。
雪が積もる道、何度も転びそうになりながら、久しぶりに走ったその感覚。
心臓が張り裂けそうなほど鼓動を打ち続けた。
でも私は止まらなかった。走りながら、あの日の父の悲しい顔が何度も頭に浮かんでいた。
※
病室のドアを開けると、父はすっかり痩せ細り、チューブだらけの身体でベッドに横たわっていた。
息も絶え絶えの父が、私の姿に気づいて言った。
「走って来たのか」
私は黙って頷いた。
父は、ベッドの下から何かを取り出し、私の手に渡した。
それは、小さな頃に二人で遊んだ時のタスキだった。
「なあ……走るのは……楽しいだろ」
父はそう言って、微笑んだ。
※
その数日後、父は静かに息を引き取った。
葬儀や様々な手続きが終わり、久しぶりに自室に戻ると、机の上にそのタスキが置かれていた。
父の夢は、私と箱根を走ることだった。そして私にタスキを渡すことだった。
たとえ実際に箱根を走ることはできなくても、父はその夢を叶えたのだ。
私は、確かにそのタスキを受け取ったのだ。
気がつくと、涙が止まらなくなっていた。
※
冬が明けた頃、私は再び走り始めた。
父とよく走った、あの懐かしい道を。
変わらぬ木漏れ日と、草の匂い。変わらない坂道。
ただ違うのは、隣に父がいないことだけだった。
※
今、私は結婚し、子どもがいる。
いつかこの子に、このタスキを渡したい。
父が私にくれたように、今度は私が「走る喜び」を伝える番だ。