底の焦げた鍋で仲直りした

お味噌汁(フリー写真)

うちの台所には、底の焦げた鍋がある。

片手の、小さいやつだ。

内側に黒い輪が一本、消えずに残っている。

妻は十一年、その底の焦げた鍋で味噌汁をつくってきた。

新しい鍋は、結婚祝いにもらったのが戸棚に二つある。

どちらも、箱から出されていない。

取っ手に貼られた値札のシールも、そのままだ。

十一年前にもらったものを、十一年しまっている。

その理由を、俺はつい先週まで知らなかった。

あの朝、俺はその鍋を床にひっくり返した。

前の晩、動画を見ていて三時まで起きていた。

目覚ましは五時半に鳴る。

市の収集は、朝が早い。

起きた瞬間から、世界の全部が気に食わなかった。

前の日、班長に段取りのことで長く言われていた。

言われた内容は正しかった。

正しいから、言い返せなかった。

言い返せなかったぶんが、そっくり家まで残っていた。

台所では、もう火が使われていた。

うちの朝は、だいたい同じ音から始まる。

換気扇と、包丁がまな板を叩く音。

その日は、なめこだった。

前の晩に安かったのだと、あとで知った。

「仕事行くの嫌だな」

食卓に座って、俺はそう呟いた。

返事はいらなかった。

妻が何か言えば、それを理由に怒れる。

何も言わなければ、無視されたことにして怒れる。

どちらでも怒れる用意が、その朝の俺にはできていた。

妻は、何も言わなかった。

前にも同じことがあって、それで一度、俺はひどいことを言った。

あいつはそれを憶えている。

憶えているから、黙る。

黙られると、馬鹿にされている気がした。

「なんとか言えよ」

「おかわり、ある?」

「そういうことじゃねえよ」

俺は椀を掴んで、腕を振った。

味噌汁が飛んで、壁と床に散った。

椀は割れなかった。

割れるより悪い落ち方だった。

壁のクロスに、茶色い筋が三本ついた。

上から下へ、順番に垂れていく。

俺はそれを、他人の家のことのように見ていた。

実はなめこと豆腐だった。

豆腐が、床の隅まで転がっていった。

鍋も一緒に落ちた。

片手鍋の柄が、ステンレスの流し台にぶつかって高い音を立てた。

「片づけろよ」

言いながら、自分でも意味がわからなかった。

妻は立ち上がって、布巾を取りに行った。

泣いていた。

声は出さない人だ。

肩の落ち方でわかる。

右の肩だけが、先に下がる。

それを見たのは、結婚してから四度目だった。

四度とも、原因は俺だ。

流しに捨てた味噌汁

妻は、鍋に残っていた分を流しに捨てた。

まだ半分は入っていた。

捨てる前に、一度だけ蓋を開けて中を見ていた。

それから、傾けた。

なめこが流れていく音が、やけに長く聞こえた。

それから、蛇口をひねって鍋に水を張った。

湯気の残った鍋に水が当たって、小さな音が鳴った。

俺は食卓に座ったまま、背中だけを見ていた。

声をかける機会は、あの水の音の間に何度もあった。

一度も、かけなかった。

洗い物のとき、あいつはその鍋だけ、たわしを使わない。

スポンジの柔らかいほうで、内側を撫でるように洗う。

毎晩そうしている。

十一年見ていて、俺は一度も理由を聞かなかった。

聞くほどのことではないと思っていた。

うちの台所の決まりごとは、全部あいつが決める。

俺は米も研げない。

研げないことを、恥ずかしいと思ったこともなかった。

その朝も、あいつは同じ手つきで洗った。

床の味噌汁を拭いたあとで、鍋を洗った。

順番が逆だろう、と思った。

思っただけで、手伝わなかった。

玄関に、弁当が置いてあった。

前の晩に詰めてある。

俺は、それを見た。

見て、持たずに出た。

持っていけば、謝ったことになる気がした。

弁当の中身は、見なくてもわかる。

甘い玉子焼きと、前の晩の残りの煮物。

ご飯の真ん中に、梅干しが一つ。

十一年、ほとんど変わらない。

変わらないことに、俺は一度も礼を言っていない。

ドアを閉めるとき、内側で布巾を絞る音がした。

階段を下りながら、その音がずっと追ってきた。

自転車置き場で、俺は一度だけ二階を見上げた。

ベランダに、洗濯物はまだ出ていなかった。

いつもなら、あの時刻には干し終わっている。

それを見て、初めて腹の底が落ち着かなくなった。

落ち着かないまま、俺はペダルを踏んだ。

靴を履くとき、あいつの靴が目に入った。

つま先が、ちゃんと外を向けて揃えてあった。

俺の靴もだ。

毎朝、あいつが揃えている。

夫は靴を外へ向けて並べたという話を読んだことがあるが、うちは逆だ。

揃えているのは、いつもあいつのほうだった。

収集車の助手席

その日の担当は、丘の上の団地だった。

集積所が十四か所ある。

坂の途中の三番目だけ、猫よけのネットが毎回ずれている。

直すのは、だいたい俺の役だ。

指定袋の口が破れているのを、そのまま持つと手にかかる。

その朝は二度かかった。

助手席の相棒は、六十近い人だ。

「今日、口数少ないね」

相棒とは、三年同じ車に乗っている。

背が低くて、腰が悪くて、それでも袋を持つのがいちばん速い。

「寝不足です」

「嘘つけ」

そう言って、それ以上は聞かなかった。

丘の上の団地は、朝七時を過ぎると人が出てくる。

七番の集積所には、いつも同じおばあさんが立っている。

袋を出すためではなく、話す相手を待つために立っている。

その日も「ご苦労さん」と言われた。

「どうも」とだけ返した。

おばあさんは、俺の顔を見て少し黙った。

「喧嘩したね」

図星だった。

「わかりますか」

「返事が短いもの」

そう言って、笑って戻って行った。

九番の集積所で、袋の底が抜けた。

生ごみが道に散って、二人でしゃがんで拾った。

相棒が、拾いながら言った。

「うちの奥さんはね、怒ると飯を増やすんだよ」

「増やすんですか」

「減らすと弱るからって」

「はあ」

「三十年、一度も減らされてない」

その話の意味が、俺には昼までわからなかった。

昼、詰所で弁当を広げる時間になった。

俺はコンビニのおにぎりを二つ買っていた。

相棒が、自分の弁当の玉子焼きを一切れ、こっちの蓋に載せた。

「甘いほうだよ」

「どうも」

うちの弁当の玉子焼きも、甘いほうだ。

妻は砂糖を多めに入れる。

俺が塩のほうが好きだと言ったことは、たぶん一度もない。

玉子焼きを噛みながら、朝のことを思い出した。

壁に飛んだ味噌汁の茶色い筋。

布巾を取りに行く背中。

声を出さずに泣くときの、肩の落ち方。

全部、はっきり思い出せた。

思い出せるのに、その場では何も見えていなかった。

おにぎりは、鮭と昆布だった。

どちらも、うちの弁当には入らない具だ。

包装を剥がしながら、指がまだ味噌の匂いをさせている気がした。

朝、拭いたのは俺ではない。

それなのに匂いだけが、こっちに残っていた。

午後は、雨が来た。

最後の集積所で、袋がぬかるみに沈んでいた。

両手で持ち上げて、荷台に放る。

放りながら、俺はひとつ決めた。

カッパの内側が蒸れて、シャツが背中に貼りついていた。

坂を下りながら、団地の窓を見た。

どの窓にも、誰かの夕方がある。

うちの窓に、今日は誰がいるのか。

考えると、ペダルが重くなった。

帰りに何か買って帰ろう。

菓子でも花でも、何でもいい。

底の焦げた鍋の輪

駅前のスーパーに寄った。

惣菜の棚の前で、十分ほど立っていた。

何を買えばいいのかわからなかった。

花は、あいつの前で気取りすぎる。

菓子は、それで済ませたことになる。

結局、何も買わずに出た。

レジの前で一度、いなり寿司のパックを手に取った。

戻した。

あいつはいなりが好きだが、俺が買ったいなりではない気がした。

店の外で、レシートも持たずに立っていた。

自動ドアが、二度開いて二度閉まった。

向かいの花屋は、もう閉めかけていた。

店先のバケツを片づけている人と目が合った。

「まだ大丈夫ですよ」

そう言われて、俺は首を振った。

花を抱えて帰る自分を、想像できなかった。

想像できないことは、だいたいやらないほうがいい。

そのときはそう思った。

いまは、買って帰ればよかったと思っている。

自転車を漕ぎながら、腹の底が冷えていった。

もしかしたら、実家に帰っているかもしれない。

前に一度、荷物をまとめかけたことがある。

あのときは、あいつの母親が止めた。

二度目を止めてくれる保証は、どこにもない。

あのとき、あいつは荷物を半分だけ鞄に入れて、やめた。

やめた理由を、俺は聞いていない。

聞けば、次があることを認めることになる。

そう思って、十一年ごまかしてきた。

角を曲がって、うちのアパートが見えた。

二階の端の窓に、明かりがついていた。

俺は自転車を止めて、しばらくその窓を見ていた。

階段を上がると、匂いがした。

玉ねぎと、バターと、肉の匂いだ。

うちでいちばんいい匂いがする料理を、俺は知っている。

ドアを開けるのに、鍵を二回落とした。

三和土に、あいつのサンダルがあった。

実家に帰っていない。

その一点だけで、膝から力が抜けた。

「おかえり」

台所から声がした。

あいつは、鍋を両手で持って振り向いた。

軍手みたいな鍋つかみを両手にはめて、胸の高さまで持ち上げていた。

中身は、ビーフシチューだった。

「これで仲直りしよう」

そう言って、笑った。

目は、まだ少し腫れていた。

俺は、玄関に立ったまま動けなかった。

土産を買えなかったことを、言おうとして言えなかった。

「重いから、早く」

あいつに急かされて、俺はやっと靴を脱いだ。

食卓には、皿が二枚出ていた。

スプーンも二本。

パンが、袋ごと置いてある。

俺が朝にひっくり返した壁は、きれいに拭いてあった。

筋の跡は、光の加減でわずかにわかる。

あいつは、その壁を背にして座った。

「拭いたの、いつ」

「朝」

「仕事は」

「休んだ」

惣菜売り場のパートは、その日が遅番だった。

休めば、その分は出ない。

俺は、それ以上聞けなかった。

十一年前の保温ジャー

食卓に置かれた鍋を見て、俺は手が止まった。

底の焦げた鍋だった。

朝、俺が床に落としたやつだ。

洗って、そのまま夕方の煮込みに使ったらしい。

片手鍋で牛すじを煮るには小さすぎる。

何度かに分けて煮たのだと、あとで聞いた。

時間は、四時間かかったそうだ。

昼過ぎから火を入れていたことになる。

俺が詰所で玉子焼きを噛んでいた頃だ。

あの人は、あの時間からもう仲直りの支度をしていた。

こっちは、スーパーの惣菜の棚の前で十分立っていただけだった。

「新しいの、使えばいいだろ」

「これがいちばん火の当たりがいいの」

あいつはそう言って、玉じゃくしを入れた。

黒い輪が、シチューの面に一瞬だけ見えて、また沈んだ。

十一年前のことを思い出した。

あいつが一週間入院した年だ。

秋で、病室の窓から中学校の校庭が見えた。

毎日、同じ時間に音楽が鳴った。

あいつはベッドの上で、その音を待っているようなところがあった。

検査の結果は、三日目に出た。

先生の説明は長かったが、要点は短かった。

難しいでしょう、ということだ。

あいつは頷いて、俺の手の甲を二回叩いた。

慰められたのは、俺のほうだった。

その晩、あいつは一度だけ「ごめんね」と言った。

何に対しての謝罪なのか、俺はわかっていて、わからないふりをした。

子どもができないことがわかって、検査が続いた頃だった。

俺は毎日、病院の帰りにコンビニで買って食っていた。

一度だけ、何か作って持って行こうとした。

台所のことは何も知らなかった。

鍋を火にかけたまま、ベランダで電話をした。

戻ったら、部屋が煙かった。

あのとき何を作ろうとしたのかを、俺は憶えていない。

憶えているのは、窓を全部開けて換気扇を回したことだけだ。

結局、その日はコンビニの茶碗蒸しを持って行った。

あいつは蓋を開けて、少し驚いた顔をした。

それから「あったかい」と言った。

温めてもらってきた、とは言わなかった。

自分でやったことにしておきたかったのだと思う。

病室を出るとき、あいつが背中に声をかけた。

「今日、台所使った?」

俺は、使ってないと答えた。

嘘だった。

嘘をついた理由は、格好がつかないからだ。

それだけだった。

あいつは笑って、全部食べた。

台所の話は、一度も出なかった。

退院の日、迎えに行くと、荷物はもうまとめてあった。

紙袋がひとつ増えていた。

中身は、看護師さんにもらった折り込みの料理の切り抜きだったらしい。

帰りのバスで、あいつはそれを膝の上で読んでいた。

読みながら、一度だけ笑った。

何がおかしいのか聞いたら、

「あなたにも作れそうなのがあった」

と言った。

その切り抜きは、いまも冷蔵庫の横のファイルに挟まっている。

十一年、俺は一度も開いていない。

本当に食いたかったもの

シチューは、うまかった。

俺は二杯食べて、三杯目に手を伸ばして、やめた。

やめた理由は、自分でもわかっていた。

あいつは、食べるのが遅い。

昔からそうだ。

俺が二杯目を食べ終わる頃に、やっと半分減っている。

その速度に合わせて食卓に座っていたことが、この十一年でどれだけあっただろう。

その晩は、最後まで座っていた。

座っているあいだ、あいつは仕事の話を少しした。

惣菜のコロッケが値下げの時間より早く売り切れたこと。

新しい人が入って、名前がまだ覚えられないこと。

どれも、朝の話とは関係のないことだった。

関係のない話をしてくれることの意味が、その晩はよくわかった。

あいつが、まだ一杯目の途中だったからだ。

食べ終わって、俺は流しに立った。

洗い物くらいは、と思った。

片手鍋を持ったとき、内側の黒い輪に指が触れた。

十一年、同じ位置にあった輪だ。

スポンジで撫でると、少しだけ手応えがある。

「たわし使うなよ」

台所の入口で、あいつが言った。

「なんで」

「落ちちゃうから」

「落としたほうがいいだろ」

あいつは、少し黙った。

「あなたが焦がしたやつだから」

俺は、水を止めた。

焦げを付けたのは、俺だった。

十一年、あいつはそれを毎晩、落とさないように洗っていた。

あのとき捨てられていても、何もおかしくなかった鍋だ。

「捨てなかったのか」

「うん」

「なんで」

「あなたが台所に立った、唯一の証拠だから」

あの日、俺が煙を出したのはこの鍋だったのだ。

持って行こうとしたものが何だったのかは、いまも思い出せない。

あいつは憶えている。

「味噌汁」

と、あっさり言った。

「なめこの」

俺は、朝に自分が流しに捨てさせたものの名前を、そこで聞いた。

そう言って、あいつは笑った。

朝の顔と、同じ場所に皺が寄った。

俺はその晩、朝の分の謝罪をやっと言った。

言葉は短かった。

気の利いたことは、何も言えなかった。

あいつは「はい」とだけ答えて、鍋を戸棚に戻した。

戸棚のいちばん手前の段だ。

結婚祝いの新しい鍋は、いまも奥にある。

翌朝、俺は五時半に起きた。

弁当を持って出た。

玄関で、靴を自分で外に向けて揃えた。

それから、あいつのぶんも揃えた。

外へ向けて、つま先を。

やってみると、思ったより時間がかかる作業だった。

あいつは毎朝、これを二人ぶんやっている。

夫の隠しごとと蚊帳の裾のように、うちにも長く言われないままの物がある。

底の焦げた鍋は、たぶんこれからも戸棚の手前にある。

あの日以来、俺は味噌汁を残さない。

それでも、ひとつだけ言えないままのことがある。

本当は、あの朝の味噌汁が飲みたかった。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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