明石までのベンチと、三年生の約束

ベンチ

JR大久保駅から通勤していた頃の話です。

当時、週に 2日だけ「 10時までに舞子に着けばいい」という勤務がありました。

朝はゆっくりできるし、電車も空いていて、正直かなり快適でした。

ホームへ降りる階段を下りてすぐのところに、いつも同じベンチがありました。

僕はそこに書類カバンを置き、缶コーヒーを飲みながら電車を待つのが習慣になっていました。

ある朝、階段の上から元気な声が飛んできました。

「おかぁちゃん!ここ座れるで!座りや!」

小学生くらいの男の子が、お母さんの手を引くようにしてやって来たのです。

しまった、と思いました。

僕はベンチにカバンを置いて、ひとり分を占領していたからです。

慌ててカバンをどけました。

すると、その子が僕を見上げて言いました。

「ほら、 2人座れんでー」

その言い方が、妙に偉そうで、でもまっすぐで。

母親と目が合い、僕は座る場所をふさいでいたバツの悪さから、軽く会釈をしました。

次の瞬間、その子はさらに追い打ちをかけるように言いました。

「おっちゃん!ここ座るとこやで!モノ置いたらあかんねんで~」

僕は思わず苦笑いして返しました。

「ごめんな~、ぼうず。

偉いな~」

すると、その子は胸を張って言いました。

「ボクもう三年生やもん」

鼻水を垂らしながら。

僕は心の中で「おい、鼻水」と突っ込みながら、なぜだか笑ってしまいました。

その親子は二つ目の明石駅で降りて行きました。

背中を見送っていると、なんだか胸の奥が温かくなりました。

仲が良さそうで。

いいなぁ、って。

それから何度か、同じ時間帯でその親子と一緒になりました。

顔を合わせるたび、あの子が僕に話しかけてきます。

「おっちゃん、また大きいカバン持って…仕事大変やな~」

タメ口です。

毎回。

でも、不思議と嫌じゃありませんでした。

むしろ、少し嬉しかった。

「おかあちゃん、おかぁちゃん」

そう言いながら、お母さんを気遣う様子が、子どもらしいのに健気で。

僕はだんだん、そのガキ……いや、その子が、まあまあ可愛く思えてきていました。

ところが、しばらくすると、その親子とはぱったり会わなくなりました。

僕の勤務も変わり、遅い出勤の日もなくなってしまったのです。

そんなある日、日曜日なのに休日出勤になってしまい、昼頃にホームで電車を待っていました。

そこで、思いがけず、あの子を見つけました。

隣にいたのは母親ではなく、父親でした。

僕が声をかけると、あの子はいつもの調子で答えました。

「今日はおとんとお出掛けか?」

「うん!

いまからおかぁちゃんとこ行くねん」

一瞬、胸がざわっとしました。

お母さんのところに“行く”。

一緒に住んでいる言い方じゃない。

僕が言葉を探していると、あの子は続けました。

「おかぁちゃん、病院おってんけど、今日帰ってくんねん」

そこで、ようやく腑に落ちました。

この子がいつもお母さんを気遣っていたのは、通院の付き添いだったからなんだと。

そうか。

ただ仲がいい親子だっただけじゃない。

毎朝のあの時間には、理由があったんだ。

僕は思わず言いました。

「そっか…。

おかぁちゃん、早く元気になったらええな」

すると、あの子は少しだけ笑って、そして最後に言いました。

「おっちゃんも仕事頑張れやぁ」

やっぱりタメ口でした。

それから半年くらいが経ちました。

駅前がクリスマス一色に染まって、街の空気まで浮かれて見える季節。

その頃、僕はまた偶然、ホームであの子に会いました。

今度は一人でした。

胸が嫌な予感で締めつけられました。

僕は、できるだけ普通の声で聞きました。

「今日は一人か?

おかん、元気か?」

すると、あの子は淡々と言いました。

「おかぁちゃん、死んでもてん…」

その瞬間、ホームの音が遠くなった気がしました。

行き交う人の足音も、電車のブレーキ音も、全部が薄い膜の向こうにあるみたいでした。

僕は情けない大人でした。

何も言ってやれませんでした。

「大丈夫か」

「辛かったな」

「泣いてええんやで」

そんな言葉が、頭の中にはいくつも浮かびました。

なのに、どれも口に出せなかった。

結局、僕らは同じ電車に乗りました。

窓の外をぼんやり眺めながら、僕の中で言葉にならない思いが膨らんでいきました。

あのお母さんは、そんなに重い病気だったんだ。

だからあの子は、あんなに必死に「おかぁちゃん、おかぁちゃん」って呼んでいたんだ。

この半年、どれだけ悲しい時間を過ごしてきたんだろう。

考えれば考えるほど、胸が苦しくなって、目の奥が熱くなりました。

気づけば、僕は静かに泣いていました。

僕が降りる駅が近づいてきて、どうしても声をかけたくなりました。

「どこまで行くん?

ひとりで大丈夫か?」

あの子は、いつもの顔で、いつものように返しました。

「大丈夫や!」

そして、少し胸を張って、あの朝と同じ言葉を言いました。

「ボク、もう三年生やもん」

その言葉が、なぜか胸に刺さりました。

強がりなのか。

本当に強いのか。

子どもが背伸びして必死に立っている姿なのか。

僕には、もう見分けがつきませんでした。

僕は降り際に、もう一度だけあの子の顔を見ました。

何か言いたかったのに、結局、言えませんでした。

ドアが閉まり、電車が動き出しました。

窓越しに遠ざかっていくあの子の姿が、いつまでも頭から離れませんでした。

その日、僕は初めて分かりました。

あの朝、ベンチで垂れていた鼻水は、ただの子どもっぽさじゃなかったのかもしれないと。

そして、その日は。

「今日は俺が鼻水出してた」

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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