不格好な湯呑み

静かな朝の湖畔の家庭

朝の五時に目が覚める。三十年、変わらない。

布団を畳み、台所に立って湯を沸かす。棚の奥から、あの湯呑みを取り出す。釉薬のかかりが不均一で、持ち手のあたりが微妙に歪んでいる。結婚したばかりの頃、妻が陶芸体験で焼いた湯呑みだった。

「下手くそだな」

受け取った日にそう言った俺に、妻は「じゃあ捨てて」と返した。捨てなかった。翌朝から毎日、この湯呑みで茶を飲んだ。理由は自分でもわからない。ただ、手に馴染んだ。それだけのことだ。

俺は左官職人をやっている。湖のほとりにある小さな町で、父親の代からこの仕事を継いだ。壁を塗る。ただそれだけの仕事だ。派手さはない。誰かに褒められることもない。ただ、塗った壁が何十年も残る。それが俺のやってきたことだった。

父は無口な男だった。仕事のことを言葉で教えてくれたことは殆どない。ただ黙って壁に向かい、鏝を動かす。俺はその背中を見て育った。壁の呼吸を読め。土が乾く速さを手で感じろ。父の教えは全部、背中から盗んだものだった。

妻の陽子とは、この町の盆踊りで知り合った。無口な女だった。俺も無口だった。だから都合が良かったのかもしれない。互いに多くを語らず、朝になれば俺は現場へ出て、陽子は家を守った。

三十年の間、俺は一度も妻に「ありがとう」と言ったことがない。妻もまた、俺の仕事について何か言ったことはなかった。弁当は毎朝、玄関の靴の横に置かれていた。帰れば風呂が沸いていた。夏は麦茶が冷やしてあり、冬は味噌汁が温め直されていた。それが当たり前だと思っていた。当たり前のことに、礼を言う必要などないと思っていた。

五十五になった年の秋、最後の現場が決まった。湖の対岸にある古い料亭の土壁を塗り直す仕事だった。

若い衆に現場を任せることが増えていた。膝が悪くなり、足場に長く立てなくなっていた。親方から「そろそろ考えろ」と言われたのは、もう二年も前のことだ。

最後の現場だと、妻には言わなかった。言っても仕方がないと思った。妻は俺の仕事に興味がない。三十年、一度も現場に来たことがないのだから。

朝、いつも通り弁当が玄関に置いてあった。いつも通り、「行ってくる」とだけ言った。妻は台所から「うん」とだけ返した。それがいつもの朝だった。

料亭の壁は、思った以上に傷んでいた。長年の湿気で下地が浮き、角の部分にはひびが走っていた。

俺はまず古い壁を丁寧に落とした。下地を整え、新しい土を練った。左官の仕事は、急いではいけない。土が呼吸する速さに合わせる。それを父に教わった。

鏝を持つ手は、五十五年分の癖がついている。力の入れ方、角度、引きの速さ。体が覚えている動きを、ただ繰り返す。壁と対話するように、一面ずつ仕上げていった。

若い衆の松本が、休憩の時に聞いてきた。

「親方、壁塗ってる時、何考えてるんすか」

「何も考えてない」

そう答えた。嘘ではなかった。壁を塗っている間、俺の頭は空っぽになる。手だけが動く。呼吸と鏝の動きだけが残る。それが三十年かけて辿り着いた境地なのか、ただの惰性なのか、俺にはわからなかった。

三日かけて、土壁は生まれ変わった。朝の光が当たると、土の粒子がかすかに輝いて見えた。湖からの風が障子を揺らし、光の筋が新しい壁の上をゆっくりと移動した。我ながら、悪くない仕事だと思った。

道具を洗っている時、料亭の女将が声をかけてきた。

「職人さん、奥さんによろしくお伝えくださいね」

俺は手を止めた。

「うちの妻を、ご存じですか」

女将は少し驚いた顔をして、それから笑った。

「ご存じも何も。奥さん、うちにいらしたことがありますよ。もう三年ほど前でしょうか。このお座敷の壁を見て、『主人が塗った壁です』とおっしゃっていたんです」

俺は黙って女将の顔を見た。

「それで、『いつかここを塗り直す時が来たら、主人に頼んでいただけませんか』と。まだまだ綺麗だったんですけどね、あの頃は。でも奥さん、とても誇らしそうでしたよ。壁に手を当てて、しばらくじっと触れていらっしゃいました」

鏝を洗う水が、指の間をすり抜けていった。

この現場を紹介してくれたのは、親方だった。親方に頼んだのは、誰だったのか。三十年、一度も現場に来たことがないと思っていた妻が、俺の塗った壁を見に来ていた。それも、俺のいない時に。

帰り道、湖沿いの県道を走りながら、あちこちの建物が目に入った。

駅前の交番。商店街の呉服屋。小学校の体育館の外壁。湖畔の公民館。どれも、俺が手がけた壁だった。

陽子は、これを全部知っていたのだろうか。俺のいない場所で、俺の塗った壁の前に立ったことがあったのだろうか。あの無口な女が、壁に手を当てて、何を思っていたのだろうか。

湖の上に夕陽が落ちかけていた。水面がオレンジ色に染まり、対岸の山の稜線が紫に霞んでいた。この景色を何千回と見てきた。でも今日は、滲んで見えた。

ハンドルを握る手が、少しだけ震えた。

家に着くと、いつも通り玄関の灯りがついていた。

靴を脱ぎ、居間に上がると、陽子が台所に立っていた。背中しか見えない。三十年、ずっとこの背中を見てきた。少しだけ丸くなった背中。若い頃はもっと姿勢が良かった。いつから丸くなったのか、俺は知らない。

「風呂、沸いてるよ」

いつもの一言だった。俺はいつもなら「ああ」とだけ返す。今日もそう返すつもりだった。

だが、先に茶を飲みたくなった。あの湯呑みで。

棚から湯呑みを取り出し、急須から茶を注いだ。温かい茶が、不格好な器を満たしていく。

一口飲んで、湯呑みを両手で包んだ。いつもの手触りだった。釉薬の凹凸が指に当たる。三十年、毎朝触れてきた感触だ。

ふと、湯呑みをひっくり返してみた。

理由はわからない。三十年間、一度もそんなことをしたことがなかった。ただ、今日は見てみたくなった。

底に、小さな文字が彫られていた。

釉薬に半ば埋もれて、爪の先でなぞらなければ読めないほど小さな字。焼く前に、細い棒か何かで刻んだのだろう。

「ずっと、そばに」

五文字だった。

陶芸体験の日、「下手くそだな」と笑った俺に、「じゃあ捨てて」と言った妻。あの時、もう底にはこの文字が刻まれていたのだ。

捨てられるかもしれないと知りながら、それでも刻んだのだ。

俺は左官職人だ。壁に言葉は書かない。ただ塗る。ただ整える。でも陽子は、湯呑みの底に言葉を隠した。見つけてもらえなくてもいい場所に、たった五文字を刻んだ。

俺たちは似た者同士だったのだ。言葉にできない想いを、手仕事に込めることしかできない、不器用な二人だったのだ。

台所から、包丁がまな板に当たる音が聞こえていた。

俺は湯呑みを食卓に置き、立ち上がった。台所の入口に立って、陽子の背中を見た。

「陽子」

妻が振り向いた。手には大根を持っていた。

「何」

俺は口を開いた。三十年分の言葉が胸の奥で渋滞していた。ありがとう。すまなかった。気づかなくて。お前がいてくれたから。全部、言いたかった。

でも、出てきた言葉はひとつだけだった。

「……あの湯呑み、いい湯呑みだな」

陽子は少しだけ目を見開いて、それから視線を大根に戻した。

「三十年経って、やっと気づいたの」

その声は、少しだけ震えていた。

翌朝も五時に目が覚めた。

台所に立ち、湯を沸かし、あの湯呑みを棚から取り出した。持ち上げる前に、底を見た。

「ずっと、そばに」

五文字は昨日と同じ場所にあった。当たり前だ。三十年間、ずっとそこにあったのだから。

茶を注ぎ、一口飲んだ。いつもと同じ味のはずだった。でも今朝は、少しだけ甘く感じた。

居間に戻ると、玄関に弁当が置かれていた。いつもと同じ場所に、いつもと同じ包み方で。

ただ、今日の弁当の包みの上に、小さな付箋が貼ってあった。

「いってらっしゃい」

三十年で初めて見る、妻の書いた付箋だった。

俺は付箋を丁寧に剥がし、作業着の胸ポケットにしまった。

引退は、もう少し先にしようと思った。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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