
戦時中の沖縄でのことです。
当時12歳だった叔父は、自然の洞穴を利用した「壕」に身を潜めていました。
そこには、同じように避難していた住民たちと、部隊からはぐれた大怪我を負った兵士たちが共に隠れていました。
暗い壕の中で、人々は息を潜めるようにしてじっと耐えていたといいます。
しかし、ある日、壕の外から米軍のマイク放送が響きました。
「ハヤクデテキナサー」
降伏を促す呼びかけです。
当時、住民も兵士も、米軍に見つかれば誰彼構わず殺されると信じていました。
壕の中は恐怖と緊張に包まれ、誰もが「ついに最期か」と死を覚悟していたそうです。
そんなとき、ひとりの住民が口を開きました。
「ずーっと壕の中にいたから、せめて一目、太陽を見てから死にたいサー」
その言葉に、他の人々も次々と賛同しました。
「そうサー。どうせやられるなら、せめて外の空気を吸ってからにしたいサー」
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普通なら、日本兵は住民の降伏に激昂し、スパイ扱いして暴力をふるったり、銃を向けたりするのが当たり前の時代でした。
実際、他の壕ではそうした悲劇がいくつも起きていたそうです。
けれど、叔父のいた壕では違っていました。
物資も乏しく、劣悪な状況であるにもかかわらず、住民と兵士の間には深い信頼が生まれていたのです。
その信頼を象徴する存在が、若い将校でした。
彼は横になりながらも地面に指で文字をなぞり、少年だった叔父に漢詩を教えてくれた人でした。
その将校は、降伏を決意した住民たちに向かって、穏やかに、しかし力強く言いました。
「俺たちも後から行くからな。しっかり死んでこい!」
そして、満面の笑みで敬礼をしたのです。
叔父も涙を堪えながら敬礼を返し、他の住民たちと共に、壕を出る決意を固めました。
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住民たちが壕の外に出ると、米兵は彼らを一か所に集め、壕から離れるように指示しました。
そしてその直後、数人の兵士が火炎放射器で壕の中を焼き払いました。
中に残っていた兵士たちは――誰一人として助かりませんでした。
叔父は今でも、酒を飲むと当時のことを思い出して涙ぐみます。
「のうのうと生きていて申し訳ない」と。
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戦後、叔父はあの将校のことがどうしても忘れられませんでした。
戦場で沖縄の人々を見下したり、差別的な言葉を浴びせる兵士が多かった中で、その将校だけは違っていたのです。
彼は食料が乏しい中でも、子どもや妊婦を優先するように部下へ指示していました。
自分は毒ではないが硬くて食べづらい木の実を齧っては、「やけに硬いな」と笑っていたそうです。
ある日、部下が弱音を吐いたとき、将校は明るく叱咤しました。
「貴様、たるんでいるぞ。ここにいる沖縄臣民を守らずして、なにが軍人だ!」
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夜になれば、真っ暗な壕の中には一切の光が差さず、銃声が遠くから響き、ときおり静寂が訪れる――そんな恐ろしい空間が続いていました。
それでも誰も発狂せずに過ごせたのは、あの将校の存在があったからだと、叔父は今でも語ります。
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やがて叔父は、経済的に少し余裕ができたこともあり、あの将校の遺族を探し始めました。
そして、ついに面会が叶いました。
叔父は、あの戦場での思い出と、将校がいかに人間味あふれる立派な人物だったかを涙ながらに語ったそうです。
それを聞いた遺族の方は、ぽろぽろと涙をこぼしながら、こう言いました。
「実に、親父らしいです」
そして、泣きながら笑ったそうです。
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叔父の胸の奥に今も生き続ける将校の姿は、ただの戦争の記憶ではなく、「人が人を想う」という希望の記憶だったのでしょう。