青磁の湯呑み

ギャラリーの入り口と海の眺め

あの人に最後に会ったのは、十七年前の三月だった。

中学を卒業する日、美術室に寄った。いつもの場所に先生は座っていて、窓の外を見ていた。俺はドアの前に立ったまま、何も言えなかった。

「おう、来たか」

先生はそう言って、棚から小さな湯呑みを取り出した。青磁の、縁がほんの少し欠けた湯呑みだった。

「これ、お前に」

受け取ったとき、指先がかすかに震えた。何か言わなければと思ったのに、喉の奥が詰まって、声にならなかった。

先生は笑って、「行け」と言った。

それきりだった。

俺は写真家になった。雑誌の仕事をもらったり、小さな展示を開いたり、なんとか食えるようになった。撮るのはいつも風景だった。人の顔を撮るのが苦手で、どうしてもレンズを向けられなかった。

顔を向けた瞬間に相手が構えてしまう。その取り繕った表情を撮ることに、どうしても抵抗があった。風景は嘘をつかない。だから風景ばかり選んだ。

先生の名前は村瀬といった。俺が中学に入ったとき、すでに五十手前の、白髪交じりの男だった。美術の授業はいつも静かで、先生はほとんど喋らなかった。生徒が描いている横に立って、じっと見ている。それだけだった。

俺は絵が下手だった。何を描いても歪んで、色を塗ればにごった。クラスメイトは笑った。俺も自分で嫌になって、画用紙をぐしゃぐしゃにしたことがある。

そのとき先生がやってきて、丸まった紙を丁寧に開いた。皺だらけの絵をしばらく見つめてから、「悪くない線だ」と言った。

その一言が、なぜか胸に深く刺さった。

それから俺は、放課後に美術室に通うようになった。先生はいつも奥の椅子に座って、自分の絵を描いていた。水彩画だった。港の風景が多かった。淡い筆の運びで、光の粒を一つずつ置くような描き方をする人だった。

俺が隣で黙々と描いていても、何も言わなかった。でも時々、「ここの影、もう少し薄くしてみろ」と声をかけてくれた。言葉は少なかったけれど、その一言一言が的確で、俺の手を確かに導いた。

二年間、ほとんど毎日通った。先生との会話は少なかったけれど、あの美術室の静けさが好きだった。窓から射す西日の色が刻一刻と変わっていくのを、二人で眺めた。あの光の移ろいを見つめる時間が、俺にとっては何よりの授業だった。

先生が教えてくれたのは、絵の技術じゃなかった。目の前にあるものを、焦らずに見ること。そのまま受け止めること。それが後に、俺をカメラに向かわせた。

卒業の日、美術室で湯呑みを受け取ったとき、「ありがとうございました」と言うつもりだった。それだけでよかった。たった一言でよかったのに、俺は何も言えずに廊下を走った。背中が焼けるように熱かった。

三十歳を過ぎてから、ある雑誌の企画で瀬戸内の港町を撮ることになった。

坂の多い町だった。路地が入り組んで、どこを歩いても海が見えた。潮の匂いと、猫と、干された洗濯物。石畳の隙間から雑草が顔を出し、どこかで風鈴が鳴っていた。ファインダーを覗くたびに、どこか懐かしいような気持ちになった。

三日目の午後だった。坂の途中にある小さなギャラリーの前を通りかかった。白い壁に、手書きの看板がかかっていた。

「村瀬義郎 水彩画展」

足が止まった。

嘘だろう、と思った。同姓同名かもしれない。だけど看板の横に貼られた小さなポスターに、見覚えのある筆致があった。柔らかくにじんだ水色と、淡い灰色で描かれた港。先生の絵だった。間違いなかった。

ガラス戸を押して中に入った。狭い空間に、二十枚ほどの水彩画が並んでいた。港、坂道、漁船、石段に座る猫。どれもこの町の風景だった。先生は退職してから、この町に移り住んだのだろうか。

一枚一枚、ゆっくり見て回った。あの頃と変わらない、透明感のある色使い。ただ、少しだけ筆が柔らかくなっていた。年月がそうさせたのだと思った。

奥に、一枚だけ違う絵があった。

美術室だった。西日の射す窓辺に、二つの椅子が並んでいる。一つには画材が置かれ、もう一つは空いている。その空いた椅子の座面に、青磁の湯呑みが描かれていた。

目が熱くなった。

「あの、お客さん」

振り返ると、受付にいた若い女性がこちらを見ていた。

「村瀬先生は、今日はいらっしゃらないんですけど……明日の午後、在廊されますよ」

翌日、俺は朝からそわそわしていた。カメラを持って町を歩いたが、何も撮れなかった。何を撮ろうとしても、手が落ち着かない。海が光って、路地に猫がいて、完璧なシャッターチャンスが何度もあったのに、一度も指が動かなかった。

午後二時にギャラリーへ向かった。入口の引き戸を開けると、奥の丸椅子に先生が座っていた。

白髪が増えていた。少し痩せた。でも背筋は伸びていて、膝の上に両手を置いている姿勢は、あの美術室のときと同じだった。

先生が顔を上げた。

数秒の沈黙があった。先生は目を細めて、俺をじっと見た。

「……大きくなったな」

その声を聞いた瞬間、喉の奥にまた何かがこみ上げた。十七年前と同じだった。言葉が出てこない。伝えたいことはたくさんあるのに、どれも形にならない。

先生は立ち上がって、奥の棚から何かを取り出した。

電気ケトルだった。

「茶でも飲むか」

先生は二つの湯呑みに茶を注いだ。一つは白い、何の変哲もない湯呑み。もう一つは——。

先生がそれを俺に差し出したとき、息が止まりそうになった。

青磁の湯呑みだった。縁がほんの少し欠けた、あの湯呑みと同じものだった。

「対のやつだよ」と先生は言った。「もう片方はお前にやっただろう」

俺は湯呑みを両手で受け取った。温かかった。先生の湯呑みと並べると、釉薬の色がほんの少しだけ違う。片方は深い青で、もう片方はわずかに緑がかっている。でも形は同じだった。同じ窯で焼かれたものだとわかった。

「先生」

「うん」

「俺、先生に——」

言葉が途切れた。また、出てこない。三十を過ぎても、俺は何も変わっていなかった。伝えたいことがあるのに、肝心なときに声が出ない。情けなくて、湯呑みを握る手に力が入った。

先生は茶を一口飲んで、窓の外を見た。坂の向こうに、海が光っていた。

「お前の写真、見たよ」

え、と顔を上げた。

「三年前の写真集。本屋で見つけた。名前を見て、すぐにわかった」

先生はゆっくりと続けた。

「いい写真を撮るようになったな。光の捉え方が優しい。お前らしいと思った」

俺はうつむいた。涙がぽたぽたと、膝の上に落ちた。止められなかった。

「先生、俺……ちゃんとお礼を言いたかった。あのとき、美術室で。ずっと、ずっと言いたかった」

先生は黙って茶を飲んでいた。しばらくして、静かに言った。

「言わなくてもわかっとったよ。お前は絵が下手だったが、見る目はあった。それだけで十分だった」

「でも俺——」

「お前がカメラを構えるとき、たぶん同じ目をしとるだろう」

先生はそう言って、もう一口、茶を飲んだ。

湯呑みの茶が冷める頃、俺は先生に「一枚、撮らせてください」と言った。

人の顔を撮るのが苦手な俺が、初めて自分から頼んだ。

先生は少し驚いた顔をして、それから笑った。「好きにしろ」と言って、窓際の椅子に座り直した。

シャッターを切った。ファインダーの中に、西日を浴びた先生がいた。穏やかな顔だった。あの美術室で、俺の描いた皺だらけの絵をじっと見つめていたときと、同じ目をしていた。

東京に戻ってから、押入れの奥にしまっていた湯呑みを取り出した。十七年間、割れないように布に包んだまま、一度も使わなかったものだ。

青磁の表面に、小さな欠けが残っている。先生の湯呑みと合わせれば、きっとぴたりと寄り添う形なのだろう。

台所でお湯を沸かして、茶を入れた。湯呑みに口をつけたとき、港町の潮の匂いがよみがえった。西日の色が、瞼の裏に広がった。

先生、ありがとうございます。

口に出して言ってみた。誰もいない部屋に、自分の声だけが響いた。でも、もう喉は詰まらなかった。十七年かけて、ようやく言えた。

窓の外では、夕暮れの光がビルの隙間からこぼれていた。あの港町の西日に、少しだけ似ていた。

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