千穂姉ちゃんが待っていたもの

公開日: ちょっと切ない話 | 恋愛

バス停の女の子

俺が小学三年生の夏休みに体験した話だ。

今の今まで、すっかり忘れていた。

小学校の夏休みといえば、遊びまくった記憶しかない。

午前中は勉強しろという先生の指導で校庭は閉鎖されていたが、午後1時からは解放され、
俺たちは近所の男子と一緒に、体力づくりの名目で毎日のように遊びに行っていた。

だいたい午後5時頃には解散し、その帰り道には商店街の店で50円のアイスを買って食べるのが日課だった。

アイスを食べる場所は、あまり使われていない駐車場。

5時を過ぎると、汗だくの小学生たちがそこに集まり、アイスを食べながらくだらない話に花を咲かせた。

駐車場のすぐ隣にはバス停があり、その後ろには公衆電話が立っていた。

ある日、いつものようにアイスを食べていると、バス停に中学生くらいの女の子が立っていた。

目は大きな二重で、肩まで伸びた黒髪。背は150センチあるかないかくらい。

小柄だけど、大人びた雰囲気のある子だった。

その子は、商店街の時計台とバス停の時刻表を交互に見ながら、そわそわと落ち着かない様子だった。

「誰かを待ってるのかな」と思いながら、俺はあまり気にせずその日を終えた。

次の日も、その女の子はいた。

相変わらず、時計台と時刻表を見つめていた。

「恋人でも待ってるのかな」と、どこか他人事のように思った。

それからも、彼女は毎日のようにその場所に現れた。

ある日、とても暑い日だった。

友達の数人が倒れるほどの猛暑で、俺たちは学校の先生に早めに帰されることになった。

その日も彼女は、変わらずそこに立っていた。

時間がたつにつれて、俺はだんだん気になってきた。

彼女は、誰をそんなに待っているのだろう?

何時間も炎天下の中で立ち続けて、何を待っているのか。

小学生だった俺の心にも、何かただならぬ気配が染み込んでいった。

日曜日。

学校の校庭は使えなかったが、俺は好奇心に負けてバス停に向かった。

午前11時にはさすがにいなかったが、アイスを数本買って待つことにした。

午後1時になるかならないかの頃、彼女が現れた。

その足取りはふらついていて、今にも倒れそうに見えた。

また、この暑さの中を……。

俺は怖くなって、家に帰ってしまった。

午後4時、夕立がやって来た。

激しい雨だった。

彼女の傘のことが気になって、俺は傘を持って駆け戻った。

バス停に立っていた彼女は、ずぶ濡れだった。

俺が傘を差し出すと、彼女は少し驚いたような表情で言った。

「あれ、さっきいた子?」

「うん。いつもここにおるで」

「そう。5時10分になると、小学生がたくさん来るのね」

「学校の校庭で遊んでるんよ」

「楽しそうね」

「楽しいよ」

しばらく雨音だけが響いていた。

「なぁ、ここにいつもおるけど、何しちょんの?」

聞いた瞬間、自分でも聞きすぎたと思った。

けれど、彼女はふふっと笑って言った。

「ある人を待ってるの」

「ある人って……恋人とか?」

「秘密」

大きな目を細めて笑うその顔に、子どもながらドキッとした。

俺は恥ずかしくなって、早々に帰ろうとしたが、彼女は傘を返そうとした。

「明日でええよ」

そう言って、俺は走って帰った。

次の日、彼女はいた。

俺を見つけると、また目を細めて手を振ってくれた。

友達たちはざわついたが、俺はアイスを食べながら無視を決め込んだ。

彼女はまた、時計台と時刻表を見つめていた。

やがて彼女は、俺たち小学生と一緒に遊ぶようになった。

名前は「千穂」と言った。

見たことも聞いたこともない名前だった。

ある日の夕食中、母さんが言った。

「うちの病院に困った子がいるのよ。中学生の女の子なんだけど……がんなの」

思わず箸が止まった。

病室を抜け出しては外に出ているらしい。

千穂姉ちゃんのことだと、すぐに分かった。

次の日、彼女に会った。

その細い腕も、静かな微笑みも、すべてが愛おしかった。

俺は母に相談した。

そして、その夜は泣いた。

どうして、こんなに優しい人が死ななきゃいけないのかと。

千穂姉ちゃんは、その後、病院から外に出ることはなくなった。

夏休みの終わりに、お見舞いに行った。

病室の彼女は、少しやせていたけれど、相変わらず目を細めて笑ってくれた。

それから、俺は何度もお見舞いに通った。

千穂姉ちゃんの家族も、まるで弟のように俺を迎えてくれた。

秋の終わりの土曜日。

学校帰りに病室を訪れると、千穂姉ちゃんが突然、血を吐いた。

俺は何もできずに、ただ叫んでいた。

その夜、母が静かに言った。

「千穂ちゃん、死んじゃったわ……」

分かっていた。

だけど、その言葉は、胸に深く刺さった。

葬式。

千穂姉ちゃんは、本当に今にも起きそうな顔をしていた。

触れることはできなかった。

涙は我慢していたけれど、心の中はぐしゃぐしゃだった。

数日後、千穂姉ちゃんの母から封筒が届いた。

中には、俺宛ての手紙が入っていた。


ユウトくんへ

これをよんでいるということは、私はついに死んじゃったのね。
私が死んでどれくらいたったかな?

「死ぬ」って言っても、消えるわけじゃないんだよ。
ユウトくんから見えないだけで、私はずっとユウトくんを見てるよ。

ほら、今、となりにいるでしょう?
いつも病室に入ってくるときに言うように、

「千穂姉ちゃん」って呼んでください。
私はあれを聞くのを毎日楽しみにしていたよ。今だって聞きたい。

ユウトくん、泣いてないよね?
元気あふれるユウトくんを見ていたいから。

おせわになりました。楽しかった。ありがとう。

10月12日 千穂姉ちゃんより


その手紙と一緒に、もうひとつ小さな封筒が入っていた。

裏には、こう書かれていた。

「私のたいせつなひとに書いたお手紙です。見つけたらわたしてください」

彼女は、その「たいせつなひと」のことを俺には一度も話さなかった。

だから俺は、いつかその人が現れる日を信じていた。

ランドセルにその封筒を入れて、毎日バス停を見た。

だけど――

あれから十数年。

「たいせつなひと」には、とうとう会えなかった。

この前、家の大掃除をしていたら、
タンスの奥から、あの封筒が出てきた。

封は……まだ開けていない。

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