電話を切った夜

バックミラー

十年前の秋、彼女は電話を切った。

「ごめんね」という一言だけを残して、ブツッと通話が終わった。

その後、何度かけ直しても繋がらなかった。翌日もその次の日も。メールの返信もなかった。アパートを訪ねると、すでに引き払われていた。

彼女の名前は、さつきといった。

出会ったのは、二十八のときだ。同じ会社の別の部署に勤めていて、社食で隣になったのがきっかけだった。食べるのが早い私に「そんなに急いでどこかに行くんですか」と言って笑った。その笑い方が妙に気に入って、何度か声をかけるうちに、自然と一緒にいる時間が増えた。

彼女は何でも話す人だった。仕事のこと、家族のこと、昨日見た夢のこと。私が聞き上手というわけではなかったが、彼女は構わず話し続けた。帰り道、駅の改札の前でまだ話している彼女を眺めながら、ずっとこういう時間が続けばいいと思っていた。

付き合い始めて二年、結婚を考えていた。指輪を買うため貯金も始めていた。特に約束をしたわけでもなかったが、互いにそういう空気があった。

だから、あの電話は意味がわからなかった。

喧嘩もしていなかった。前日も一緒に夕食を食べた。彼女が作った豚汁が少し薄くて、二人で笑った。普通の夜だった。なのに翌日の夜、突然の「ごめんね」だった。

「何が?」と聞く間もなく、電話は切れた。

理由を知る方法は、もうなかった。

それから三年後、私は会社を辞めた。

理由はいくつかあったが、あの部署の社食を通るたびに胸が重くなることも、その一つだったかもしれない。窓際の席で隣に座っていた空間が、何年たっても空席に見えた。

タクシーの運転手になった。夜が多いシフトを選んだのは、空いた道が走りやすいからだと自分に言い聞かせていたが、実際は夜の方が考えずに済むからだと、今ならわかる。街の明かりが流れていく。乗客が乗って、降りる。また走る。それだけの夜を、何百回も繰り返した。

さつきのことを考えない日も、少しずつ増えていった。指輪の貯金だったお金で、中古のカメラを買った。休みの日に港の写真を撮るのが習慣になった。海は何も言わないし、何も変わらないので、見ていると楽だった。

彼女のことは、終わったことだと思っていた。

ある夜、港の写真を整理していて、古いものが出てきた。携帯のカメラで撮った、彼女と行った水族館の写真だ。ガラスの向こうを泳ぐ魚を、嬉しそうに指差している後ろ姿。顔は写っていない。でも、その手の形で、さつきだとわかった。

削除しようとして、できなかった。結局そのままにして、携帯を引き出しの奥に戻した。

あの夜のことは、今でもはっきり覚えている。

深夜の一時過ぎ、港の近くで手を挙げた女性を乗せた。三十代半ばくらいで、少し疲れた様子だった。行き先を告げて、しばらく無言で走っていた。

ミラー越しにその顔を見た瞬間、記憶の奥に引っかかるものがあった。どこかで見た気がする、という漠然とした感覚だった。

「あの、以前どこかでお会いしましたか」

そんなことを運転手が言うのは不躾だとわかっていた。でも口が動いていた。

女性は少し驚いた顔をして、「さつきの友達です」と言った。

胸の中で何かが止まった。

「浜田さんですよね」と彼女は続けた。「さつきから写真を見せてもらっていたので」

社内の研修で撮られた集合写真だったそうだ。何枚も撮った中の一枚を、さつきは友人に見せていた。

「さつきは……今、どこにいますか」

少しの間があった。信号が赤に変わって、車が止まった。

「三年前に、亡くなりました」

青に変わっても、しばらく気づかなかった。後ろからクラクションが鳴って、ようやくアクセルを踏んだ。

彼女は、あの電話の少し前から体の具合が悪かったのだという。検査を受けたら、治療が必要な病気だとわかった。長くかかるかもしれない、元の体に戻れるかもわからない、そういう状況だった。

「さつきはね、浜田さんに病気のことを伝えようとしたんです。でも、伝えたら、あなたが離れないとわかってたから」

傍にいてくれるとわかっていたから、伝えられなかった。待たせることも、心配させることも、治療中の自分の姿を見せることも、できなかった。

「心配をかけたくなかったし、足を引っ張りたくなかったって。だから自分から終わりにしたんです。あなたを好きだったからこそ」

私は、何も言えなかった。ハンドルを握る手に、力が入っていた。

「治療は二年ほどかかって、それからしばらくは元気だったんですよ。でも再発して、それで……。最後まで、浜田さんのことを気にしていました。幸せになってほしいって、いつも言っていました」

少し間があって、彼女は続けた。

「浜田さんが今も独身でタクシーの運転手をしているって、どこかで聞いたって言ってました。喜んでいたわけじゃないですけど、でも……なんかほっとしたって」

なぜほっとしたのか、私には聞けなかった。でも、わかるような気もした。

行き先の手前で車を止めた。メーターを切った。

「料金はいいです。今日は」

女性が何か言おうとしたが、私はフロントガラスの先を見ていた。港の黒い水面が、街灯を細長く映していた。

「ありがとうございました」とだけ言って、彼女はドアを閉めた。

帰宅してから、古い携帯を引っ張り出した。

押し入れの奥の段ボールに、なぜかずっと入れたままにしていた。自分でもよくわからなかった。捨てようと思ったことは何度もあった。でも、できなかった。

電源が入るか心配だったが、充電器を繋ぐとゆっくりと画面が光った。着信履歴を開くと、一番上に「さつき」という名前があった。十年前の秋の日付で、通話時間は六秒だった。

六秒。「ごめんね」と言って、切るのにかかった時間が、六秒だった。

折り返しの履歴が、その下にいくつも並んでいた。全部、繋がらなかったものだ。着信のたびに、どこかで画面を見ていたのだろうか。それとも、もう電源を切っていたのだろうか。

しばらくしてまた電池が切れた。画面が暗くなった。

私はその黒い画面を、しばらく見ていた。

十年間、理由がわからないことが、ずっと引っかかっていた。もしかしたら私が何かをしたのか、嫌われていたのか、飽きられたのか。そんなことを、何年も考えた。答えが出ないまま、考えることをやめた。やめようとした。

でも本当のことは、そうじゃなかった。

私を好きだったから、傍にいてほしかったから、だから離した。そういうことだったのか、と思ったら、何か大切なものを長い時間をかけてゆっくり受け取ったような気がした。うまく言えないが、そういう感覚だった。

翌朝、休みだったので港へ写真を撮りに行った。朝の光の中で、海がやけにきれいだった。雲の切れ間から差し込む光が水面に反射して、いつもと違う色をしていた。

シャッターを押しながら、ありがとう、と声に出してみた。

誰にも聞こえない声で、一度だけ。

その言葉が、あの六秒より少し長く、朝の空気の中に溶けていった。

カメラのファインダーを覗くと、光の加減で海の色がまた変わった。シャッターを押した。また押した。

今日撮った写真の中に、あの水族館の写真のように、誰かの後ろ姿が写り込むことはなかった。それでも、なぜかそれでよかった。

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