
俺が小学三年生の夏休みに体験した話だ。
今の今まで、すっかり忘れていた。
※
小学校の夏休みといえば、遊びまくった記憶しかない。
午前中は勉強しろという先生の指導で校庭は閉鎖されていたが、午後1時からは解放され、
俺たちは近所の男子と一緒に、体力づくりの名目で毎日のように遊びに行っていた。
だいたい午後5時頃には解散し、その帰り道には商店街の店で50円のアイスを買って食べるのが日課だった。
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アイスを食べる場所は、あまり使われていない駐車場。
5時を過ぎると、汗だくの小学生たちがそこに集まり、アイスを食べながらくだらない話に花を咲かせた。
駐車場のすぐ隣にはバス停があり、その後ろには公衆電話が立っていた。
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ある日、いつものようにアイスを食べていると、バス停に中学生くらいの女の子が立っていた。
目は大きな二重で、肩まで伸びた黒髪。背は150センチあるかないかくらい。
小柄だけど、大人びた雰囲気のある子だった。
その子は、商店街の時計台とバス停の時刻表を交互に見ながら、そわそわと落ち着かない様子だった。
「誰かを待ってるのかな」と思いながら、俺はあまり気にせずその日を終えた。
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次の日も、その女の子はいた。
相変わらず、時計台と時刻表を見つめていた。
「恋人でも待ってるのかな」と、どこか他人事のように思った。
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それからも、彼女は毎日のようにその場所に現れた。
ある日、とても暑い日だった。
友達の数人が倒れるほどの猛暑で、俺たちは学校の先生に早めに帰されることになった。
その日も彼女は、変わらずそこに立っていた。
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時間がたつにつれて、俺はだんだん気になってきた。
彼女は、誰をそんなに待っているのだろう?
何時間も炎天下の中で立ち続けて、何を待っているのか。
小学生だった俺の心にも、何かただならぬ気配が染み込んでいった。
※
日曜日。
学校の校庭は使えなかったが、俺は好奇心に負けてバス停に向かった。
午前11時にはさすがにいなかったが、アイスを数本買って待つことにした。
※
午後1時になるかならないかの頃、彼女が現れた。
その足取りはふらついていて、今にも倒れそうに見えた。
また、この暑さの中を……。
俺は怖くなって、家に帰ってしまった。
※
午後4時、夕立がやって来た。
激しい雨だった。
彼女の傘のことが気になって、俺は傘を持って駆け戻った。
バス停に立っていた彼女は、ずぶ濡れだった。
俺が傘を差し出すと、彼女は少し驚いたような表情で言った。
「あれ、さっきいた子?」
「うん。いつもここにおるで」
「そう。5時10分になると、小学生がたくさん来るのね」
「学校の校庭で遊んでるんよ」
「楽しそうね」
「楽しいよ」
※
しばらく雨音だけが響いていた。
「なぁ、ここにいつもおるけど、何しちょんの?」
聞いた瞬間、自分でも聞きすぎたと思った。
けれど、彼女はふふっと笑って言った。
「ある人を待ってるの」
「ある人って……恋人とか?」
「秘密」
大きな目を細めて笑うその顔に、子どもながらドキッとした。
俺は恥ずかしくなって、早々に帰ろうとしたが、彼女は傘を返そうとした。
「明日でええよ」
そう言って、俺は走って帰った。
※
次の日、彼女はいた。
俺を見つけると、また目を細めて手を振ってくれた。
友達たちはざわついたが、俺はアイスを食べながら無視を決め込んだ。
彼女はまた、時計台と時刻表を見つめていた。
※
やがて彼女は、俺たち小学生と一緒に遊ぶようになった。
名前は「千穂」と言った。
見たことも聞いたこともない名前だった。
※
ある日の夕食中、母さんが言った。
「うちの病院に困った子がいるのよ。中学生の女の子なんだけど……がんなの」
思わず箸が止まった。
病室を抜け出しては外に出ているらしい。
千穂姉ちゃんのことだと、すぐに分かった。
※
次の日、彼女に会った。
その細い腕も、静かな微笑みも、すべてが愛おしかった。
俺は母に相談した。
そして、その夜は泣いた。
どうして、こんなに優しい人が死ななきゃいけないのかと。
※
千穂姉ちゃんは、その後、病院から外に出ることはなくなった。
夏休みの終わりに、お見舞いに行った。
病室の彼女は、少しやせていたけれど、相変わらず目を細めて笑ってくれた。
それから、俺は何度もお見舞いに通った。
千穂姉ちゃんの家族も、まるで弟のように俺を迎えてくれた。
※
秋の終わりの土曜日。
学校帰りに病室を訪れると、千穂姉ちゃんが突然、血を吐いた。
俺は何もできずに、ただ叫んでいた。
その夜、母が静かに言った。
「千穂ちゃん、死んじゃったわ……」
分かっていた。
だけど、その言葉は、胸に深く刺さった。
※
葬式。
千穂姉ちゃんは、本当に今にも起きそうな顔をしていた。
触れることはできなかった。
涙は我慢していたけれど、心の中はぐしゃぐしゃだった。
※
数日後、千穂姉ちゃんの母から封筒が届いた。
中には、俺宛ての手紙が入っていた。
ユウトくんへ
これをよんでいるということは、私はついに死んじゃったのね。
私が死んでどれくらいたったかな?
「死ぬ」って言っても、消えるわけじゃないんだよ。
ユウトくんから見えないだけで、私はずっとユウトくんを見てるよ。
ほら、今、となりにいるでしょう?
いつも病室に入ってくるときに言うように、
「千穂姉ちゃん」って呼んでください。
私はあれを聞くのを毎日楽しみにしていたよ。今だって聞きたい。
ユウトくん、泣いてないよね?
元気あふれるユウトくんを見ていたいから。
おせわになりました。楽しかった。ありがとう。
10月12日 千穂姉ちゃんより
その手紙と一緒に、もうひとつ小さな封筒が入っていた。
裏には、こう書かれていた。
「私のたいせつなひとに書いたお手紙です。見つけたらわたしてください」
彼女は、その「たいせつなひと」のことを俺には一度も話さなかった。
だから俺は、いつかその人が現れる日を信じていた。
※
ランドセルにその封筒を入れて、毎日バス停を見た。
だけど――
あれから十数年。
「たいせつなひと」には、とうとう会えなかった。
この前、家の大掃除をしていたら、
タンスの奥から、あの封筒が出てきた。
封は……まだ開けていない。
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