10分後の別れ

恋人

その夜は、付き合って三年目の記念日でした。

彼は手料理を用意して、私の帰りを待っていてくれました。

けれど私は、仕事が長引いてしまい、約束の時間に帰れませんでした。

ようやく帰宅した時には、せっかくの料理は冷めてしまっていました。

私はいつもどおり、軽く謝って済ませようとしました。

ところが、その日の彼は違いました。

言葉が強く、態度もきつかったのです。

私も体調がよくなく、仕事のストレスも溜まっていました。

話しているうちに、理性より苛立ちが先に出てしまいました。

そして、言ってはいけない言葉を投げつけました。

「もういい。

こんな些細なことで、そこまで怒ることないでしょ。

あなたは自分の都合でしか物事を考えられないの?」

彼は黙りました。

反論も、言い訳もせず、ただ沈黙しました。

その沈黙が、あとになって思えばいちばん怖かったのに。

少しして、私も言い過ぎたと気づきました。

けれど素直に謝れず、席を立ちました。

頭を冷やそうと思い、家を出たのです。

いつも通う小さな喫茶店で、三十分ほど時間をつぶしました。

コーヒーを飲みながら、ようやく冷静になっていきました。

彼は、ただ怒りに任せて責めたわけじゃない。

今日という日を、私以上に大切にしていたからこそ、あんなふうになったのではないか。

そう考えた瞬間、胸の奥がじくじく痛みました。

私の振る舞いは最低だった。

身勝手だった。

彼の気持ちを踏みにじった。

そう思うほど、早く帰って謝りたくなりました。

私は、家に向かって歩き出しました。

けれど、帰宅すると。

彼は家にいませんでした。

料理はそのまま。

携帯電話も机の上に置いたまま。

几帳面な彼が携帯を忘れるなんて、珍しいことでした。

私は近くにいるのだと思いました。

すぐ戻ってくるつもりで、家を出たのだろうと。

だから私は、近辺を歩き回りました。

公園。

近くの空き地。

いつも彼が立ち寄る場所。

けれど、どこにもいませんでした。

彼の実家に電話をしました。

友人にも電話をしました。

携帯を覗き、連絡先を片っ端から辿りました。

でも、誰も彼を知らないと言いました。

家に戻り、二時間が経ちました。

私はその時、少し腹を立てていました。

帰ってきたら頬をつねってやろう、と。

心配させすぎだ、悪ふざけが過ぎる、と。

明日は休日だから、こんなことをしているのだろう、と。

それが、彼との最後の夜になりました。

事故が起きたのは、家の近くの一方通行の十字路でした。

横から飛び出してきた車と衝突し、即死だったそうです。

時刻は、10時20分。

ちょうど私が家を出て、十分が経った頃でした。

私は、その数字を何度も頭の中で反芻しました。

十分。

たった十分。

私が喫茶店へ向かって歩いていた時間。

彼が、私のために外へ出た時間。

警察から、彼の遺品について聞かされました。

そこにあったのは、たった三つだけでした。

缶コーヒーが一本。

女性用のガウンジャケットが一着。

現金が百二十円。

それを聞いた瞬間、息が止まりました。

ガウンジャケットは、私のものでした。

寒い夜に、私が外へ出たのを見て、追いかけようとしたのかもしれない。

それとも、仲直りのあとに「はい、これ」って肩に掛けてくれるつもりだったのかもしれない。

缶コーヒーも、未開封だったと聞きました。

彼はいつも、私が疲れている時に缶コーヒーを買ってくれる人でした。

きっと、あの夜も。

あの冷えた料理の前で、きつい言葉をぶつけたあとでも。

私を責めながらも、私を気遣っていた。

そして、百二十円。

ジュース一本分にも満たない、ほんの少しの小銭。

でも私は、それがいちばん苦しかった。

その小さな金額の中に、彼の「今すぐ、何かをしてあげたい」という優しさが詰まっている気がしたからです。

私はその場で、声にならない声を出しました。

涙が止まりませんでした。

一緒に帰りたかった。

ただそれだけのことが、どうしてできなかったのだろう。

あの夜の私は。

彼の愛情の大きさを、あまりにも軽く見ていました。

そして、失って初めて。

彼がどれほど私の毎日を支えていたのかを知りました。

悔しかった。

情けなかった。

胸の奥が、ずっと痛かった。

缶コーヒー一本。

ジャケット一着。

百二十円。

彼の優しさは、最後の瞬間まで、私のほうを向いていました。

だからこそ私は、いまでもあの夜を思い出すたび、同じ言葉を胸の中で繰り返してしまいます。

一緒に帰りたかった。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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